播磨はりま)” の例文
和歌所の領として、播磨はりま細川庄と近江おうみ小野庄とがあったが、恐らくは承久乱後定家が領有してその地頭職じとうしきとなり、為家が相続した。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
彼女あれ播磨はりま印南野いなみのの出身であるが、親もなくて不幸ないやしい境遇にいるので、ついふびんに思って情をかけてしまったのだ。
播磨はりまの伊藤といへば往時むかしからの百万長者、随分むつかしい家憲もあれば家風もある。気の毒にもそんななかに生れ落ちたのが今の伊藤長次郎氏。
なおまた、播磨はりま摂津せっつの海上には、七百余そうの兵船を遊弋ゆうよくさせ、後詰の兵や糧食を、なおも続々陸上に押し揚げようと計っておりまする。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
播磨はりまなどに夫々帰省して居る友達が同時に京都に落合はう、藤村の「春」の人物が、富士山麓の吉原の宿に東からと西からと落合つた様に
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
播磨はりまの僧は言った。これも少年侍として京からついて行った者で、今は老法師で主に取り残された悲哀を顔に見せている。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
播磨はりまの国赤松入道円心の息女、その姫の名は何というたかわからぬ。また一説には入道円心の娘ではなくその孫であると。
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津せっつ豊能とよの郡の垂水たるみ播磨はりま明石あかし郡の垂水たるみの両説がある。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
すでに億計おけ弘計おけ二王子の潜邸せんていの御時にも、伊予の久米部くめべに属する一官人が、大嘗の供物くもつを集めに、播磨はりまの東隅の村まで来たという記事もある。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
すなわち、近江中将入道蓮浄れんじょう佐渡国さどのくに、山城守基兼は伯耆ほうき、式部大輔雅綱は播磨はりま、宗判官信房は阿波あわ、新平判官資行が美作みまさかといったぐあいである。
平家の勢の中に播磨はりま国の住人福井庄の下司げし、次郎太夫友方ともかたと云ふ者、たて続松たいまつにして、在家に火をぞ懸けたりける。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
大和やまとの国内は申すまでもなく、摂津の国、和泉いずみの国、河内かわちの国を始めとして、事によると播磨はりまの国、山城やましろの国、近江おうみの国、丹波たんばの国のあたりまでも
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨はりまかわさき忌瓮いわいべえてかみまつり、播磨からはいつて吉備きびの國を平定されました。
お二人は、それから河内かわち玖須婆川くすばがわという川をおわたりになり、とうとう播磨はりままで逃げのびていらっしゃいました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
四谷の酒屋播磨はりま屋伝兵衛、青山の下駄屋石坂屋由兵衛、神田の鉄物かなもの屋近江屋九郎右衛門、麻布の米屋千倉屋長十郎の六人を召し捕って、一々厳重に吟味すると
半七捕物帳:28 雪達磨 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
中にも、播磨はりまの赤松則村は、京都の手薄を知り六波羅探題を襲はんとしたので、鎌倉幕府は驚いて足利尊氏、名越なごえ高家の両将に、兵を率ゐて救援に上洛せしめた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
中国山脈といっても、播磨はりま但馬たじまの国境になった谷あいの地に、世間から忘れられたような僅か十数戸の部落があったが、生業は云うまでもなく炭焼と猟師であった。
風呂供養の話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
新田義貞は上野こうずけに、赤松則村のりむら播磨はりまの国に、結城ゆうき宗広は陸奥むつの国に、土居、得能とくのうは四国の地に、名和長年は伯耆ほうきの国に、菊池武時は九州の地に、そうして足利高氏さえ
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
播磨はりまの赤松家の一族に、椙原伊賀守賢盛すぎのはらいがのかみかたもりと云ふ人があつた。後に薙髪ちはつして宗伊そういと云つた人である。それが椙原を名告なのつたのは、住んでゐた播磨の土地の名に本づいたのである。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
さきに昔播磨はりま国で主人を救うた犬のために寺を建てた話を出したが、そののち外国にも同例あるを見出したから述べよう。十四世紀にロクス尊者幼くして信念厚く苦行絶倫で神異なり。
播磨はりま美作みまさか備前びぜん備中びっちゅう備後びんご安藝あき周防すおう長門ながとの八ヵ国を山陽道さんようどうと呼びます。県にすれば兵庫県の一部分、岡山県、広島県、山口県となります。ざっと明石あかしから下関までであります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨はりま、東は三河にまで行ったことは、しょうがあって分明するから、なお遠く西へも東へも行ったかと想われる。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
井上外記は播磨はりま英賀おが城主井上九郎右衛門の孫で、外記流の流祖である。
ひどい煙 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
案内記によると、和田山はもと播磨はりまざかひの生野いくのから出石いづし豐岡とよをか方面へ出る街道中の一小驛にとゞまつてゐたが、汽車が開通してからだん/\開けて、今では立派な市街になりつゝあるといふ。
山陰土産 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
摂津の先きの播磨はりま飾磨しかま郡にある穴無庄、同じく揖保郡にある太田庄、また共に三条西家の所領であった。穴無の郷の公用というのは、その公文職の年貢なので、年一千疋が定額であったらしい。
素人家しもたや並みに小店が混っているとはいうものの、右に水野や林播磨はりま邸町やしきまちが続いているので、宵の口とは言いながら、明るいうちにも妙に白けた静けさが、そこらあたりを不気味に押し包んでいた。
残る一人は大阪屈指の廻船問屋、播磨はりま屋の当主千六せんろくであった。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
伊勢国(山田、松阪、津、一身田、四日市、桑名) 尾張国(名古屋、熱田、津島、大野、半田) 三河国(豊橋、岡崎、北大浜、西尾、蒲郡、豊川) 遠江とおとうみ国(掛川、浜松、平田、中泉) 駿河するが国(静岡、小川、清水、藤枝) 相模さがみ国(大磯) 武蔵国(忍) 上総かずさ国(千葉、茂原) 近江おうみ国(大津、豊蒲、五ヶ荘、愛知川、八幡、彦根、長浜) 美濃国(岐阜) 上野こうずけ国(安中、松井田、里見、高崎、八幡) 岩代いわしろ国(福島) 陸前国(築館、一迫) 陸中国(盛岡、花巻) 陸奥むつ国(弘前、黒石、板屋野木、鰺ヶ沢、木造、五所川原、青森、野辺地) 羽前うぜん国(米沢、山形、寒河江、天童、楯岡、新庄、鶴岡) 羽後うご国(酒田、松嶺、湯沢、十文字、横手、沼館、六郷、大曲、秋田、土崎、五十目、能代、鷹巣、大館、扇田) 越後国(新井、高田、直江津、岡田、安塚、坂井、代石、梶、新潟、沼垂、葛塚、新発田、亀田、新津、田上、加茂、白根、三条、見附、浦村、片貝、千手、六日町、塩沢、小出、小千谷、長岡、大面、寺泊、地蔵堂、新町、加納、野田、柏崎) 丹波国(亀岡、福知山) 丹後国(舞鶴、宮津、峰山) 但馬たじま国(出石、豊岡) 因幡いなば国(鳥取) 伯耆国(長瀬、倉吉、米子) 出雲国(松江、平田、今市、杵築) 石見いわみ国(波根、太田、大森、大国、宅野、大河内、温泉津、郷田、浜田、益田、津和野) 播磨はりま国(龍野) 備前びぜん国(閑谷) 備後びんご国(尾道) 安芸国(広島、呉) 周防すおう国(山口、西岐波、宮市、徳山、花岡、下松、室積、岩国) 長門ながと国(馬関、豊浦、田辺、吉田、王喜、生田、舟木、厚東、萩、秋吉、太田、正明市、黄波戸、人丸峠、川尻、川棚) 紀伊国(高野山、和歌山) 淡路国(市村、須本、志筑) 阿波国(徳島、川島、脇町、池田、撫養) 讃岐さぬき国(丸亀、高松、長尾) 伊予国(松山、宇和島、今治) 土佐国(高知、国分寺、安芸、田野、山田、須崎) 筑前国(福岡、若松) 筑後国(久留米、吉井) 豊前ぶぜん国(小倉、中津、椎田) 豊後ぶんご国(日田) 肥前ひぜん国(長崎、佐賀) 肥後ひご国(熊本) 渡島おしま国(函館、森) 後志しりべし国(江差、寿都、歌棄、磯谷、岩内、余市、古平、美国、小樽、手宮) 石狩国(札幌、岩見沢) 天塩てしお国(増毛) 胆振いぶり国(室蘭)
妖怪学講義:02 緒言 (新字新仮名) / 井上円了(著)
古参老練の顔があまり見えないのは、その多くが秀吉の城地たる長浜、播磨はりま、その他の占領地などに、なお残されているものと思われる。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
祖父は播磨はりまくに赤松氏あかまつうじに仕えていたが、去る嘉吉かきつ元年の乱に、赤松氏の城を去って、この地にやってきて、それから庄太夫にいたるまで三代の間
この報告を受けた政府では、それなら播磨はりま印南野いなみのか、この摂津の昆陽野こやのかなどと公卿会議の席上でも討論されたが、実行に移されるとも見えなかった。
石の並列は二つ以上十数箇も並んでいることもある。これすなわち「トコナミ」である。播磨はりま加西かさい郡には鎮岩と書いて、「トコナベ」と呼ぶ村がある。
名字の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
その後まもなく、その播磨はりまの国へ、山部連小楯やまべのむらじおだてという人が国造くにのみやつこになって行きました。するとその地方の志自牟しじむという者が新築しんちくしたおうちでお酒盛さかもりをしました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
飾磨しかま河」は播磨はりまで、今姫路市を流れる船場川だといわれている。巻七(一一七八)の或本歌に、「飾磨江しかまえは漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
近い所では播磨はりま明石あかしの浦がよろしゅうございます。特別に変わったよさはありませんが、ただそこから海のほうをながめた景色はどこよりもよくまとまっております。
源氏物語:05 若紫 (新字新仮名) / 紫式部(著)
吉備きびの臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨はりまのイナビの大郎女おおいらつめと結婚してお生みになつた御子は
二十七年の二月に逆櫓さかろ(綾瀬太夫)、堀川(播磨はりま太夫)を上演した時などは、太夫を聴くだけでも一日の暇を潰す価値があるというので、毎日満員の大入りであった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「丹後の国をふり出しに、但馬たじま因幡いなば播磨はりま摂津せっつと、打って廻りましてござりまして……」
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
実は播磨はりまの人、大鳥圭介けいすけがそれより以前に実行している……というようなことまで知っているところを見ると、この人は国学のみならず、現代の知識にもなかなか明るい人と見える。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
大和やまと地方御経営の時代で、東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨はりまあたり迄、北は敦賀つるが地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
河内かはち門真三番村の百姓高橋九右衛門たかはしくゑもん、河内弓削村ゆげむらの百姓西村利三郎にしむらりさぶらう、河内尊延寺村そんえんじむらの百姓深尾才次郎ふかをさいじらう播磨はりま西村の百姓堀井儀三郎ほりゐぎさぶらう近江あふみ小川村の医師志村力之助しむらりきのすけ、大井、安田等に取り巻かれて
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
中国 播磨はりま以西の山陽道と、丹波たんば以西の山陰道。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
白河の関——阿部播磨はりま守城下。十万石。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
秀吉は、ここを尼子一党に預け、但馬たじま播磨はりま掃討そうとうを片づけると、ひとまず安土へ凱旋した。明けて天正六年の一月、湖南の春色は若かった。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
チギリ 血切りか、魚類を割き血を洗わずにそのまま塩漬にしたもの、播磨はりまでも土佐でもともにこの名がある。
食料名彙 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
播磨はりまと丹波の境、三草山みくさやまを固めておられた由、義経に破られた後は、資盛、有盛、忠房の御三方は播磨の高砂たかさごからご乗船、讃岐さぬきの屋島へ落ちのびられました由
みんなは、例の忍歯王おしはのみこのお子さまの意富祁おおけ袁祁おけのお二人が、播磨はりまの国でうしかい、うまかいになって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
かくてクスバの河を逃げ渡つて、播磨はりまの國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼うまかい牛飼うしかいとして使われておいでになりました。
弟子でしどもに言い、明石の邸宅を寺にし、近くの領地は寺領に付けて以前から播磨はりまの奥のこおりに人も通いがたい深い山のある所を選定して、最後のこもり場所としてあったものの
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
祖父おほぢ播磨はりま一四赤松に仕へしが、んぬる一五嘉吉かきつ元年のみだれに、一六かのたちを去りてここに来り、庄太夫にいたるまで三代みよて、一七たがやし、秋をさめて、家ゆたかにくらしけり。