かつ)” の例文
新字:
私はかつて自己の完成といふことを説いた。又自己の『自然』大にまで生長して行くことを説いた。しかし、それは多くは誤解された。
自からを信ぜよ (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
いきなり隣の部屋——かつて姉娘のお茂世が行方不明になつた六疊の部屋から、親分の平次の籠つたやうな聲がするではありませんか。
かつて見たことのある山水や、人物が、うつつとなって、沈思閉眼の境に現われて来て、甘美なる幻像に喜ばさるるの癖がつきました。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
かつて大嫌いだった・之からも好きにはなれまい(というのは、今、南海の我が乏しき書庫に其の作物が一冊も並んでいないからだが)
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
もとよりいつたん精神病院の患者として入院したからには、かつて精神病者であつたことは明白であるが、現在は既に全治してゐる。
盗まれた手紙の話 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
かつ如此かくのごとき事をこゝろみし事なし、こゝろみてそのはなは馬鹿気ばかげきつたる事をみとめたれば全然ぜん/\之を放棄はうきせり、みちおこなことみちく事なり
問答二三 (新字旧仮名) / 内村鑑三(著)
学校の休日やすみびでない日に、こうして街を歩くということは、今までかつてないことでもあったし、冒険に似た心持がうれしいのだった。
これまで私に従学したいと云って名告なのり出た人に、F君のような造詣のあったことはかつて無い。この側から見れば、F君は奇蹟である。
二人の友 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
天上の最もあきらかなる星は我手わがてに在りと言はまほしげに、紳士は彼等のいまかつて見ざりしおほきさの金剛石ダイアモンドを飾れる黄金きんの指環を穿めたるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
かつてその青年から貰った葉書の中に、「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書いてあった文句が妙に岸本の頭に残っていた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
おなひとですら其通そのとほり、いはんやかつこひちかられたことのないひと如何どうして他人たにんこひ消息せうそくわからう、そのたのしみわからう、其苦そのくるしみわからう?。
湯ヶ原より (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
かつて、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓すさきゆうかくの娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
僕ははしなくも篠田さんがかつて『労働者中もつとも早く自覚するものは、もつとも世人に軽蔑けいべつされて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
彼れかつ颺言ようげんして曰く、「革命は人民のために、人民の手に依りて成就せざるべからず。吾人ごじんの全旨、約してこの一語にり」と。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
われはロメオの夜な/\通ひけん石のきざはしみて、かつて盛に聲樂を張りてヱロナの名流をつどへしことある大いなる舞臺に上りぬ。
此は是、かつては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。
妣が国へ・常世へ (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
私としてはかつて無いことで、よくよくどうもその青年が、私の気に入って了ったからなのでしょう。いや、そうではありません。
ムルタはからっぽの蘆をくちびるにあてて吹きはじめた。それは彼がかつて山地で羊を守っている女から聞かされた寂しいやさしい調子であった。
(新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
今までかつてないほどの熱意をみせ、めずらしく饒舌じょうぜつになっていたかれの態度がその時再びいつもの冷やかな冷笑するような表情に戻った
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
これがかつて、鬼検事正といわれ京浜地方の住民から畏敬されていた塩田律之進の姿なのであろうか。それはあまりにも悲惨な最期だった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
竹のつつでもつぼえないこともないが、そう名づけるのにもっと適切な、或いはひさごのようなものをかつては利用していたのではなかったか。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
かつて考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野はなのの如く明かである。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
自分がロダン先生のかつて製作された夫人の肖像に寸分ちがひのないかただと思つたのは、一つは髪の結様ゆひやう其儘そのままの形だつたからかも知れない。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり。亦かつて予想したる事あり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
恋愛はかつて諸国民が敬虔の念を以て人生を眺めた時彼等の宗教であつた様に再び高き標準の上に立つ吾人の宗教でなければならないと——。
恋愛と道徳 (新字旧仮名) / エレン・ケイ(著)
かつての日かう一途に思ひつめて、我が生みの子に対する盲目的な愛の為に、恩義ある育ての親にもそむき去つたお信さんだつた。
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
いまかつて自制の人でないのはなく、何れも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向って、畢生ひっせいの心血をそそぐを忘れなかった。
寸分の相違もない出来事がかつてもあつた……茫然として、彼は瞬間的にさう考へた……何時の日のことだつたらう……何処でであつたらう。
あたかも科学の持つがごとき冷然たる素質を排撃するとしたならば、彼らの総帥そうすいかつて活用したる唯物論と雖も、その活用させたる科学的態度を
この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、かつて二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。
釣好隠居の懺悔 (新字旧仮名) / 石井研堂(著)
しかもその顔は、かつて一度も見たことのない顔である。また、これとはかわって、毎晩、恐ろしい男の顔を見る友人があった。
取り交ぜて (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
すべてが、この邸でかつては非常に盛大に農産経営が行われていたことを物語るだけで、今は何を見ても陰気くさいばかりだ。
かも私は、未だかつてかゝる神聖無垢な殺人犯を見た事が無い。清純にして無邪、真実にして玲瓏の極、のみならず、単純無比にして深刻無比。
神童の死 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
露國ろこくでさへ、かつてその首府しゆふのペテルスブルグは外國語ぐわいこくごであるとて、これを自國語じこくごのペテログラードに改名かいめいしたではないか。
国語尊重 (旧字旧仮名) / 伊東忠太(著)
きずつつみ歯をくいしばってたたかうが如き経験は、いまかつて積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実にその真を得たりしなり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
知己と云うは石田なにがしと云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋あいだがらかつて某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
日本はおろか、支那でも、西洋でも、いな、世界開闢かいびゃく以来、いまかつ何人なんぴとによっても試みられなかったであろうと、僕はおおいに得意を感ぜざるを得ない。
恋愛曲線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
自分が幼少のときに別れた祖父母も、八年前に死んだ父も、六年前に死んだ母も、かつてそんな話をしたこともなかつた。
半七捕物帳:01 お文の魂 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
六ヶ敷そうな直介氏のダンスの相手パートナーとして、かつて職業的なダンサーであったところの比露子夫人を想像するのは、これこそ、最も尋常で、簡単な
花束の虫 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
コックス家と林家の人々は翌朝の新聞紙によって、その怪しい女はかつてトーマス・コルトンの情婦であった事を知った。
P丘の殺人事件 (新字新仮名) / 松本泰(著)
廃殿の柱や扉には、かつてここを過ぎた者の記念と見え、色々様々の文字が記してあるが、中にこんな事も書いてあった。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
この意味に於て、眼の前見渡す雪は、私がかつ他所よその諸方で見たものと違って、やはり、東京の濠川ほりかわの雪景色であった。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
四十余年の半生を、きょうまで殆ど戦場に過ごして来た信玄も、まだ、かつてこういう敵を見たことがないし、こういう陣法のあることを知らない。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分がかつて知っていた、或いは本で読んだことのある、乃至ないしは噂に聞いたことのある誰かれの顔を——それらようやひそやかに薄れ隠れようとしている
下駄を片足、藁草履わらぞうりを片足、よく跛いてあるく。かつ穿きふるしの茶の運動靴うんどうぐつをやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早もう跣足はだしで来た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
同時に石炭やコークスの屑が附近に散らばっていた形跡はミジンもなかったばかりでなく、そんな商人が出入りした事実もいまかつて発見されなかった。
けむりを吐かぬ煙突 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
電燈のななめの光を受けた、陰影の多い雑草の中に、未だかつて見たことも聞いたこともない様な、えたいの知れぬ生白い植物が、ニョッキリと生えていた。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
多くの子供は、親達に対して、大人に対して、対抗し得ないところから、言い換えれば絶対に弱いがために、かつて、命令に服従せずにはいられなかった。
子供は虐待に黙従す (新字新仮名) / 小川未明(著)
北海道の特色なる十勝原野のそのまた特色は、かつて氷峰が云つた通り、この以平いたらたいらの高原だと、義雄は初めて感づいて見れば、なほ更ら名殘りが惜まれた。
泡鳴五部作:04 断橋 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
私の性質として金銭出納の細目をきいたこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせておいて、かつて一度も変な間違いの出来たことはない。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)