此方こちら)” の例文
此方こちら焚火たきびどころでい。あせらしてすゝむのに、いや、土龍むぐろのやうだの、井戸掘ゐどほり手間てまだの、種々いろ/\批評ひひやうあたまからかぶせられる。
此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉のどえるをだま手段てだてなくあまつさえ死人しびとかざ腐付くさりついて此方こちらの体も壊出くずれだしそう。
烈々れつ/\える暖炉だんろのほてりで、あかかほの、小刀ナイフつたまゝ頤杖あごづゑをついて、仰向あふむいて、ひよいと此方こちらいたちゝかほ真蒼まつさをつた。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
此方こちらには葡萄棚もあり其の他種々いろ/\菓物くだものも作ってありまして、彼是一町ばかり入ると、屋根は瓦葺かわらぶきだが至って風流な家作やづくりがあります。
ある日見知らぬかみさんが来て、此方こちらの犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏しゃもの頭と足を二本出して見せた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
その後どんな風にして暮しているのやら、気にかかりながらつい此方こちらから尋ねても見ず、先方からも何のたよりもありませんでした。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
けれども、此方こちらの請求をれて下さらなければむを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
物事がアベコベになって、世間では漢書をよんでから英書を学ぶとうのを、此方こちらには英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
行きさへすれば此方こちらで黙つてゐても、それと察して出してくれる金をあてに、始終龍一の処に行くのも苦しくてたまらないのであつた。
惑ひ (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
次第に離れて行く岸には、支那人やロシア人が大勢集まつて此方こちらを見てゐた。中には此方こちらを指して何か言つてゐる者などもあつた。
アンナ、パブロオナ (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
この時火を焚き付けていた悪者は、もう火が燃え上ったので此方こちらに歩いて来たが男の前にあった桶を一つ持って渓川へ水をくみに行った。
捕われ人 (新字新仮名) / 小川未明(著)
その味と素麺のつるつるした冷たさ 歯ぎれ工合が異常な感覚的実現性をもってモスクヷの一米ある壁の此方こちらまで迫って来たのだ。
一九二九年一月――二月 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
後にて店の若衆わかいしゅにきけば腹ちがひの妹とやら言はれて何ともつかず此方こちらが気まりわるくなり、更に近処の烟草屋で内々にきいて見れば
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
趣味からいっても今の方がいい。経済から見ても此方こちらが有利とすれば、この上に昔風論者の反対する根拠は無いわけだからである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
真事はその間を向う側へけ抜けて、朝鮮人の飴屋あめやの前へ立つかと思うと、また此方こちら側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立たたずんだ。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
阿修羅のように荒れ出した金蔵が、血刀を振りかざして、遥かの彼方あなたの野原から此方こちらをのぞんで走って来る光景がありありと見えます。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
『彼女は、たゞ恥かしがつてゐるのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方こちらから取り去つてやればそれでいゝのだ!』
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
およそ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸いいぐさ愛想尽あいそづかしと聞取ッたのは全く此方こちら僻耳ひがみみで、或は愚痴で有ッたかも知れん」
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
『さうですか、まあ厭だ。この間もね、今日はすつかり此方こちらへ行つてお話して来た。すつかりお話して来たなんか云つて居るのですよ。』
女が来て (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
處が、そこへ此方こちらのご主人が出ておいでなすつて、折角登りかけた梯子から泥沼の中へ突き落しておしまひなさらうといふんだ。
人形の家 (旧字旧仮名) / ヘンリック・イプセン(著)
「へエ/\、早速此方こちらから、お屆けする筈でしたが、取紛とりまぎれてこの始末でございます。もう、あの、お聽きでございましたか、親分さん」
何しろ、久し振りで此方こちらの師匠が雛段ひなだんへ据ったのが、あれが、こうっと——四日前の大さらえでげしたから、未だ耳の底に残っていやすよ。
助五郎余罪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
大原は携え来りし大風呂敷を大切そうに脇へ置き「奥さんお登和さんは此方こちらに来ておいでですか」と挨拶より先にその事を問う。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
何ういう心であるか、余処よそながら見て置かねばならぬ。もし間違って、此方こちらの察した通りでなかったならば、其れこそ幸いだが。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
福岡の方では今度のことを言ひがゝりにして、だから老人としよりに子供を任せては置けない、三人とも此方こちらへ寄越せときびしく云つて來るんだらう。
孫だち (旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)
話す時、大げさな身振りをするので此方こちらが恥かしくなるわ。でもフランス娘は敏感で、とてもこちらの気持を直ぐ汲み取るわ。
母と娘 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
……それゆえに、実はわざと、てまえが此方こちらから、渡られい、渡られい、と幾度も、わないざなうつもりで、お呼びしたのじゃが。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方こちらを向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、なお奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
あゝ云ふことになると云ふも、皆な前世からの約束事とあきらめてネ——それにうやつて此方こちらの先生様が御親切にして下ださるもんですから
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
十七、八の金髪の娘が一人、向うの隅っこに身をひそませていたが、何か青い毛糸の編針を動かし動かし、キッと此方こちらを見た。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
すると向こうから、姫苦蓬ひめにがよもぎ荒地野菊あれちのぎく雑叢ざっそうの間を、静枝が此方こちらヘ歩いて来るのだった。静枝は女優のように着飾っていた。
接吻を盗む女の話 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
言譯は後にしまするとて手を取りて引けば彌次馬がうるさいと氣をつける、何うなり勝手に言はせませう、此方こちらは此方と人中を分けて伴ひぬ。
にごりえ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
可憐いとしひとよと手を取らむとすれば、若衆姿の奈美女、恥ぢらひつゝ払ひけ。心き給ふ事なかれ。まづ此方こちらへ入らせ給へ。
白くれない (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「馬の飼葉かひばに牡蠣をやつてくれ。」——それを聞いたお客達は、今迄話してゐたお喋舌しやべりめて、一斉に此方こちらを振り向いた。
此方こちらも藤原同様、叔母御が斎姫いつきで、まだそんな年でない、と思うているが、又どんなことで、他流の氏姫が、後を襲うことにならぬとも限らぬ。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
「白髪を清めて元日をまつ所に、汝何人なれば我が白桜下に来り、我と対して座せるや」というに筆を起して、此方こちらが何かいうと、向うも何かいう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
それで今度は此方こちらから誘ふやうにして迄、転々として遊蕩生活に陥り込んで行つたんだ。失恋、——飲酒、——遊蕩。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
此方こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠が段〻を成して見え、粟や黍が穂を垂れて居るかとおもへば、兎に荒されたらしい至つて不景気な豆畠に
観画談 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
「あのね塀和さん、此梅ちやんとはね、私が吉原あちらにゐた時分姉妹のやうにしてゐたのですよ。此方こちらはね、宅のお友達で京都からいらつしやつたのよ」
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
壑の前方むこうの峰の凹みに陽が落ちかけていた。情熱のなくなったような冷たいその光が微赤うすあか此方こちらの峰の一角を染めて、どこかで老鶯ろうおうの声が聞えていた。
陳宝祠 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
すると、いいえ、何事もありません、と云って、そのまま此方こちらへ来た筈なんですのに——それで、今思い出したもんですから、ひょいと呟いたんですわ
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「あれがもしか此方こちらへまいっていはしませんでしょうか、いましがた犬を追って出てから戻らないんで……夜分でしたがおうかがいしに上ったのです。」
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
そしてこの場合にもまた均衡点の此方こちらにおいては、商品の供給はその需要より大であり、これは価格の下落を生ぜしめる。すなわち均衡点を離れしめる。
入口いりくち彼方あちらなが縁側えんがはで三にん小女こむすめすわつてその一人ひとり此方こちらいましも十七八の姉樣ねえさんかみつてもら最中さいちゆう
湯ヶ原ゆき (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
男は「八なら此方こちらで買わあ、一万でも二万でも……」と笑いながら出て行く。電話のべるは相変らず鳴っている。
一日一筆 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
桶を担うた人に連れられて、リツプがこの異人の群に近寄つた時に、渠等は俄に遊を廃めて、此方こちらを見ました。
新浦島 (新字旧仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
どうも人の話を聴いているのはだらしくてたまらぬ。それであるから対手あいてが誰でもかまわぬ、御先にご免をして、此方こちらからさっさと独りで話し出すのである。
我輩の智識吸収法 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
やがて此方こちらへ向き直った博士に、ぼつぼつ事情を訴えたが、博士のいわく、若旦那からは何もきいていない。
荒蕪地 (新字新仮名) / 犬田卯(著)
白い着物をつけた助手は自分の脚の方に椅子へ腰をかけて黙って脇を向いていたが断えず此方こちらに注意していた。看護婦も一人来て頭の方に黙って控えていた。
病中記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
忘れしが此方こちらの旦那が歸られたるあとにて心付こゝろづきるに其の金子何れへ紛失ふんじつせしにや一向分らず因て嚴重げんぢうに家内を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)