たち)” の例文
このたちには一人として我を憎むものなし。されど尼寺の心安きには似ず。こは小尼公アベヂツサの獨り我に對し給ふとき、屡〻宣給ひし詞なり。
「しかしまたことによると、このたち擒人とりことなっている咲耶子を助けだそうという考えで、この甲府こうふ潜伏せんぷくしているようにも考える」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、国司や、奥方おくがたの身のまわりの用を足してやりました。これがために国司のたちなどでは、「宇賀の老爺」「浜の宇賀」などと云って、非常に重宝がりました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ストラアセなるたちをたずねて、さきにフォン、ビュロオ伯が娘イイダ姫に誓いしことを果さんとせしが、もとよりところの習いにては、冬になりて交際の時節来ぬうち
文づかい (新字新仮名) / 森鴎外(著)
助のたちの人々此の事を聞きて大いにあやしみ、先づはしめて、十郎掃守をも召具めしぐして寺に到る。
くら昨日きのふ今日けふ千騎せんきあめおそふがごとく、伏屋ふせやも、たちも、こもれるとりでかこまるゝしろたり。
五月より (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
氷川なる邸内には、唐破風造からはふづくりの昔をうつせるたちと相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造れんがづくりあやしきまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄すきにて、独逸に名ある古城の面影おもかげしのびてここにかたどれるなりとぞ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
花のたちわれ住むべくもあらぬかな
七百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
亜刺比亜アラビヤ魔法まはふたち薄笑うすわらひ
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
領主のたち太刀試合たちじあひ
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
あれたるたちの花妻の
花守 (旧字旧仮名) / 横瀬夜雨(著)
たちひめ
孔雀船 (旧字旧仮名) / 伊良子清白(著)
松をすかしてチラチラ見えるいくつものは、たち高楼こうろうであり武者長屋むしゃながやであり矢倉やぐら狭間はざまであり、長安歓楽ながやすかんらく奥殿おくでんのかがやきである。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
暑き二箇月の間は、たちの人々チヲリに遊び給ひぬ。わがその群に入ることを得つるは、恐らくは小尼公の緩頬くわんけふに由れるなるべし。
そこにはたちうちと云う小字があって、祐泰の宅趾やしきあとと云われ、祐泰の力持をしたと云う石もあった。
火傷した神様 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
祖父おほぢ播磨はりま一四赤松に仕へしが、んぬる一五嘉吉かきつ元年のみだれに、一六かのたちを去りてここに来り、庄太夫にいたるまで三代みよて、一七たがやし、秋をさめて、家ゆたかにくらしけり。
柳のたちあとを左右に見つつ、くるまは三代の豪奢ごうしゃの亡びたる、草のこみちしずかに進む。
七宝の柱 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「正月十一日(阿部侯正寧まさやすたちに)罷出候。御手のし頂戴は相すみ、又御目通に出よとのこと、さむさはさむし、腹はつかへる、御断申帰候。」亦「無奈衰躬負我情」の句の註脚とすべきものである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
菊のたち五男それ/″\手をついて
六百句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
領主のたちの太刀試合
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
むろんそれは、手組てぐみいかだにのってほりをこえ、たちのそうどうにじょうじて、ここへ潜入せんにゅうしてきた、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう巽小文治たつみこぶんじのふたりである。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
車はボルゲエゼのたちの前にまりぬ。僮僕しもべは我をいざなひて館の最高層に登り、相接せる二小房を指して、我行李をおろさしめき。
今歳ことしの正月、長者が宇賀の老爺おじいれて、国司こくしたちに往って四五日逗留とうりゅうしている留守に、むすめは修験者の神秘におかされていたが、そのころになってその反動が起っておりました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
守、此のぬすびとさぐとらふために、一六五助の君文室ふんや広之ひろゆき、大宮司のたちに来て、今もつぱらに此の事を一六六はかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀一六七いかさまにも下司したづかさなどのくべき物にあらず。
草庵を菊のたちとも誇りけり
七百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
知りての願いあり。かくいわばきのうはじめて相見て、ことばもまだかわさぬにいかでと怪しみたまわん。されどわれはたやすく惑うものにあらず。君演習すみてドレスデンにゆきたまわば、王宮にも招かれ国務大臣のたちにも迎えられたもうべし
文づかい (新字新仮名) / 森鴎外(著)
土豪にしては無能なほど、隣郡との軋轢あつれきなども避け、ただ無事を守っている水分みくまりたちだったが、それにしてさえ、敵はあった。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
下顎したあごの出た猿のようなこの老人は、どこへでもしゃあしゃあと押しだして往って、何人たれとでも顔馴染かおなじみになりました。国司こくしたちなどに往くと、十日も二十日はつかもそこにいることがありました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
花のたち謡の会もありぬべし
七百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
新兵衛たちは一こう四、五十人の徴税使をつれて世良田へ入った。といっても、義貞の居館へではない。その隣の“たちぼう”とよぶ寺だった。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おそらく清高の島後のたちでは、彼も鎌倉の特使にじきじき会っていただろう。それが急遽、別府へ帰されてきた理由の一ツは
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
火は、本丸のたちにも燃え移っていた。大廂おおびさし雨樋といはしる火のはやさといったらない。長政は、そのあたりをくぐって来る一隊の鉄甲てつかぶとをみとめて
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山腹や麓の部落には、さくらも桃も一しょに咲いてきたし、下赤坂しもあかさかの城、また、かつての水分みくまり御本屋ごほんやたち)も、みな新しく建て直っている。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はばかって、寄せつけてはくれませぬ。……というて、道誉のたちへ引っ立てられて行くほどなら、死んだがましでございまする。高氏さま……
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「前の月には、西美濃の津島祭つしままつり堀田道空ほったどうくうたちまで、祭見に参って、も忍びすがたで、踊りぬいたが、踊りはよいもの、日吉祭が待ち遠いのう」
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのしょうやひちりきの音から伊勢の宮の稚児ちごたちおもい出され、んだ足をひき摺って登った鷲ヶ岳の樹々の氷花つららが、ふと考え出されたのであろう。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甲斐かい信濃しなのを駈けまわり、さらに、その時は脚をのばして、奥州平泉のたちに、藤原秀衡ひでひらを訪ね、そこに成人している源九郎義経ともひそかに会った。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのこうたちは、祖先義清いらい、一世紀余も住み古してきた代々の家だった。北の彼方に、国分寺のあとがある。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
父子は連れだって、さらにたちの奥の、孤立した一殿へ入って行った。持仏堂だろうか、一僧が出て来て手をつかえ
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
下野国、田沼のさと、田原のたちでは、右馬允貞盛が、年の暮から正月にかけて、さいごの決断をうながしに来ていた。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
勿論、三好家のたちまでは、いつものような東国侍の微行しのびすがたで、そこで式服に改め、室町の柳営りゅうえいへ出向いたので、まったく誰も知らぬ会見であった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と聞いていたが、しかしとうの脇屋義助は、いつまで見えはしなかった。のみならずその夕、義貞のたちでは、いよいよにぎやかな端午たんご遊びの笛太鼓だった。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日が暮れて——どれ姫山のたちへ帰ろうか——とそのひとが家の裏戸へ駒を寄せると、小娘のお菊はいつも、ひとりでに涙がわいてならなかったものだった。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「あれはさしあげただけですが、もし何でしたら、成田に申しつけて、甲ノ尾のたちへ求めにやらせましょうか」
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こういう状況をつぶさに聞いては、躑躅つつじヶ崎のたちにあった信玄も、眼を熱うせずにいられなかった。が、彼は
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
岩井のたち猿島さしま郡だ。相馬から渡船わたしで一水を越える地にある。船中で酒を酌みあい、寒いが、気は晴れてきた。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信濃では「信濃ノ宮」と人みな申し上げて、大川原の香坂こうざか高宗のたちに多年お身をひそめておられたのだった。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の旅舎は、もと足利義昭よしあきのいた二条のたちを改築して宛てていた。日々、公卿くげ、武人、茶家、文雅のともがら浪華なにわさかいなどの商賈しょうこの者まで、訪問客はいちをなした。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ふたたび、馬上の人となって、十二月十一日、豊田のたちを発向し、下野の国府へ攻めて行ったのが、彼として、今や公然たる叛軍の旗を挙げた第一歩だった。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鶴ヶ岡の元神官屋敷そのままの営所で、まだ新田のたちというものを、他に新築しようとしてもいなかった。