一条ひとすじ)” の例文
旧字:一條
朦朧もうろうと見えなくなって、国中、町中にただ一条ひとすじ、その桃の古小路ばかりが、漫々として波のしずか蒼海そうかいに、船脚をいたように見える。
絵本の春 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
行書で太く書いた「鳥」「蒲焼かばやき」なぞの行燈あんどうがあちらこちらに見える。たちまち左右がぱッとあかるく開けて電車は一条ひとすじの橋へと登りかけた。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
お前はまるで皺だらけな、力の脱け切つた顔貌かおつきをして笑つた。その皺に、みんな一条ひとすじ、何か冷い液体が滲み出るやうな顔貌かおつきをしながら……。
海の霧 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
そして、その蘆の葉の間に一条ひとすじの水が見えて、前後して往く二三せきの小舟が白い帆を一ぱいに張って音もなく往きかけた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
三年前、半死の岸本の耳に一条ひとすじの活路をささやいてくれた海は、もう一度故国の方へと彼を呼ぶように成った。その声はた彼の耳に聞えて来た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
こうして虎口の難をのがれた張遼は、やがて曹操に追いついて合体したが、両軍合わせても五百に足らず、しかも一条ひとすじの軍旗すら持たなかったので
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこからは道が一条ひとすじであった。神楽坂かぐらざかの下まで来ると、世界がにわかに明るくなった。人の影もちらほら見えていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
二回往復した四条よすじの跡が印されていて、それ以外には、扉口とぐちから現在人形のいる場所に続いている一条ひとすじのみだった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
自分は小山にこの際の自分の感情を語りながら行くと、一条ひとすじの流れ、薄暗い林の奥から音もなく走りでまた林の奥に没するほとりに来た。一個の橋がある。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
そこには一条ひとすじのりっぱな地下道がついていた。人造人間は、そのうえを、走りだした。だんだんスピードがあがってきて、風がひゅうひゅう鳴りだした。
人造人間の秘密 (新字新仮名) / 海野十三(著)
鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条ひとすじそそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
のちは汝等二人決して分れをることをすべからず、たとへば一条ひとすじの糸にては象をつなぐこと難けれど多くの糸を集めてなわとなさば大象をも係ぐを得べきがごとく
印度の古話 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
と言葉残して芳野が一条ひとすじ黒煙くろけむりをおき土産に品川を出帆されました。此方こなたの花里でございます。
お前の過去にあった一条ひとすじの不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それはわずかばかりのまれなる天才にのみ委ねられた仕事だからである。だがここにも神の準備は不可思議である。異なる一条ひとすじの道を通して、衆生にも美の現しが許されている。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
それでおき見渡みわたしても、一つの帆影ほかげも、また一条ひとすじけむりあとることがなかったのです。
黒い旗物語 (新字新仮名) / 小川未明(著)
伊香保より水沢みさわ観音かんのんまで一里あまりの間は、一条ひとすじの道、へびのごとく禿山はげやまの中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまたい上がれるほかは
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
奇麗にならした畑は一条ひとすじ一条丁寧に尺竹しゃくだけをあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へうねを立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種をれば、赤児を負った若いかみさんが竹杖たけづえついて
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
馬は一条ひとすじの枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背ねこぜの老いた馭者ぎょしゃの姿を捜している。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
ただ一条ひとすじに助けられたかったのである。苦痛や悲哀や不調和や罪そのものを選ぼうとする心は甘いでき心である。人生の外道である。運命を直視せよ。脅かさるるがごとく救いを求めよ。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
あたかも濃い霧の中からパッと一条ひとすじの光が射して、一瞬にして、また元の霧の中へ消え去るように、この未知の大陸も再び永遠の霧の彼方に閉ざされてしまうのではあるまいかと考えますと
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
下にはまずまばらに茅葺屋根かやぶきやね、大根の青い畑が連って、その下に温泉場、二階三階、大湯から出る湯の煙、上を仰ぐと、同じはたけ斜坂さか爪先つまさき上がりになっている間に一条ひとすじの路がうねうねと通って
ネギ一束 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
見よ前方数間すうけんのところに一条ひとすじの縄が道に引っ張られてあるではないか。
式部官が突く金総きんぶさついたる杖、「パルケット」の板に触れてとうとうと鳴りひびけば、天鵝絨びろうどばりの扉一時に音もなくさとあきて、広間のまなかに一条ひとすじの道おのずから開け、こよい六百人と聞えし客
文づかい (新字新仮名) / 森鴎外(著)
蘆の中に、色の白いせたおうな高家こうけの後室ともあろう、品のい、目の赤いのが、朦朧もうろうしゃがんだ手から、蜘蛛くもかと見る糸一条ひとすじ
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼はたちま佃島つくだじま彼方かなたから深川へとかけられた一条ひとすじの長い橋の姿に驚かされた。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それを踏んで雑木林の間にある一条ひとすじの細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ほど経て、一滴のしづくのやうな悲しさを一つの場所に感じてゐた。そして、冷え冷えとただよふものが一条ひとすじばかりゆるやかに身体をぬうて流れていつた。
Pierre Philosophale (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
本流からわかれた一条ひとすじの流れがななめに来てかわらすそで岸の竹藪たけやぶに迫っていたが、そこには二三そうの小舟がとびとびにつないであった。四人はその小舟の方へ往った。
赤い土の壺 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「然らば、もし貴説があたったときには、予は魏帝から拝領した玉帯ぎょくたい一条ひとすじと名馬一頭をご辺に贈ろう」
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここの町よりただ荒川一条ひとすじへだてたる鉢形村といえるは、むかしの鉢形の城のありたるところにて、城は天正てんしょうの頃、北条氏政ほうじょううじまさの弟安房守あわのかみ氏邦の守りたるところなれば
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そうしてどこからか一筋の日光がして来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条ひとすじで好いから先まで明らかに見たいという気がしました。
私の個人主義 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
異なる一条ひとすじの道を通して衆生にも美の現しが許されている。凡夫さえも美にたずさわり得る道、それが工藝の一路である。丁度無学な者にも神との邂逅かいこうが許されているのと同じである。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
大麦小麦はとくにられて、畑も田も森も林も何処を見てもみどりならぬ処もない。其緑の中を一条ひとすじ白く西へ西へ山へ山へとって行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
すると、蜘蛛くも糸のような一条ひとすじの光線が隙間から洩れて、それが蚊帳かやを透し、皺ばった頬のうえに落ちた。滝人はしばらく動悸どうきを押さえ、死の番人のように、その顔を黙視していた。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
式部官が突く金総きんぶさついたるつえ、「パルケット」の板に触れてとうとうと鳴りひびけば、天鵝絨ビロードばりの扉一時に音もなくさとあきて、広間のまなかに一条ひとすじの道おのづから開け、こよひ六百人と聞えし客
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
一条ひとすじ青烟けぶりの悠々と空に消えて行くのを見ることがある。
漁師の娘 (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
茶店のえんに腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の新道しんみち一条ひとすじ勿論もちろん不可いけない。峠にかかる山越え、それも覚束おぼつかない。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
青く濁った水のおもては鏡の如く両岸の土手をおおう雑草をはじめ、柳の細い枝も一条ひとすじ残さず、高い空の浮雲までをそのままはっきりと映している。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そしてお前は急ぎはじめる、急ぐうちに僕のみ一人侘しく遠い岩壁にさく残して、お前は白い石畳をだんだん早い速力で、ただ一条ひとすじに駈けぬけて行く。
海の霧 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
そうして今ちょうどその夢をおっかけようとしている途中なのだ。かえりみると過去から持ち越したこの一条ひとすじの夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
睨みつめていても何時いつの間にというけじめも分らぬまに、ほのかに姉川の水面が白みかけたと思うと、林のこずえいて、一条ひとすじの紅い雲が、伊吹山の肩のあたりに見出された。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
台地の上へは一条ひとすじ小径こみちがついていた。女はその台地の下へ往くと、ふと姿を消した。
月光の下 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
身の分際を忘れてか、と泣き声になり掻き口説く女房のこうべは低く垂れて、まげにさされし縫針のめどくわえし一条ひとすじの糸ゆらゆらと振うにも、千々に砕くる心のさまの知られていとどいじらしきに
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
あの光悦こうえつ作と云わるる著名な「鷹ヶ峯たかがみね」と銘する茶碗を見られよ。あの手作りの高台こうだい、あの一条ひとすじ篦目へらめ、何たる技巧の仕業であるか。あの自然な自由な「井戸いど」の茶碗の前に何の面目があろうか。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
白く降埋ふりうずんだ往来には、人や馬の通るあと一条ひとすじ赤くいている——その泥交どろまじりの雪道を、おつぎさんの凍った身体は藁蓆むしろの上に載せられて、巡査小吏やくにんなぞに取囲まれて、静に担がれて行きました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ただ一条ひとすじにたどりしのみ。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
渡り越して、その姿、低い欄干を放れると、俤橋は一点の影も留めず、後になって、道は一条ひとすじ、美しくその白足袋の下に続いた。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
殊に自分が呱々ここの声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密こまかい枝振りの一条ひとすじ一条にまでちゃんと見覚えのある植込うえごみこずえを越して屋敷の屋根を窺い見る時
伝通院 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
雪をやうやく切りひらいてたつた一条ひとすじ走つてゐる冷めたい鉄路を考へたり、眠むるまも耳のまはりに絡みついて離れない車輪の響きを考へると、堪えがたかつた。