難波なにわ)” の例文
実際、生絹はもはや難波なにわの里べで見た女とは変って、おもだち清く品は眉宇びうにあふれて青菜をあらうむかしの生絹の姿ではなかった。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
かれの軍が、大坂へもどると、難波なにわの津から一変した新しきこの大都市の住民は、道や城の附近へ押し寄せ、夜まで、歓呼かんこしていた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
つまりは難波なにわあしは伊勢の浜荻はまおぎといったごとく、中部のタヌキは関東のムジナなので、タヌキ又の名がムジナだったのではない。
狸とムジナ (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そこでどこまでもおひめさまのおともをして行くつもりで、まず難波なにわのおとうさんのうちへおれしようとおもって、鳥羽とばからふねりました。
一寸法師 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
いちばんのお兄上の伊邪本別皇子いざほわけのおうじは、お父上のきおあとをおつぎになって、同じ難波なにわのお宮で、履仲天皇りちゅうてんのうとしてお位におつきになりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
と、襟の扇子をと抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京はべに、雪の狩衣けながら、下萌したもゆる血の、うら若草、萌黄もえぎ難波なにわの色である。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
俺は、それお特得はこの、「親々おやおやいざなはれ、難波なにわうら船出ふなでして、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待かぜまちにテチンチンツン……」
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
この時にオシクマの王は、難波なにわ吉師部きしべの祖先のイサヒの宿禰すくねを將軍とし、太子の方では丸邇わにの臣の祖先の難波なにわネコタケフルクマの命を將軍となさいました。
災害史によると、難波なにわ土佐とさの沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。
天災と国防 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波なにわ宮に行幸あらせられたとき志貴皇子しきのみこ(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島やそしま祓えや御禊ゴケイの行われた難波なにわの「御津ミツ」などがあるのだ。
水の女 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、難波なにわの津に向う勃海使ぼっかいしの乗船であった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
呼べど答えぬ百余里の彼方かなた難波なにわの宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
仁安三年の秋には、あしの花散る難波なにわて、須磨・明石の浦ふく汐風を身にしみじみと感じながら、旅をつづけて四国にわたり、讃岐さぬき真尾坂みおざかの林というところに、しばらく逗留することにした。
私の家の家柄は、長者の家などに比べましては、筋目が正しいのでございまして、あの善光寺の如来様を難波なにわの池から拾い上げた本田善光よしみつ後胤こういんとか。それで代々家のおさは、如来衛門と名のります。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
もしほ焼く難波なにわの浦の八重霞やえがすみ一重ひとえはあまのしわざなりけり
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
いとゞ難波なにわのうらはすみうき
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「あははは。見たも同じよ。その信長も、前には難波なにわの石山、三好勢。うしろには、この大軍。どこへ逃げ得よう。——網の魚だわ」
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
むかし、摂津国せっつのくに難波なにわというところに、夫婦ふうふものんでおりました。子供こども一人ひとりいものですから、住吉すみよし明神みょうじんさまに、おまいりをしては
一寸法師 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
それに引きかえ、このの国の難波なにわのさぶしさはしのんでも、きょうあすのあわをさがすのにもほとほと永い間のことですもの。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「それならば、これから難波なにわへかえって、中津王なかつのみこちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
その國から上つておいでになる時に、難波なにわわんを經て河内の白肩の津に船をおめになりました。
それはこの家が物部守屋連もののべのもりやのむらじの子孫であって、善光寺の御本尊を難波なにわ堀江に流し捨てさせた発頭人ほっとうにんだからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
もしほ焼く難波なにわの浦の八重霞やえがすみ
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
難波なにわの神崎川、中津川辺の湿地帯で、石山御坊の僧軍や、中島とりでの三好党の大兵などと対峙たいじして、連日、苦戦をつづけていた信長の耳に
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すでに、そういう占う男の言葉によらなくとも、何か気負うた生絹の眉や眼の奥にも、難波なにわの土の匂いはとうにせていた。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
そして摂津国せっつのくに難波なにわから、おとうさんやおかあさんをせて、うちじゅうがみんなあつまって、たのしくの中をおくりました。
一寸法師 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
そのとき天皇は、高殿たかどのにお上りになって、その黒媛くろひめの乗っている船が難波なにわの港を出て行くのをごらんになりながら
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
オホサザキの命(仁徳天皇)、難波なにわ高津たかつの宮においでになつて天下をお治めなさいました。
岩崎覚左衛門はいずれの国の生まれか知らぬが、かの難波なにわあしも伊勢の浜荻はまおぎの歌をもどいて「ヘヲとは謂はで」と詠んだのを見れば、この語は相応人に知られた普通名詞であった。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
なんでも、神崎かんざきの遊女をひかせて、難波なにわ合邦がっぽうつじあたりに囲っており、そこから通っているのだと、長屋中ではいっていた。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あるとき摂津国せっつのくに難波なにわまでおいでになりますと、見慣みなれないかみさまが、うみわたってこうからやってました。みこと
赤い玉 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
おまえと別れてから間もなく、おれは、例の善信の奴が、岡崎の草庵を出て、難波なにわから河内かわちのほうへ旅に出たのを知ったからけて行った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
といって、おこって一人ひとりずんずん小舟こぶねって、日本にっぽんくにげて行きました。そして摂津せっつ難波なにわまでてそこにみました。それがのちに、阿加流姫あかるひめかみというかみさまにまつられました。
赤い玉 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
そのむかしの難波なにわ葦原あしわらは、埋めたてられ、切りひらかれ、はや掘割も縦横に掘られ、町地割のできた所には、商人の仮屋が軒を並べ始めている。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
太子たいし摂津せっつくに難波なにわのおみやへおいでになって、それから大和やまときょうへおかえりになるので、黒馬くろうまって片岡山かたおかやまというところまでおいでになりますと、山のかげ一人ひとりものべないとみえて、るかげもなく
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
「いまから阿倍野、生野いくのを歩いて、淀へ出るには大ごとです。夜が明ければ、出見いでみノ浜から難波なにわへ通う乗合舟がある。それにお乗りなされては」
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この日あたり、六波羅軍が、すでに京を発し、難波なにわへいそいだとの飛報が、しきりに、天王寺界隈かいわいを騒がせていた。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もちろんこれは信長の企画きかくである。叡山えいざんや京都や難波なにわの変に駈けつける日の備えであることもいうまでもない。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まだ「大坂」という地名はなく「難波なにわ」とよび、また、「小坂おさか」といっていたその頃から、四天王寺は堂塔四十幾ツの輪奐りんかんせた大曼陀羅だいまんだらの丘だったが
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
舟は難波なにわ(大阪)の平沙へいさや芦やまばら屋根を横に見つつ、まだひるまえも早目に、長柄ながらの河口に着いていた。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、彼が次の作戦のため、吉次にいいつけておいた船の準備も、あの男の事である、もう手配もついて難波なにわの淀の口に、みよしをならべて待ちぬいているであろう。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今、難波なにわに新たなお住居を作らせつつあります。ここの眺望、居心地は、姫路の比ではありませぬ。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大江は、名にしおう難波なにわの大河で、そのころ、河幅二百六十けんといわれ、良暹りょうせん法師の旅の歌にも
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四天王寺を中心に、難波なにわ、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられておりました。……和泉、摂津の浜は、なべて楠木勢の持ち場だが、欲しい船がたくさんにはない。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
難波なにわの旅寝をその夜かぎりとして、次の日の主従ふたりはもう京へのぼる淀川舟の上だった。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
表面は夜凪よなぎのとおり無事平穏に天神岸からともづなを解いた二百石船——淀の水勢に押されて川口までは櫓櫂ろかいなしだが、難波なにわ橋をくぐり堂島川どうじまがわを下って、いよいよ阿州屋敷の女松めまつ男松おまつ
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
月もこのごろは夜はわけてもし、折から、めずらしい琵琶びわ法師が難波なにわから来て滞在しているから、平家の一曲をお耳に入れ、姫や自分からも、親しく、先ごろのお礼を申しのべたい
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長が、眼をつけている——また将来の進出を考えている地形としては、難波なにわの地、大坂にあったが、そこには頑強な反信長の法城本願寺があって、当分、揺るぐべくも見えないのである。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
難波なにわの葭に、行々子よしきりが高い。花はちり、行く春のちまたに、ほこりが舞って、長い長い甲冑の武者や馬の出陣列に、花つむじが幾つもの小さいつむじを捲き、それが自然の餞別はなむけのように見えた。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)