おびや)” の例文
それがひとうように規則的きそくてきあふれてようとは、しんじられもしなかった。ゆえもない不安ふあんはまだつづいていて、えず彼女かのじょおびやかした。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
不健全な頭に、また凄じい性慾の目覚めに、常におびやかされてゐた私は、悲しい失恋者として考へて見ることに非常に興味を持つた。
ある日 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、おのれおびやかすのを意識した。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
開戦の劈頭へきとうから首都巴里パリーおびやかされやうとした仏蘭西フランス人の脳裏には英国民よりもはるかに深くこの軍国主義の影響が刻み付けられたに違ない。
点頭録 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
ひそかに人の首を斬って、橋の上や辻々へ捨札すてふだと共に掛けて置きます。市民の財産の危険はようやく生命の危険におびやかされてきました。
大菩薩峠:10 市中騒動の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
かれが、おびやかされた向うの男は、どこからか、きわめてほのかにさす光線で、自分のかげを自分の目に映した一面の姿見なのであった。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者におびやかされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
大入道や一つ目小僧などに化けて、村の百姓をおびやかすのは、狸界における末輩の芸当だ。そんなのは、とうの昔に卒業している。
支那の狸汁 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
あの頃は世界の大勢に逆行しあわせて我我若い婦人の内部要求を無視した旧式な賢母良妻主義が一般女子教育家の聡明をおびやかして
婦人改造と高等教育 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
神田鍋町の呉服屋、翁屋おきなやの支配人孫六は、何にか物におびやかされるやうに眼を覺しました。土藏の方から、異樣な物音が聽えて來たのです。
朝鮮半島との軍事的接触はやがて西方の文化との密接な関係をび起こし、この方面からも素朴な原始的統一はおびやかされ始めた。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
学者一度ひとたび志を立てては、軒冕けんべんいざなう能わず、鼎鑊ていかくおびやかす能わざるものがなくてはならぬ。匹夫ひっぷもその志は奪うべからず、いわんや法律家をや。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
それは、最初鵜飼の腸綿ひゃくひろの中に現われて以来、あるいはくらの瞳の中に映ったり、また数形式ナンバー・フォームスの幻ともなって、時江をおびやかした事もあった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
儂達わしたちの戦闘第十三戦隊の三機は、幾度いくたびとなく母艦ぼかん滑走甲板かっそうかんぱんから、空中へ急角度に舞いあがって、敵機とわたり合い、軽巡けいじゅんの戦隊をおびやかした。
恐しき通夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そんな話をきいていると、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すように感覚をおびやかしていた異臭をまた想い出すのだった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
このときねずみにくさは、近頃ちかごろ片腹痛かたはらいたく、苦笑くせうをさせられる、あの流言蜚語りうげんひごとかをたくましうして、女小兒をんなこどもおびやかすともがらにくさとおなじであつた。……
間引菜 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
頼長は一人でいらいらしていたが、驚きと恐れとにおびやかされている家来どもをいかに叱り励ましても、しょせんはその効はあるまいと思われた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
果せるかな恐ろしい異人の黒船は津々浦々をおびやかすと聞くけれど、ああこの身は今更に何としようもないではないか……。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
私の小さな心をおびやかすように感じられて来たので、私は魚を獲ることなどはすっかり思いとまって、そこそこに舟を岸に漕ぎ戻したことがあった。
艸木虫魚 (新字新仮名) / 薄田泣菫(著)
祖父の姿を見ようとして窓からのぞき出すと、街道はひっそりしていた。すべてのものがおびやかすような様子になりだした。
箱根の山に山寨さんさいを構え海道筋を稼ぎ場とし旅人を嚇しおびやかしていた彼人丸左陣よりは貫禄においても上位うえにあるからだ。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
更に西蔵チベットの関係を見るに、これもまたしかりである。西蔵チベットはもしそれが他の勢力を帰すると、直ちに印度インドがそのおびやかすところとなるという地勢である。
三たび東方の平和を論ず (新字新仮名) / 大隈重信(著)
磯村が何か深い心配事があるやうな調子で、さう言つて、妻におびやかされたのは、三日ばかり前の夜のことであつた。
花が咲く (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
水に追われた人と、火に追われた人が、今にも大きな地割がして、総ての人類は埋もれてしまいそうにおびやかす土を踏んで、松林の中にかたまっていた。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
取るものも取りあえず上京して目黒の精神病院を訪問してみますと……又もシインとするほどおびやかされたのでした。
キチガイ地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
夢は私の耳の傍へ近づくか近づかない間に、骨の髓もこほる程の恐ろしい出來事におびやかされて怖氣おぢけづいて逃げ去つた。
伸太郎 何も世間から逃れて、ひっそり暮している人の住居をそうおびやかしに行かなくってもいいんじゃないかね。
女の一生 (新字新仮名) / 森本薫(著)
北園竜子は本名を山本京子きょうこといい、自分の肉親の妹だが、三重渦巻の異様な指紋を持っていたので、それを利用して川手一家のものをおびやかす手段とした。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
こうした診察を受けて以来、生命の安全が刻々におびやかされて居るような気がした。殊に、ちょうどその頃から、流行性感冒が猛烈ないきおい流行はやりかけて来た。
マスク (新字新仮名) / 菊池寛(著)
竜神松五郎が房州沖で、江戸へ行く客船をおびやかして、乗組のりくみ残らず叩殺たたきころしたが、中に未だ産れ立の赤ン坊がいた。
悪因縁の怨 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
かくの如くに反覆して雷火におびやされたので、抽斎は雷声をにくむに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、蚊幮かやうちに坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
一年あまり、心を盡して情を求めて來た妻のおつゆが自分を遠く離れて行くのも目の前に迫つてゐるやうで、ふは/\した彼れの魂は絶えずおびやかされてゐた。
仮面 (旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)
と、またおびやかすように力強い声でじっと吉田の顔を覗き込んだのだった。吉田は一にも二にも自分が「その病気」に見込まれているのが不愉快ではあったが
のんきな患者 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
私と妹と急に一時に帰ると姉が自分の病気が死におびやかされていることに気がつくことを恐れますから、妹だけ先に帰して、私は少し遅れて帰ろうと思っています。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
また関長をおびやかす 事情を打明けて通過の許可書を与えてくれといいますと「どういう用事か」という。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
こうして、一ぽんは、この世界せかいたが、るもの、くものにこころおびやかされたのであります。
明るき世界へ (新字新仮名) / 小川未明(著)
緑色の絹笠のかかったラムプは、海の底のような憂鬱ゆううつな光を部屋の隅々まで送って、どこともしれない深さに沈んでいくようなおぬいの心をいやが上にもおびやかした。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しゅうとおびやかすような出過ぎた真似をしないように、君もひとつ泥にまみれてくれというのだ……返事はすぐでなくてもいい。まあ明日までゆっくりとかんがえてもらおう
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
云って見れば、それが現在の彼女の、不為合ふしあわせなりに、一先ずくところに落ち著いているような日々をおびやかそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
天地にとどろいた、今の音が、起ったらしく思われる南山みなみやまの空を仰いだ、と直ぐ眼についたのは、おびやかされて群れ乱れたおびただしいとりであった、緑につつまれた山も野もすてて
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
相手は彼の生命をおびやかすから、そのつもりでゐろ、と断言した。さうなると、彼は自分の正しさを主張するすべも失つて、唯悪かつたと謝るより仕方がなくなつて来た。
日本三文オペラ (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
一方争議団をおびやかすため、一面機械をさびつかせない程度には、からの運転をしていたのである。
(新字新仮名) / 徳永直(著)
ざあーッと云う松風の音の間から、カサカサと鳴る声がいよいよしげく私の耳をおびやかして居る。
母を恋うる記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
真佐子と復一は円タクにおびやかされることの少い町の真中をおくするところもなく悠々ゆうゆうと肩を並べて歩いて行った。復一が真佐子とこんなにそばへ寄り合うのは六七年振りだった。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
単于ぜんうは彼らを殺そうとはしないで、死をもっておびやかしてこれをくだらしめた。ただ蘇武一人は降服をがえんじないばかりか、はずかしめを避けようとみずから剣を取っておのが胸を貫いた。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
之に加ふるに東側の巌端には危ふく懸れる倒石ありて我をおびやかし、西方の鉄窓には巨大なる悪蛇を住ませて我を怖れしめ、前面には猛虎のをりありて、我室内に向けて戸を開きあり
我牢獄 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
だから、何もわからないながらも、私はたしかにこの言葉におびやかされた。で、私は遂に、足掛け七年も暮した朝鮮で、誰に対しても一度だって真実ほんとうのことを話したことはなかった。
鶴見は震災後静岡へ行って、そこで居ついていたが、前にもいった通り戦火におびやかされて丸裸になり、ちょうど渡鳥が本能でするように、またもとの古巣に舞い戻って来たのである。
猛獣や毒蛇どくじゃおびやかされることもあった。夜は洞穴ほらあな寂寞せきばくとして眠った。彼と同じような心願しんがんを持って白竜山へ来た行者の中には、麓をさまようているうちに精根しょうこんが尽きて倒れる者もあった。
仙術修業 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
死よ、いかに我らをおびやかしてもよい。イエスは神に立てられて、我らの義と聖と救贖あがないとになり給うたのだ。もはやキリスト・イエスにある神の愛から、我らを離れしむるものは何もないのだ。