憤懣ふんまん)” の例文
命から二番目の一刀——來國俊を侮辱ぶじよくされた憤懣ふんまんの黒雲が、若い七之助の胸一杯に鬱積うつせきして、最早最後の分別も無くなつた樣子です。
自分の金銭に対する恬淡てんたんさを彼らが全然理解していないことに対する憤懣ふんまんとで、すっかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
おわっても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣ふんまんに近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
思ウニ彼女ハ、世間ノ多クノ父親ト違イ、僕ガ彼女ヨリモ彼女ノ母ヲ熱狂的ニ愛シテイルラシイノニ憤懣ふんまんヲ感ジテイルノデハナイカ。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
とくと見ているうちにいよいよ不快の色で満たされて、この時はさすがにこの人も、その憤懣ふんまんを隠すことができないらしくありました。
「覚明……。お身は二十年の精進と徳行とを一瞬に無に帰してしまわれたの。千日ったかやを、一時の憤懣ふんまんに焼いてしまわれた——」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
零落不平素志を達せずしてつひに道徳上世にれられざる人となることもあるべし。憤懣ふんまん短慮終に自己の名誉をおとすこともあるべし。
罪過論 (新字旧仮名) / 石橋忍月(著)
職業的に校則のみを云々する態度に深い嫌惡けんを憤懣ふんまんの情を抱いて居たので、其等の反感が一時に機會を得て爆發したまでの事である。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
彼は二重の激しい憤懣ふんまんの情を感じた、望んでいた買収をあきらめなければならない憤懣と、取りひしがれた憤懣と。男は続けて言った。
阿部さまもことのほかご憤懣ふんまんのおようすで、上の威勢をしめすためにも、政道のおもてに照して明白にことをわけるようにというご下命。
私の胸中は、まだ憤懣ふんまんちてゐた。私はそれを訴へたい為に、広小路の方まで歩くと云ふK君としばらく一緒に歩くことにした。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
この紙っきれに、あの情熱と憤懣ふんまんとが織り込まれてあったのだ! 彼は、それを引き裂かなかったことを今になって喜んだ。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
『いったいこんなくだらないやくざ者が、どうしてこんなにおれの心を騒がせるんだろう』と、彼に耐えがたい憤懣ふんまんを覚えながらこう考えた。
かれく/\午前ごぜんしばらわすれて百姓ひやくしやう活動くわつどうふたゝ目前もくぜんつけられてかくれて憤懣ふんまんじやう勃々むか/\くびもたげた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そして女のあきらめたような平気さが極端にいらいらした嫌悪を刺戟するのだった。しかしその憤懣ふんまんが「小母さん」のどこへ向けられるべきだろう。
ある崖上の感情 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
客を送ったあと、居間へ戻るなり主税介は独り言を云った、低いけれども憤懣ふんまんのこもった調子で、延べてある茣蓙の端を踏みつけながら云った。
四日のあやめ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しからば何故なにゆえヨブは「しかり!」とこれに応じてその罪を告白しなかったか。何故六章においてその友の推定に対して激しき憤懣ふんまんを放ったのか。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
愚直な蝦蟇ひきがえるは触れられるたびにしゃちこ張ってふくれていた。土色の醜いからだが憤懣ふんまんの団塊であるように思われた。
ねずみと猫 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
この憤懣ふんまんの持って行きどころのないような気持がして、私はまじまじと電灯を凝視みつめながら考え込んでいたのであった。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
当然のことでありながら、主人の寝床をつくるということにさえ堪えられない憤懣ふんまんを忍ぶことが出来ないのです。
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
しかし、彼が自分を恋していないと知っては、多少の憤懣ふんまんを禁じ得なかった。彼に理性的な影響しか与え得ないのを見るのは、やや屈辱的なことだった。
れでわたくし反應はんおうしてゐます。すなはち疼痛とうつうたいしては、絶※ぜつけうと、なんだとをもつこたへ、虚僞きよぎたいしては憤懣ふんまんもつて、陋劣ろうれつたいしては厭惡えんをじやうもつこたへてゐるです。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
その憤懣ふんまんを抱いて敷居をまたぐのだったから、家へ上って行くときの声はえぐるような意地悪さを帯びていた。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
奨励の趣旨が徹底したものか、近所近郷の金紙が品切れになって、それでもまだ候補生までには行き渡らぬために、かわいい憤懣ふんまんがみなぎっているという話だ。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
たえ子は寂しいうちを見ると初めて吻とした気持になつたが、同時に家を出るまで胸にもや/\してゐた憤懣ふんまんや、嫉妬や反抗心が、水をそゝいだやうに消えてゐた。
復讐 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
二人は連れ立って私たちの方へ下り技師もその空いた席へこしかけてかたですうすう息をしていました。ところが勿論もちろんこの事の為に異教席の憤懣ふんまんはひどいものでした。
ビジテリアン大祭 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
そしてまた昨日からの彼に対する憤懣ふんまんの情を和らげることはできないながらに、どうかしてH先生のような立派な方に、彼の例の作家風々主義なぞという気持から
遁走 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
当った方は、目下読書界に白熱的人気の焦点にある新進女流探偵小説家(新進だなんて失礼ナ、既成の第一線作家だわよ——と、これは、梅ヶ枝女史の憤懣ふんまんである)
軍用鼠 (新字新仮名) / 海野十三(著)
大沢と恭一と次郎とは、しきりに憲兵隊や県当局に対する憤懣ふんまんをもらし、朝倉先生は、もっと大きな立場から時代を憂えた。俊亮と奥さんとはいつも聞き役だった。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
かの「大菩薩峠だいぼさつとうげ」において怪奇なる役割を演ずる愛嬌者宇治山田の米友よねともの如く、内心鬱勃うつぼつたる憤懣ふんまんを槍に托し、腕力に散ずることの出来ぬ僕は、文書を以てするのである。
青バスの女 (新字新仮名) / 辰野九紫(著)
日頃のあらゆる憤懣ふんまんが、ヒステリィの女房のこと、やくざな子供達のこと、貧乏のこと、老後の不安のこと、もや帰らぬ青春のこと、それらが、金比羅舟々の節廻しを以て
木馬は廻る (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
主は家隷けらいを疑い、郎党は主を信ぜぬ今の世に対しての憤懣ふんまんと悲痛との慨歎がいたんである。此家このやの主人はかく云われて、全然意表外のことを聞かされ、へどもどするより外は無かった。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣ふんまんに堪えない。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
二と五が出た。しまつたと思つた。富岡の最も嫌な数字だつた。あわててさいころを振りなほした。四と五が出た。富岡は憤懣ふんまんに似た気持ちで、さいころをまた振りなほした。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
「只今だわ。契約期限切れは赤の他人だわ。」と憤懣ふんまんの色をうかべて彼女がこたえた。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
その場の胸中の憤懣ふんまんに、日頃のつつしみを忘れ、軽はずみに事をいそいで、大事をあやまろうとした雪之丞、はからず邂逅した孤軒老師から、新しく智恵をつけられ、翌日、翌々日
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
が、各々おの/\その懷中くわいちうたいして、憤懣ふんまん不平ふへい勃々ぼつ/\たるものがある。したがつて氣焔きえんおびたゞしい。
春着 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
素戔嗚すさのおはずぶ濡れになりながら、いまだなぎさの砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛かいもうの底へ沈んでいた。そこにはけがれ果てた自己に対する、憤懣ふんまんよりほかに何もなかった。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
憤懣ふんまんなどは、皆彼女の内へ内へとめりこんで来、そのどうにかならずにいられない勢が、彼女の現在の生活からは最も遠い、未知の世界である「死」の領内へ向って、流れ出すのであった。
地は饒なり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
根柢こんていより破壊せられたごとく、落胆と憤懣ふんまん慚愧ざんきと一時に胸にき返った。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣ふんまんを感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝ゆううつを味った。
御萩と七種粥 (新字新仮名) / 河上肇(著)
これは竹柴其水たけしばきすいの作であるが、依田学海よだがっかい居士作の「文覚勧進帳もんがくかんじんちょう」にったもので、かつまたそれを勝手に改作したとかいって、学海居士は新聞紙上で憤懣ふんまんの辞を洩らしていたように記憶している。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
浅ましくそういう瀬戸に立ちいたった自身に対する悔恨が、今になってはありありと頭をもたげた。ここまで連れこまれたものに対して腹立しかった。手っ取りばやくその憤懣ふんまんのやり場を探した。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
「なるほど」と突然に兵馬はいったがその声は憤懣ふんまんに満たされていた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
余の如きは胸中大に其無礼ぶれい憤懣ふんまんす、然れ共之れれい放言大語はうげんたいご容易やういしんずべからざるをる、何となれば元と藤原地方の人民はみなつねに這般の言語げんごき、深山にけ入るを禁物きんもつとなす者なればなり
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
正造は吐きだすようにいって憤懣ふんまんにたえぬ面持だった。
渡良瀬川 (新字新仮名) / 大鹿卓(著)
あらん限りの憤懣ふんまんを一時にぶちまけ始めた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
莫迦ばかな」熊城は憤懣ふんまんの気をめて叫んだ。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
読みおわっても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣ふんまんに近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
楡の家 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
嫌悪と憤懣ふんまんの情を忍ぶことから、ここに一種痛烈な快感の生ずる事を経験して、時にはその快感を追求しようというほどにもなっていた。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)