遣瀬やるせ)” の例文
いよいよ湧起わきおこる妄想の遣瀬やるせなさに、君江は軽くまぶたを閉じ、われとわが胸を腕の力かぎり抱きしめながら深い息をついて身もだえした。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
遣瀬やるせの無い焦燥が全身を駈巡って、心臓が熱く激しく急速度の動悸を打出して来る。同時に頭部がたぎって来る。続いて眩暈が来る。
彼を思ひ是を思ふに、身一つにりかゝるき事の露しげき今日けふ此ごろ、瀧口三の袖を絞りかね、法體ほつたい今更いまさら遣瀬やるせなきぞいぢらしき。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
お母さんの言出した話は、それが国の方の姉の噂であるのか、自分の遣瀬やるせない述懐であるのか、よく分らないような調子に聞えた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しかし主上の胸中の遣瀬やるせなさは益々つのるばかりで、あるとき、古歌の恋歌を冷泉少将隆房れいぜいのしょうしょうたかふさを通じて葵の前にお渡しになった。
で、親族しんぞくをとこどもが、いどむ、なぶる、威丈高ゐたけだかつて袖褄そでつまく、遣瀬やるせなさに、くよ/\浮世うきよ柳隱やなぎがくれに、みづながれをるのだ、とふ。
みつ柏 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
私がはかない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬やるせない涙を以ておおわれました。
柳原燁子(白蓮) (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
こうして、私にとっては辛いとも遣瀬やるせないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
弟にはさぞ羨しいことだらうと、思つてみては遣瀬やるせないのであつたが、こんな場合にも、猶生活の変化は嬉しいのである。
亡弟 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬やるせなくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。
古い村 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
勘次かんじつてからおしなその混雜こんざつしたしかさびしい世間せけんまじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあく決行けつかうしてしまつた。おしなはらは四つきであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
それは、役所からしずかな街を通っててくてく宿へ帰って行くときよりも、もっともっと深い寂しさ、遣瀬やるせなさであった。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
梅雨どきのこととて、国府津こうづを過ぎる頃は、雨がしきりに降り出して、しとしとと窓を打ち、その音が、私の遣瀬やるせない思いを一層強めるのであった。
猫と村正 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
このごろ胸郭むねが急にうつろになって、そこを秋風が吹くような気がする。ことに夕方は身もこころも遣瀬やるせなく重い。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
襦袢じゆばんや何かを縫つたり又は引釈ひきときものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうなをりのなかにゐる遣瀬やるせなさを忘れて
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
じつは無に帰したものの遣瀬やるせない憂愁ゆうしゅう、抑えに抑えつけられた絶望なのだと、ひとしきりそんなことを考えた。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
「出来ないんです、気根きこんが続かなくつて。」麦僊氏は遣瀬やるせが無ささうに左手の掌面てのひらで右の二のかひなを叩いた。「いつ迄こんななのか知ら。真実ほんとうに困つちまふ。」
そこに無理に作った遣瀬やるせ無い思いや不如意の果敢はかなさを、今度は常情以上の悲痛な液汁えきじゅうにして、まるで酢を好む人のようにも先生はむさぼすすったのかも知れません。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
けれども、やがて暗い黄に移り、雲が魚のような形で、南の方に棚引き出すと、時江はその方角から、ふと遣瀬やるせない郷愁を感じて、心が暗く沈んでしまうのだった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それを思うと、彼女は遣瀬やるせないように悲しくなった。しかし又、一方から考えると、母に小判二枚を下さるというのは、殿様が自分を愛している証拠とも見られる。
番町皿屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼女は、遣瀬やるせなさとかなしさと、不安との為めに立上ることも出来ずにいた。そして、彼女の美しい腕や胸は疲れて、眼は不安に空を見つめたまゝしばらくふるえていた。
咲いてゆく花 (新字新仮名) / 素木しづ(著)
魚群の到来を村人に知らすサイレンのスウィッチを握ったりして、遣瀬やるせなく腕をやくしていた。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
遺骸だけでも捜してやることをしなかったと残念でならないのであった。どんなふうになってどこの海の底の貝殻かいがらに混じってしまったかと思うと遣瀬やるせなく悲しいのであった。
源氏物語:54 蜻蛉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
物悲しさだった、甘い寄りどころない遣瀬やるせなさでもまたあった。烈しくそれは次郎吉の五体を揺ってきた。否、五体の隅々果て果てまでを、切なく悩ましく揺り動かしてきた。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
他所の掃溜はきだめあさってみたり。物を貰うて又生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛らさが。遣瀬やるせないほど身にみ渡る。又は吾身の姿に恥じて。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「そうさ、それが出来るようなら文句はねえんだが……」と遣瀬やるせなさそうに面を挙げて
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬やるせないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをしておろさうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
心細さの遣瀬やるせがなく、泣くより外にせんがなかったのだろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙がみなぎり出してとめどがない。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
……むこうが追いこみにかかっているというのに、こっちは、あっけらかんと口をあいて眺めているというんじゃア、月番の北の番所としちゃ、じつにどうも遣瀬やるせのねえ話なんで。
逸子はもう、何も彼も投げ出して仕舞ひたいやうな遣瀬やるせなさを感じてり/\した。
惑ひ (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
こうしたはかない子供心の遣瀬やるせなさを感じながら日ごと同じ場所に立つお屋敷の子の白いエプロンを掛けた小さい姿を、やがて長屋の子らが崖下から認めたまでには、どうにかして
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
そのきめのこまかい皮膚は、魚のようにねっとりとしたつやとピチピチした触感しょっかんとを持っていた。その白い脛が階段の一つをのぼる度毎たびごとに、緋色ひいろの長い蹴出けだしが、遣瀬やるせなくからみつくのであった。
階段 (新字新仮名) / 海野十三(著)
芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬やるせなき恋を語ったらどうであろう。危座きざして自分をいさめるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
彼が妻のふところ啜泣すすりなきしても足りないほどの遣瀬やるせないこころを持ち、ある時は蕩子たわれお戯女たわれめの痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
どうしてあのように軟く人の空想を刺㦸するように出来ているのであろうと、相も変らず遣瀬やるせなき追憶の夢にのみ打沈められるのである。
と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立さわぎたつらしい胸の響きに、烏帽子のふさの揺るるのみ。美津は遣瀬やるせなげに手を控える。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
然るに、悪いことをすれば、法律というもののために罰せられねばならない。従ってそこに法律という厭なものに触れる恐ろしさ遣瀬やるせなさが生じて来る。
「心理試験」序 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
彼は初めてそうした華やかな群の中へ入ったのだが、何というわけもなく、沁々しみじみ寂しさと遣瀬やるせなさを感じた。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
リャボーヴィチは名残りの一瞥をメステーチキ村へ送ったが、するとまるで、とても馴染みの深い親しい人に別れでもするような、ひどく遣瀬やるせない気持になってしまった。
接吻 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。おしな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
たがひになんとなくつまらない、とりとめもない不安ふあん遣瀬やるせなさが、空虚くうきよこゝろつゝんでゐるやうであつた。二人ふたりいへにゐることがさびしく、よるになつてることがものたりなかつた。
追憶 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
そこで、せめて、かたみに血のつながっているむす子を残して、なおも、この都とのつながりを取りとめて置く。そんな遣瀬やるせない親達の欲情も手伝って、むす子は巴里に残された。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そうして、身も痩せるばかりの果敢はかない、遣瀬やるせない思いに悩みつづけているのであった。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自動車をおりてから、軒並み細つこい電燈の出てゐる、静かな町へ入つて来ると、結婚前後のことが遣瀬やるせなく思ひ出せて来て仕方がなかつた。泣くにも泣かれないやうな気持だつた。
のらもの (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
解きがたいなぞいだいて青空を流れる雲の行衛ゆくえを見守った遣瀬やるせない心持が
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
朝寒の満潮のような遣瀬やるせない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
こういう恰好をするときは、かえらぬむかしの夢を辿りながら、遣瀬やるせない物思いに耽っているのである。係長は、そういうこととは知らないから、いい気になって、ひとりでおしゃべりをしている。
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
いかにも遣瀬やるせないというようにかすかに弁解した。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
君よ、わたしの遣瀬やるせなさ
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
お種は激しく身体をふるわせた。父が吟じたという古歌——それはやがて彼女の遣瀬やるせない心であるかのように、殊に力を入れて吟じて聞かせた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)