沈着おちつ)” の例文
日本人の仕事が一も二もなくおさえつけられて手も足も出せない当時の哈爾賓の事情を見ては、この上永く沈着おちつく気になれなくなった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
生徒も心を沈着おちつけて碌々ろく/\勉強することが出来ないといふ風だ。でも此節はいくらか慣れて、斯の混雑の中で、講義を続けることが出来る。
突貫 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
「お待ちなされい!」と沈着おちついた声。紋太夫が背後うしろに立っている。オンコッコの腕は紋太夫の手の中にしっかり握られているのであった。
白い肩掛を引掛ひっかけたせいのすらりとした痩立やせだちの姿は、うなじの長い目鼻立のあざやかな色白の細面ほそおもて相俟あいまって、いかにもさびし気に沈着おちついた様子である。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
『この次に。』と智惠子は沈着おちついた聲で言つて、『貴女も早くお歸りなすつたが可いわ。お客樣が被來いらしつたぢやありませんか。』
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
私の母は店の商売の方に気を配らなければならないことが余りにあつて十分と沈着おちついて私達と向ひ合つて居るやうなことはありませんでした。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
と幸三郎は沈着おちついた人ゆえ悠々ゆう/\と玄関の処へ来ますとステッキがあります。これをげ、片手に紙燭ししょくともしたのを持って
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
権田は聊か心が沈着おちついたのか、余り気狂いじみた様子も見えなくなった、静かに秀子の其の創の手を弄ぶ様にして居る
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
お政は始終顔をしかめていて口も碌々ろくろく聞かず、文三もその通り。独りお勢而已のみはソワソワしていて更らに沈着おちつかず、端手はしたなくさえずッて他愛たわいもなく笑う。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
葡萄酒と絹物との産地だから富裕な事は勿論であるが、商業地としてよりも沈着おちついた遊覧地としての感の方が深い。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
彼女の唇からそうしたことばが聞けるものなら、その場で生命を投出したところで惜しくはなかったでしょう、私はとてもじっ沈着おちついては居られませんでした。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
しかしブーレー博士は私と反比例に、沈着おちついた態度で鼻眼鏡をはずした。微笑しいしい両手の指を組み合わせた。
幽霊と推進機 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
わたしどもはちひさいときに』とつひ海龜うみがめつゞけました、折々をり/\すこしづゝ歔欷すゝりなきしてたけれども、以前まへよりは沈着おちついて、『わたしどもはうみなか學校がくかうきました。 ...
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
起居たちいもしとやかで、挨拶あいさつ沈着おちついた様子のよい子だから、そなたたちも無作法なことをして不束者ふつつかもの、田舎者と笑われぬようによく気をつけるがよいと言われた。
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
さうして汐の靜かにさしてくる日沒後の傾斜面は沈着おちついた紫色の光を帶びて幽かに夕づつのかげを浮べる。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
座敷へかえってもそれから何だか気に懸るようなことが出来て、しかも心配はすこしもないが胸さわぎがするので、烟草も沈着おちついて吸えずに半分で灰吹のうちへ葬った。
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
うむその沈着おちついていて気性が高くて、まだ入用ならば学問が深くて腕が確かで男前がよくて品行が正しくて、ああ疲労くたびれた、どこに一箇所ちというものがない若者だ。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
が、何だか沈着おちついても居られないので、市郎は洋服身軽に扮装いでたって、かく庭前にわさき降立おりたった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
古風の湯宿と今樣いまやうの旅館とが入り交つてゐる温泉の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着おちつかせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。
華厳滝 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
幾度も通ったことのある畳廊下を冬子は沈着おちついた心持で歩くことが出来た。重厚なやや古びた造作が親しみ深い。そして川風がせせらぎの音につれて、そよ/\と流れ入って来た。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
座敷にはくるしめる遊佐と沈着おちつきたる貫一と相対して、莨盆たばこぼんの火の消えんとすれど呼ばず、彼のかたはら茶托ちやたくの上に伏せたる茶碗ちやわんは、かつて肺病患者と知らでいだせしを恐れて除物のけものにしたりしをば
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
時雄は常に苛々いらいらしていた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆しょしからも催促される。金もしい。けれどどうしても筆を執って文をつづるような沈着おちついた心の状態にはなれなかった。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着おちついていた。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
としはゞ二十六、おくざきはなこづゑにしぼむころなれど、扮裝おつくりのよきと天然てんねんうつくしきと二つあはせて五つほどはわかられぬるとくせう、お子樣こさまなきゆゑ髮結かみゆひとめひしが、あらばいさゝか沈着おちつくべし
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
「私が開けました」と妻の沈着おちつき払った答。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
お春はそれとも気付かずに、何となく沈着おちつかないという様子をして、別なことを考えながら働いていた。何もかもこの娘には楽しかった。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
『この次に。』と智恵子は沈着おちついた声で言つて、『貴女も早くお帰りなすつたがいわ。お客様が被来いらつしやつたぢやありませんか。』
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
続いて同じ用件で数回の会見を重ね、或時は家では沈着おちついて相談が出来ないからと、半日余りも旗亭きていで談合した事もあった。
「さて、これからが愚老の領分じゃ」老師は悠々沈着おちつきながら法衣の下に隠していた例の幻灯の機械を引き出し、シューッと光をほとばしらせた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それから又沈んでまた浮く、其のうちにがぶ/\水を飲んで苦しむので断末間だんまつまくるしみをして死ぬのだと云う事で、沈着おちついた人は水へ落ちても死なぬと申します
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
博士が「手術をしよう」と沈着おちついた小声で言はれた時、わたしは真白な死のきりぎしに棒立になつた感がした。
産褥の記 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
それだけに至極沈着おちついているようであったが、しかし這入ってから出るまで一言も口を利かず、何気もない挙動の中に緊張味がみちみちて、油断のない態度であった。
二重心臓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温なまぬるい春風が吹渡ッたように、総ておだやかに、和いで、沈着おちついて、見る事聞く事がことごとく自然にかなッていたように思われた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
小菊は別に私を恨む樣子もなく、然しまるで昔の人ではないやうな、沈着おちついた聲音こわねになつて
歓楽 (旧字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
光代は傍に聞いていたりしが、それでもあの綱雄さんは、もっと若くって上品で、沈着おちついていて気性が高くって、あの方よりはよッぽどようござんすわ。と調子に確かめてひざ押し進む。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
いでけたままの皮どうなるものかと沈着おちつきいたるがさて朝夕ちょうせきをともにするとなればおのおのの心易立てから襤褸ぼろが現われ俊雄はようやく冬吉のくどいに飽いて抱えの小露が曙染あけぼのぞめを
かくれんぼ (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
樺は一見神経質らしい、それでいやに沈着おちつきすました若い男で、馬も敏捷びんしょう相好そうごうの、足腰のしまった、雑種らしい灰色なんです。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
みんなソワ/\して、沈着おちついてる顔は一人も無かった。且各自めいめいが囲んでる火鉢は何処からか借りて来たと見えて、どれも皆看馴れないものばかりだ。
郡兵衛今は魂消え気え、怒りばかりは燃え狂っていたが、頭は乱れ胸は動悸、沈着おちつきことごとく失われてしまった。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そうして二人ともタッタ今血を見た人間とは思えぬ沈着おちついた態度で、街道のわきに立止まった。
斬られたさに (新字新仮名) / 夢野久作(著)
幸「ムヽー、おい…マアこれ沈着おちつかないかよ、静かにしなくっちゃアいけねえじゃアねえか」
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
凉しいランプの光の中に、をんなは美しくも夕化粧した上に外出そとでの着物まで着換へて、私の歸りを待つて居たらしい樣子であつた。「お歸んなさい」と如何にも沈着おちついた一聲。
歓楽 (旧字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途いちずに叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後沈着おちついて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
「いや、それはすこし違います。あの人の心持が沈着おちついては来ましょうが、馬鹿々々しいことをしたとは考えまいと思います」
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
この夜、燈火ともしびの下で、総司とお力とは、しめやかに話していた。従軍を断念したからか、総司の態度は却って沈着おちつき、容貌かおなども穏やかになっていた。
甲州鎮撫隊 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
勇気に富みながら平生は沈着おちついて鷹揚おうようであるはなしをして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
見物「気がなげえじゃアねえか、喧嘩の中で煙草を呑んで沈着おちついて居るえれえじゃアねえか」
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
先生は極めて沈着おちついた調子で
歓楽 (旧字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
「こう薬の手伝いでもして、子のことを考えて行くような、沈着おちついた心には成れないものですかねえ。その方が可いがナア」
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
せむしの老人——いずれも人の世の惨苦者さんくしゃであったが、信仰を失ってはいないと見えて、その動作にも話しぶりにも、穏かな沈着おちついたところがあった。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)