いおり)” の例文
八五郎が一度来た琢堂のいおりは、宵闇の中に堅く閉されて、人影がありそうもなく、四方は、松原で、人に訊くすべもなかったのです。
そこには笛をふいているあめ屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨やあかあいで書いたいおり看板がかけてある。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
米友は自ら好奇をもって進入したところには、岩に沿うているけれども洞穴ではなく、たしかに人間のむすんだ草のいおりがあるのです。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
米と塩とは尼君がまちに出できたまうとて、いおりに残したまいたれば、摩耶まやも予もうることなかるべし。もとより山中の孤家ひとつやなり。
清心庵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
左に太い幹をもつは楊柳ようりゅう。下には流るる河、上には浮かぶ雲。水に建ついおりの中には囲碁を挿む二人の翁。右には侍童じどうが茶をせんじる。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
私は性来しょうらい騒々そうぞうしい所がきらいですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀じんせきまれな寒村の百姓家にしばらく蝸牛かぎゅういおりを結んでいたのです……
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この作は、浅草再法庵さいほうあんに、おこない澄ましていた、元吉原松葉屋の抱え瀬川の作であって、いおりの壁に書いてあった一首のうちだというのである。
傾城買虎之巻 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
そのうちに旅僧は、べつに先を急ぐ旅でもないから、どこか山の中に良い場所があるなら、いおりを結んで、心しずかに修行したいといい出した。
風呂供養の話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そして武州家滅亡のゝちに剃髪ていはつして尼となり、何処かの「片山里かたやまざとに草のいおりを結んで、あさゆう念佛ねんぶつを申すよりほかのいとなみもなかった」
「——この親鸞も、近々に、いちど信州路まで出向かねばならんのう。国時どの、しばらく、宮村のいおりを、留守にいたしますぞ」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
むかし江戸品川、藤茶屋ふじぢゃやのあたり、見るかげも無き草のいおりに、原田内助というおそろしくひげの濃い、の血走った中年の大男が住んでいた。
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
と妓王は、二十一という花の盛にいさぎよく別れを告げると、髪を切って嵯峨野さがのの奥に小さないおりをつくって引籠ひっこもってしまった。
さて句意は、百姓が畑を打っている、そこに世を捨てた人がいおりを結んで住まっている、その人の軒端まで打って行ったというのであります。
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
この武骨の平馬、やさしい鶯が縁になって、その鶯よりも優しい飼主の少女と今こうしていおりの竹縁に腰をかけて話している。
平馬と鶯 (新字新仮名) / 林不忘(著)
四条河原の非人ひにん小屋の間へ、小さな蓆張むしろばりのいおりを造りまして、そこに始終たった一人、わびしく住んでいたのでございます。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
上皇の御幸ごこうであっても、お供の公卿たちは急造のいおりに草枕することもあったのだが、それにしてもこうした交通の自由感の生れてきていたことが
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
「いや許せ許せ。おれが悪かったよ」と相変らずの御豁達かったつなお口振りで、「俺はあれからこっち、この谷奥のいおりに住んでいる。真蘂しんずい和尚と一緒だよ。 ...
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
丁度お若さんがこのいおりこもる様になった頃より、毎日々々チャンと時間をきめて廻って来る門付かどづけの物貰いがございまして、衣服なりも余り見苦しくはなく
雲水うんすいに似た旅人芭蕉も、時には一定の住所にいおりを構えて、冬の囲炉裏いろりを囲みながら、わびしく暮していたこともある。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
余は呆気あっけにとられた。八年前秋雨あきさめの寂しい日に来て見た義仲寺は、古風なちまたはさまって、小さな趣あるいおりだった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
主人は「ここから百八十メートルほど浜の方に、麻をたくさん植えた畑がありますが、その持ち主で、そこに小さないおりをつくって住んでいらっしゃいます」
悟浄ごじょうがこの庵室あんしつを去る四、五日前のこと、少年は朝、いおりを出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
お師匠様のお迎えにと、才蔵はいおりを昼頃出て、秋野を歩いて城下の方へ、暢気のんきそうにブラブラと進んで行った。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
四年応文おうぶん西平侯せいへいこうの家に至り、とどまること旬日、五月いおり白龍山はくりゅうざんに結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文をつくりてこれこくしたもう。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
家康が千代田城を政権の府とした頃、半蔵門の近くに観智国師という高僧がいおりを結んでいた。家康はその徳に帰依きえして、国師に増上寺の造営を嘱したのである。
増上寺物語 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
お手紙をお書きになりましてから三日めにいおりを結んでおかれました奥山へお移りになったのでございます。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
「叔父さんの部屋には何物なんにも無い——病人に舞込まれても掛けてやる毛布も無い。ここはまるで俺のいおりだ」
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「そういううちにも呉羽之介が、おッつけいおりに見えるであろう、今日はこの絵すがたの仕上がる日なれば、あそびがてら出来ばえを見に来ると約束しているのじゃ」
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
次ぎの間にも違棚ちがいだながあって、そこにも小さい軸がかかっていた。青蚊帳あおかやに微風がそよいで、今日も暑そうであったが、ここは山のいおりにでもいるような気分であった。
挿話 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「笹龍胆りんどう」や「いおりもっこ」の紋を染め出した白い幕が張ってあって、「大竹流」、「向かい流」という看板の出ている水練場で泳ぎながら帽子にいっぱいしじみが捕れ
江戸前の釣り (新字新仮名) / 三遊亭金馬(著)
この句は洒堂しゃどうの『いちいおり』という集にあるので、洒堂が膳所ぜぜから難波へ居を移した記念のものである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
わずかに有志者があるいは世を去りあるいは山深くいおりを結び、あるいは市街にありてもそうとなりて俗縁を断ったものが、文字どおりにこれを実行したるに過ぎなかった。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
そして、ついいおりの周囲を一めぐりして、いつの間にか、前の慧林寺の境内を歩きまわっていた。かなり大きな寺だった。かなり広い庭だった。かなり大きな木もあった。
そうして自分はもう俗世では決して満足が得られないのでこれをも捨ててしまって人の来ない所に小さいいおりを作って住む事に定めたのである。その時私は丁度三十歳であった。
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
赤と青と提灯の灯が揺れ、つたない字で天狗連らしいちぐはぐな落語家の名前が、汚れたいおり看板の中にでかでかと書かれてあった。まだお客は一人もつっかけていないらしかった。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
大勢はいおりの前に拝して、その願意を申し述べると、道人はかしらをふって、わたしは山林の隠士で、今をも知れない老人である。そんな怪異を鎮めるような奇術を知ろうはずがない。
世界怪談名作集:18 牡丹灯記 (新字新仮名) / 瞿佑(著)
劇場の表飾りもまけずに趣好をこらし、いおり看板をならべ、アーク燈を橋のたもとにけたので、日本橋区内には、今までになかった色彩いろどりをそえたのだった。それが人気にあった。
願わくば一度は此処ここにしばらくの仮りのいおりを結んで篁の虫の声小田おだかわずの音にうき世の塵にけがれたるはらわたすゝがんなど思ううち汽車はいつしか上り坂にかゝりて両側の山迫り来る。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
風外ふうがいという僧が、いおりを作ってそこに住み、後に出て行く時に残して置いたので、おおかた風外の父母の像であろうといいましたが(相中襍志ざっし)、親の像を残して去る者もないわけですから
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
主人は案内を知っていると見え、柴折戸しおりどを開けて中庭へ私を導き、そこから声をかけながらいおりの中に入った。一室には灰吹を造りつつある道具や竹材が散らばっているだけで人はいなかった。
東海道五十三次 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
すると毎夜種油たねあぶらついえを惜しまず、三筋みすじも四筋も燈心とうしんを投入れた偐紫楼にせむらさきろう円行燈まるあんどうは、今こそといわぬばかり独りこの戯作者げさくしゃいおりをわが物顔に、その光はいよいよ鮮かにその影はいよいよ涼しく
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
僅かに垣を隔てて建った林中のいおりで、これが不思議なことに、下屋敷の中にある離屋はなれと一対になった、恰好と言い、場所の関係に
双ヶ岡のいおりのあるじの姿は見えなかった。秋晴れのうららかな日和ひよりにそそのかされて、遁世の法師もどこかへ浮かれ出したのであろう。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
聞けば、向う岸の、むら萩にいおりの見える、船主ふなぬしの料理屋にはもう交渉済で、二人は慰みに、これから漕出こぎだそうとする処だった。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「このいおりの北口が、ごもでなく、せめてどんなでもよいから板戸であったら、風も防げるし、夜もすこしは暖かに眠れるのだがなあ……」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
庵りというと物寂ものさびた感じがある。少なくとも瀟洒しょうしゃとか風流とかいう念とともなう。しかしカーライルのいおりはそんなやにっこい華奢きゃしゃなものではない。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「何を言っているのです、吉田がどうしました、御殿がどうしました、近江の国は長等山ながらやまふもと、長安寺の境内けいだい、小町塚のいおりがここなんですよ」
一方はかなり裕福の家から出て、かっぷくも堂々たる美丈夫で、学問も充分、そのひとが草のいおりのわびの世界で対抗したのだから面白いのだよ。
(新字新仮名) / 太宰治(著)
居士が根岸の住みなれたいおりに病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった。余に来てくれという一枚の葉書が来た。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
「いや許せ許せ。おれが悪かつたよ」と相変らずの御豁達かったつなお口振りで、「俺はあれからこつち、この谷奥のいおりに住んでゐる。真蘂しんずい和尚と一緒だよ。 ...
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)