衣紋えもん)” の例文
八五郎は急に衣紋えもんを正したりするのでした。親分にかう褒められたのは、三年前御府内荒しの三人組を手捕りにした以來のことです。
彼は何かに酔ひしれた男のやうに、衣紋えもんもしだらなく、ひよろ/\とよろけながら寝室に帰つて、疲れ果てて自分の寝床にし倒れた。
An Incident (新字旧仮名) / 有島武郎(著)
紫玉は我知らず衣紋えもんしまった。……となえかたは相応そぐわぬにもせよ、へたな山水画のなかの隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
母親の物言ふ度にぴよこぴよこ頭を下げ「立ちかはつたる機嫌にぐんにやり」にて頭をかき衣紋えもんを壊して、体をぐたりとならしむ。
矢張刀法が強く、その点一寸父のものと似ているが、衣紋えもんの彫方なども全然違い、感じが荒っぽく一見山田先生の特色が出ている。
回想録 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
「それが、あなた」と、うち消すやうに首を一つやはらかにまはして、襟を拔け衣紋えもんにして、「御失敗のもとぢやアありませんか?」
鬢盥びんだらいに、濡れ手拭を持ち添えたいろは茶屋のお品は、思いきりの衣紋えもんにも、まださわりそうなたぼを気にして、お米の側へ腰をかける。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
金之助は立って衣紋えもんを直し、刀を取上げて振返った。半三郎は毀れた木偶でくのように、身を投げだしたまま動くけはいもなかった。
落ち梅記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
これに直垂ひたたれを着せ、衣紋えもんをただし、袴をはかせて見ると、いかなる殿上人てんじょうびともおよび難き姿となって、「おとこ美男」の名を取る。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
髪はほつれ、お化粧つくりははげ、衣紋えもんはくずれて、見る影もありません。まるで、このトンガリ長屋のおかみさんの一人のよう……。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
長押なげし衣紋えもんかけで釣り下げられている下町風な柄の洋服と商人風の羽織。「けがされたものだ」わたくしは怒りに眠たさも覚めてしまいます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
また、衣物きもの縮緬ちりめんすそ模様の模様などにも苦心し、男の子の着流しの衣紋えもんなども随分工夫を凝らしてやったのでありました。
彼女は夜になるとよく、何かの用事にかこつけて、大柄な浴衣を抜き衣紋えもんにし、白粉を平べつたい顔に塗り立てて外出した。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
彼女は巧みに衣紋えもんをつくろって、少しもわざとらしくなく、それを隠していたけれど、上野の山内を歩いている間に、私はチラと見てしまった。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そのうなだれたぼんのくぼあたりへ、月の光が落ちていて、抜き衣紋えもんになっている肩の形が、いかにも寂しく見受けられる。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
板〆縮緬いたじめぢりめんうぐいす色の繻子しゅす昼夜帯はらあわせを、ぬき衣紋えもんの背中にお太鼓に結んで、った唐人髷とうじんまげに結ってきたが、帰りしなには
そこで月代をした上へ引火奴ほくちを黒々と糊で貼り付けて出ると、一通りの調べが濟んでから、代官ががみしも衣紋えもんを正して
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
つき添いの女中たちも急に、今から、衣紋えもんを直し合ったり、囁きを交したりして、一座はもう落ちつきを失って来たようにさえ見えるのだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
黒一楽くろいちらく三紋みつもん付けたる綿入羽織わたいればおり衣紋えもんを直して、彼は機嫌きげん好く火鉢ひばちそばに歩み寄る時、直道はやうやおもてげて礼をせり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
口ではやして、床を踏み鳴らして歩いた。大正エビは頭に派手な手拭てぬぐいをかぶり、衣紋えもんを抜いている。女形おやまのつもりなのだ。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
市郎の顔を見るや、彼女かれにわか衣紋えもんつくろって、「あら、若旦那……。」と、叮嚀ていねいに挨拶した。市郎も黙って目礼した。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
これはあの衣紋えもんのクリコミ加減でもお解りになります通り、或る町家ちょうかの娘で、芸妓げいしゃに売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
自然と抜き衣紋えもんになっているためか猫背が一層円々と見える、———着附と云い、姿勢と云い、そう云う爺臭じじくさい風をするのがこの老人の好みであって
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
半衿のかかった軟かい着物のうえに、小紋の羽織などを抜き衣紋えもんにして、浅山が差してくれる猪口を両手に受けなどして、お庄にもお愛想を言っていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
色の白い愛嬌あいきょうのある円顔まるがお、髪を太輪ふとわ銀杏いちょう返しに結って、伊勢崎の襟のかかった着物に、黒繻子くろじゅすと変り八反の昼夜帯、米琉よねりゅうの羽織を少し衣紋えもんはおっている。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
衣紋えもんを繕っているのであるから、それには全く、美くしさとか調和とか云うものがせてしまって、何さま醜怪な地獄絵か、それとも思い切って度外れた
絶景万国博覧会 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それからその又国芳の浮世絵は観世音菩薩の衣紋えもんなどに西洋画風の描法べうほふを応用してゐたのも覚えてゐる。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
幕とか旗とかに付けた符牒ふちょうで、その思い付は京都の大官連が車に家々の紋を付けたのがもとで、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋えもんから得たものであろう。
名字の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
へらへらした生地の、安物の着物の衣紋えもんを思い切り抜いて、その頸筋くびすじから肩にかけて白粉を真白に塗りたくっていたが、その顔は齢をごまかす厚化粧ではなかった。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
かたわらには接客用の卓が置かれてあった。その上に笠を置き、脇差を重ね、阿賀妻は衣紋えもんをただした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
かくのごとき無言劇が行われつつある間に主人は衣紋えもんをつくろって後架こうかから出て来て「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
借りてきた衣紋えもん竹へ自らその羽織を裏返しにして掛けたら何とその羽織の裏一面が巧緻な春宮秘戯図! ために、今までわずかしかつめらしい空気でありすぎたその一座が
艶色落語講談鑑賞 (新字新仮名) / 正岡容(著)
黒縮くろちりつくりでうらから出て来たのは、豈斗あにはからんや車夫くるまやの女房、一てうばかりくと亭主ていしが待つてて、そらよと梶棒かぢぼう引寄ひきよすれば、衣紋えもんもつんと他人行儀たにんぎようぎまし返りて急いでおくれ。
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
道志山脈、関東山脈の山々の衣紋えもんは、りゅうとして折目を正した。思いがけなく、落葉松からまつの森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂こだまのように、山から谷へと朝の空気を震撼しんかんした。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
日本髪に、ませたぬき衣紋えもんの変わった姿とはいえ、長いまつ毛はもう疑う余地もなかった。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
(そは作者の知る処にあらず。)とにかく珍々先生は食事の膳につく前には必ず衣紋えもんを正し角帯かくおびのゆるみを締直しめなおし、縁側えんがわに出て手を清めてから、折々窮屈そうに膝を崩す事はあっても
妾宅 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
あるいはまた、さいぜん留守宅の若いおめかけの名を叫んで身悶えしていた八十歳の隠居は、さてもおそろしや、とおもむろに衣紋えもんを取りつくろい、これすなわち登竜のぼりりゅうに違いござらぬ、と断じ
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
化粧室なる大玻璃鏡すがたみの前には、今しも梅子の衣紋えもん正して立ち出でんとするを
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
なにも伝六が参りますと特に断わらないでもいいのに、罪のないやつで、しきりと衣紋えもんをつくりながら、気どり気どり出ていったようでしたが、矢玉のように駆け帰ってくると大車輪でした。
そうして首筋の濃粧は主として衣紋えもんの媚態を強調するためであった。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
改めさせられ御對面あるに此時このとき將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事いちだいじよし何事なるやと御尋あれば中納言綱條卿つなえだきやうには衣紋えもんを正し天下の一大事と申候はにも候はずまづうかゞひ度は町奉行越前を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
まず枕もとに置いてあるものからかたづけ、次にぬいだねまきなどを衣紋えもん竿にかけて日光にあて、まわりに何もなくなったところで、丁寧に夜具をたたんで、きまりどおりに順序よくしまうこと。
女中訓 (新字新仮名) / 羽仁もと子(著)
彼女は、衣紋えもんを直しながら、もう昨日からのことについては、何にも考へまいと思ひ思ひ茶の間に這入つて、お茶を飲んだり、こはれかゝつた髪のピンをさし直したりして、漸く机の前に座つた。
惑ひ (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
マダム丘子は、するっと衣紋えもんを抜いて、副院長の前の椅子にかけた。
衣紋えもんの正しい夏衣裳は骨だって見える。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
衣紋えもんつくろはかましわを伸ばし手巾はんけち
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
肌ぬぎし如く衣紋えもんをいなしをり
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
紫玉は我知われしらず衣紋えもんしまつた。……となへかたは相応そぐはぬにもせよ、へたな山水画のなかの隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。
伯爵の釵 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
八五郎は急に衣紋えもんを正したりするのでした。親分にこう褒められたのは、三年前御府内荒らしの三人組を手捕りにした以来のことです。
「やはり地蔵尊かの。しかしお顔も衣紋えもんも、ひどく磨滅して貝殻なども附着しておる。察するに、地蔵は地蔵でも、海上がりの御仏みほとけだろ」
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)