わび)” の例文
まだ幼稚園の冬子はその時間中相手になってくれる人がないので、仲間はずれのわびしさといったようなものを感じているらしかった。
小さな出来事 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
今日まで生きて来て、何も彼も、国とともに喪失してしまつてゐると云ふ感情は、背筋が冷い、この冬の雨のやうなわびしさだつた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
奥から出て来たあによめに彼は頼んだ。寝巻姿や洋服の子供がぞろぞろと現れた。みんな、かつて八幡村でわびしい起居をともにした戦災児だった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
そして、雨を降らしたり、谷間に吹雪ふぶきを積らせたりする雲が、このわびしい、淋しい住居よりも下の方にかかることもめずらしくなかった。
三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗いわびしい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風のきしる音が虚空ですると、鎧扉がわびしげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上でひしげて行く。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
ラック大将は、その後の快報を、待ちわびていた。もう快報の到着する頃であると思うのに、前線からは、何の便りもなかった。
二、〇〇〇年戦争 (新字新仮名) / 海野十三(著)
なまじっか、花のない花瓶かびんが置いてあるのが、かえってわびしい。赤や緑のあさましい色ガラスをはめこんだ窓から、下のぞめきが聞えてくる。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
紹巴は、歌の席に、場馴ばなれている。なにくれとなく心をくばり、また席の空気を、息づまるようなわびしさにさせまいとする。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鰥夫やもめ暮しのどんなわびしいときでも、苦しいときでも、柳の葉に尾鰭おひれの生えたようなあの小魚は、妙にわしに食いもの以上の馴染なじみになってしまった
家霊 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
四条河原の非人ひにん小屋の間へ、小さな蓆張むしろばりのいおりを造りまして、そこに始終たった一人、わびしく住んでいたのでございます。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
部屋々々に灯がはいって、お館は生きかえったようであった。この手狭な家に主を迎えて、わびしく思わせまいとする精一ぱいの心遣いであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
自分は子供の時分からこの金盥を見て、きっと大人おとな行水ぎょうずいを使うものだとばかり想像して、一人うれしがっていた。金盥は今ちりわびしく汚れていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それよりも、徹夜の温習おさらいに、何よりか書入かきいれな夜半やはんの茶漬で忘れられぬ、大福めいた餡餅あんもあぶったなごりの、餅網が、わびしく破蓮やればすの形で畳に飛んだ。
霰ふる (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
まっくらな闇に迷いこむようなわびしい気が平一郎に起きた。無論、そうした「迷い」のもう一つ底には充実した輝かな力が根を張ってはいたけれど。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
しかしまだまだその頃にはわたしは孤独のわびしさをば今日の如くいかにするとも忍びがたいものとはしていなかった。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
このゆふべ隆三は彼に食後の茶をすすめぬ。一人わびしければとどめて物語ものがたらはんとてなるべし。されども貫一の屈托顔くつたくがほして絶えず思のあらかたする気色けしきなるを
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
そうして、北向きの格子窓のすすけた障子ににじんでいる十一月下旬の黄昏たそがれちかい光りが、これらの物の上にいかにもわびしく、寒ざむとした色を投げていた。
雪と泥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
諏訪湖すわこにまたは天竜川に、二人の兄弟は十四年間血にまみれながら闘ったが、その間しがらみと久田姫とは荒廃あれた古城で天主教を信じわびしい月日を送っていた。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
すべてはわびにかぎると拔道をこしらへて、夜更けてからの切りばり、大きな銀杏の葉二枚をきりぬいて張つた。
おとづれ (旧字旧仮名) / 長谷川時雨(著)
さりとも子故に闇なるは母親の常ぞ、やがては恋しさに堪えがたく、我れとわびして帰りぬべきものをと覚束おぼつかなきを頼みて、十五日は如何に、二十日は如何に
琴の音 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
船橋という町には俺は始めてだが、あれはまことわびしい町だな。昼間だというのに日暮みたいな感じがする。それが賑かじゃないのかといえば結構賑かなんだ。
(新字新仮名) / 梅崎春生(著)
そんなわびしい冬の旅を続けている自分のその折その折のいかにも空虚うつろな姿が次から次へとふいと目の前に立ち現われて、しばらくそのままためらっていた……。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
わびしく、頼りなく、にんじんはじっとしている——退屈が来るなら来い! ばちが当たるなら当たれ! だ。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
更に揃つて下りて来るジヤンクの暗いわびしい帆に、そこらに集つてあたりを眺めてゐる船客の群に——。
(新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
その先生の礼節がしみじみといたわしく、大変わびしくてならないのだった。そこで按吉は或る日言った。
勉強記 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
彼は一種の恍惚こうこつのうちに孤独な日々を過ごした。もはや自分の病気や冬やわびしい光や孤独などのことを考えなかった。周囲のすべてが光り輝いて愛を含んでいた。
「あの占いやさん、人の好いわびしそうな顔をしているねえ。折角奮発しなさいって云ってくれたよ。」
早春 (新字新仮名) / 小山清(著)
同じ閑中の趣にしても、蜂の巣を伝う屋根の漏のわびしさ、面白さは、おのずかあんたしむるものがある。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
何卒なにとぞ御示下され度希上候。土山の下の終に、深山にわびしくくらし居り候老僧にかしづきゐる婦人の京の客の帰り行くをたゝずみてはるかに見送る心情、いかにも思ひやられ候。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
あとでぼくは、練習をめてから、めっきり増えた面皰づらをで、苦くわびしい想いでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙にわびしい感想かんじを起させもする。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
秋がくると、来た風が流れのおもてを、音もなく渡った。私は、その小波をわびしく眺めた。
利根の尺鮎 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
夜ふけて、わが子の行末を思うわびしさがこの世への厭離えんりの念をそそるわけでもあるまい。
親馬鹿入堂記 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
笠は長途の雨にほころび、紙衣かみこはとまり/\のあらしにもめたり。わびつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士此国このくににたどりしさまを不図ふとおもひいで申侍もうしはべる。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
うしたわびしい心持の時に限って思出されるのは、二年ぜん彼を捨てゝ何処どこへか走ったグヰンという女であった。彼女は泉原の不在るすの間に、銀行の貯金帳をさらって行方ゆくえくらまして了ったのである。
緑衣の女 (新字新仮名) / 松本泰(著)
いつも何処どことなく暗い影のつき纏う、山民のわびしい生活を想わせる。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
女ひとりというものは、わびしいものだなあ。
おごそかで、ゆたかで、それでゐてわびしく
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
如何いかわびしからまし。
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
二度目に遇ったのも、やはりそのわびしいビルの一室であった。会合が終ったとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
扉の前には一人の召使バトラーが立っていて、法水がその扉を細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間をわびしげに揺れている、寛闊な空気に触れた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
「武田殿が御内みうちにて、原美濃守みののかみが三男、仔細なそうろうて、鳴海の東落合に、年ごろわび住居な仕る桑原甚内くわばらじんないともうす者でござる」
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こういう静けさとこういうひろさのなかで、彼らは思わず、点描にも及ばぬ自分の姿を思い描くのである。面を伏せたようなわびしいものに捕われる。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
アパートの三階の、私のわびしい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗くどんよりと曇っていた。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
品物しなものわびしいが、なか/\の御手料理おてれうりえてはるし冥加みやうが至極しごくなお給仕きふじぼんひざかまへて其上そのうへひぢをついて、ほゝさゝえながら、うれしさうにたわ。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
つひには溜息ためいききてその目を閉づれば、片寝にめるおもて内向うちむけて、すその寒さをわびしげに身動みうごきしたりしが、なほ底止無そこひなき思のふちは彼を沈めてのがさざるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
稼ぎ帰りの合羽やみのを着た人がゆき交い、濡れた犬が尾を垂れて通ったりした。軒の低い、ちぢかんだような家並、いかにも貧しく、わびしげな街であった。
七日七夜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
昨日から、この小さいラジオが馬鹿にたゝつてゐるやうで、ゆき子は、その三味線の音色にわびしくなつてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
ただその大きい目前もくぜんの影は疑う余地のない坊主頭ぼうずあたまだった。のみならずしばらく聞き澄ましていても、このわびしい堂守どうもりのほかに人のいるけはいは聞えなかった。
伝吉の敵打ち (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)