しお)” の例文
櫛形くしがたの月が空にかかっていた。天福寺の本堂が影絵のように見え、風はないが海が近いので、空気にしおの香がかなりつよく匂っていた。
あすなろう (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しおふきだのというおかしい面をかぶった者がありますが、そのうちであの口のとんがった汐ふきそっくりの顔をしていたのです。
怪塔王 (新字新仮名) / 海野十三(著)
このしおに、そこら中の人声をさらえて退いて、はてはるか戸外おもて二階の突外とっぱずれの角あたりと覚しかった、三味線さみせんがハタとんだ。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しおさきをみてなんてことでなしにズバリとそうあたまから若宮一座というものを押し立てゝしまおうとかゝっているんだ。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
ベートーヴェンが万人の悩みに代って苦しんだと思われるその苦渋の芸術が、岸壁を洗う夜のしおのように、ひたひたと我らの胸を打つではないか。
しおくさい旅客と肩をあわせながら、こんなところまで来た私の昨日の感傷をケイベツしてやりたくなった。昨夜の旅館の男衆がこっちを見ている。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
両人「なアに勿体ねえ、少しぐらいしおが入っても此の場合だ、飯と聞いちゃア食わずにはられねえ、うか下せえな」
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
万葉の中には「田子の浦ゆうちいでて見れば真白にぞ不尽ふじ高嶺たかねに雪はふりける」「わかの浦にしお満ちくればかたをなみ蘆辺あしべをさしてたづ鳴きわたる」
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
わしは檣頭マストヘッドからしおいている鯨のやつらをちゃんと見たのだから、君がいかにかぶりを横にふっても、そりゃあ駄目だ
隅田川は、いま上げしおである。それがほぼ八分の満潮であることは「スカールの漕ぎ手」室子には一眼で判る。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
東京が大分だいぶ攻め寄せて来た。東京を西にる唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさすしおひくしおの余波が村に響いて来るのは自然である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
そのうちにしおがさして来て、岩の上が狭くなったから、どこかへ泳いで行くつもりで、とっさんの耳に口を当て、「待っておいで……讐敵かたきを取ってやるから」
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
おとらがしおを見て、用事を吩咐いいつけて、そこをたたしてくれたので、お島はやっと父親の傍から離れることが出来た。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
おう婆もまた、もちろん今日の寸法は呑みこんでいる。いい首尾を作るにも、男のはやり気をめ、女の待ちしおを見、そこの櫓楫ろかじの取り方はなかだち役の腕というもの。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
船体は波の下に沈んだまま、しおに引かれるように西のほうへ流れている。波と風の中でその日も終った。
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
「あれはたしか、長唄ながうたしおくみでしたっけかねえ。あの踊りはいいねえ、——相逢傘あいあいがさの末かけて……」
かにはこうして箱のまま汽船の甲板かんぱんに積み込まれ、時々しおにつけられ、時々ふたを少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。
椰子蟹 (新字新仮名) / 宮原晃一郎(著)
おれは海岸に立ってこの様子を見ている。しおは鈍く緩く、ぴたりぴたりと岸の石垣を洗っている。市の方から塔へ来て、塔から市の方へ帰る車が、己の前を通り過ぎる。
沈黙の塔 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
『叔父さんまだ起きていたの、今しおがいっぱいだからちょっと浴びて来ます浅いところで。』
置土産 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
船と船とが、すれ違いになったとき、方船は黒船の舷側げんそくにぴったりと吸付いてしまった。いや、吸付いたとみたのは、しおのために、舷々げんげんあいしたのだ。方船の生残者たちは
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
その中に上げしお川面かわもが、急に闇を加えたのに驚いて、ふとあたりを見まわすと、いつの間にか我々を乗せた猪牙舟ちょきぶねは、一段との音を早めながら、今ではもう両国橋を後にして
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
珠運しゅうん馬籠まごめに寒あたりして熱となり旅路の心細く二日ばかくるしむ所へ吉兵衛とおたつ尋ねきたり様々の骨折り、病のよきしおを見計らいて駕籠かご安泰に亀屋かめやへ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
案外、これがしおどきというものかもしれない。彼は、手の中で、いたずら書きの紙きれをまるめた。まだ窓に翅をぶつけている蛾を眺めながら、その紙きれを勢いよく屑籠にほうりこんだ。
非情な男 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
そうです。お嬢さまとお信という女中が見付かりません。もうあげしおという時刻だのに、やっぱり沖の方へ持って行かれたと見えます。そのお信というのはうちの親方の姪ですから、家でも気を
彼は大波止おおはとの海岸の方へ向かって、浜から来るしお臭い秋風にふるえながら歩いた。いつもそこを通るごとに癖のように引きずられて立ち寄るシナ店の前をも彼は今気がつかずに通り越していた。
あしたは山、夕べは磯、木を運んだりしおを汲んだり、まめまめしく働くうちに、庄屋のお嬢さんに可愛がられ、お嬢さんの頼みで、鋸山は保田山日本寺の、千二百羅漢様の、御首を盗んだばっかりで
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
たとえば、『座頭ざとう』とか、『傾城けいせい』とか、『しおくみ』とか、『鷺娘』とかというふうのものは、読む詩としてもある情調を印象するには相違ないが、「叙情詩」として優れたものと言えるであろうか。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
わが国の気候は、しおどきにぴたりとは行きませんですな。
桜の園 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
橋の名も柳がもとのつくだぶねかけてをあげしおうお
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
しおさだまらぬ外の海づら 州
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
はや くれ方のみちしお
原爆詩集 (新字新仮名) / 峠三吉(著)
細おもてに無精髭ぶしょうひげが少し伸びて、しおやけのした顔に賢そうな眼が光っていた。古タオルで鉢巻をし、仕事着に半長靴をはいていた。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
階段のかげにうずくまっている一の人影——こっちへ顔を出したところをみればそれは例のしおふきそっくりの怪塔王の顔でありました。
怪塔王 (新字新仮名) / 海野十三(著)
と蘆の中に池……というが、やがて十坪とつぼばかりの窪地くぼちがある。しおが上げて来た時ばかり、水を湛えて、真水にはしまう。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
茶店の裏はすぐ神田川ですが、少しばかりのがけになって、折からの上げしおが、ヒタヒタと石垣を洗っております。
「私真実ほんとうにそう思うわ。明けるともう二十五になるんだから、これをしおに綺麗に別れてしまおうかと……。」
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
はるか川面かわもを見渡すと前岸は模糊として煙のようだ。あるともないとも分らぬ。燈火が一点見える。あれが前岸の家かも知れぬ。しおは今満ちきりてあふるるばかりだ。
句合の月 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
ハツラツとした男の体臭がしおのように部屋に流れて来て、学生好きの、八重ちゃんは、書きかけのラヴレーターをしまって、両手で乳をおさえてしなをつくっている。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
波打ぎわからせあがるしおの香が白く煙っている。洋館の屋根の風車は勢いよくまわっていた。
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雨上りの夜の天地は墨色すみいろの中にたっぷり水気をとかして、つやっぽい涼味りょうみ潤沢じゅんたくだった。しおになった前屈まえかがみの櫓台の周囲にときどき右往左往する若鰡わかいなの背が星明りにひらめく。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
しおの流れでもあるのか、水の中に沈んだ船体の偏揺かたゆれにつれて、帆柱が大きく傾く。そのたびに何人かが海にこぼれ落ち、二、三度、藻掻もがいただけで、あっけなく波にまれてしまう。
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
初音町の家を出るまで、苛立いらだつようであった純一の心が、いよいよこれで汽車にさえ乗れば、箱根にかれるのだと思うと同時に、差していたしおの引くように、ずうと静まって来た。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
細おもてに無精髭ぶしょうひげが少し伸びて、しおやけのした顔に賢そうなが光っていた。古タオルで鉢巻はちまきをし、仕事着に半長靴はんちょうかをはいていた。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それは質のいい生ゴムでつくられてあり、例のしおふきのような顔になっており、そして生ゴムの表面は渋色に染めてあった。
怪塔王 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「何ね、時刻に因って、しおの干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
結婚の話を持ち出すしおを失い、銀子に爪弾つめびきでかせて、歌を一つ二つうたっているうちに時がたって行った。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
海は漫々として広く空は一面に晴れわたりたる処に、海の真中に鯨しおを噴けば、その鯨の真上ばかりに一塊いっかいの雲ある処を描き出だして、それが天然の景と見え可申候や。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
国からしおの香の高い蒲団を送って来た。お陽様に照らされている縁側の上に、送って来た蒲団を干していると、何故なぜだか父様よ母様よと口に出して唱いたくなってくる。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
焼蛤やきはまぐりしおのかおりに、龍宮城りゅうぐうじょう蜃気楼しんきろうがたつといわれる那古なこうらも、今年は、焼けしずんだ兵船の船板ふないたや、軍兵ぐんぴょうのかばねや、あまたの矢やたてが、洪水こうずいのあとのように浮いて
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
少年は痩せたすばしっこそうな躯つきだし、色こそしおやけで黒いが、おもながの顔は眼鼻だちが際立っていて、美少年といってもいいだろう。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)