元和げんな)” の例文
不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば元和げんな元年である。その年の五月には大坂は落城して、いよいよ徳川家一統の世になった。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
われ等のような慶長けいちょう元和げんなの古風を慕い、まだ尚武の風のあった寛永気質かたぎを尊ぶ者などは、所謂いわゆる、頭が陳腐ふるいと云われるやつだろう。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
途中、敦賀にて入道され、法名を一ぱくと付けられた。時に元和げんな九年五月のことで、忠直卿は三十の年を越したばかりであった。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それからその後慶長けいちやう元和げんなの頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて近江蟄居ちつきよの時、琵琶湖付近の景を瀟湘八景に擬して當時の人々から詩歌などを得た。
華厳滝 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
御幣、太鼓、さかきを先に立て、元和げんな以来の古式に則って大伝馬町の諫鼓鶏の山車が第一番にゆく。行列長さだけで二十丁。
元和げんな元年の切支丹大殺戮さつりくから三十年余り、天草の乱からは十年も経って居りますから、切支丹屋敷に押し籠められて居る異人は幾人も居りません。
その他山田長政が威を暹羅シャムに振いたる、天竺てんじく徳兵衛が印度に渡りたる、浜田弥兵衛が台湾にある和蘭オランダ人をくじきたる、みな元和げんな、寛永の間にありとす。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
破提宇子はでうすと云う天主教を弁難した書物のある事は、知っている人も少くあるまい。これは、元和げんな六年、加賀の禅僧巴毗弇はびあんなるものの著した書物である。
るしへる (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
一心寺に元和げんな往時むかし、天王寺で討死うちじにした本多忠朝たゞともと家来九人を葬つたつかのある事は、誰もがよく知つてゐる筈だ。
安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』は、元和げんな年間に書き上げたという笑話集だが、その中には「祝ひ過ぎるもなもの」という題で、そのような例が数多く出ている。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
もともと切支丹宗キリシタンしゅう取り扱いの困難は織田信長おだのぶなが時代からのこの国のものの悩みであって、元和げんな年代における宗門人別帳にんべつちょうの作製も実はその結果にほかならない。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
島原が秀吉から許された天正十七年は、江戸の吉原よしわらが徳川から許された元和げんな三年より三十年の昔になる。
その幽光院というのは元和げんな元年の建立こんりゅうにかかるもので、慶安四年の由比ゆい正雪騒動のときまで前後三十年間ほど関八州一円に名をうたわれていた虚無僧寺でしたから
そしてふと考え合せてみると、復一がぽつぽつ調べかけている金魚史の上では、初めて日本へ金魚が輸入され愛玩され始めた元和げんなあたりがちょうどそれに当っている。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
元和げんな五年御当代光尚みつひさ公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君ろくまるぎみと申候。景一は六丸君御附おつきと相成り候。元和げんな七年三斎公御致仕ちし遊ばされ候時、景一も剃髪ていはついたし、宗也そうや名告なのり候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六二二年(元和げんな八年)二月二十一日の条、コックス江戸にあり芝居にく途上オランダ館に入り肥後か肥前の王に邂逅す
元和げんな慶長けいちょう兜首かぶとくびを取って二百五十石、それ以来、知行が上ったことがない。式目しきもくおもてでは、士分しぶんの者三人を召抱えていなくてはならぬが、妻子五人が食べ兼ねるでのう。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
森の家は、石州せきしゅう津和野の城主亀井家に代々仕えた典医でした。亀井家は元和げんな三年に津和野に封ぜられてから十二代になり、森は慶安けいあんから天保てんぽう年間までで十一代になりました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
切支丹の運命にとって致命的であったせきはらの決戦が済み、切支丹の最も有力な擁護者であった石田三成いしだみつなり小西行長こにしゆきなが黒田行孝くろだゆきたからが滅びうせて後は、元和げんな八年の五十五人虐殺を筆頭に
元和げんな二年、家康が駿府すんぷに死ぬと、はじめ久能山くのうざんに葬ったが、のちに移霊の議が起こって、この年の秋から翌年の春にわたって現在の地に建立されたのが、大猷廟だいゆうびょうをはじめ日光の古建築である。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
えらみ遊ばされし事あり此事の人の知る所なり時に元和げんな九年徳川二代將軍家御上洛じやうらくあられしかば京都の繁華はんくわ前代未聞ぜんだいみもんなり然るに其年の十月頃時の關白くわんぱく二條左大臣殿の諸大夫しよたいふにて取高とりだか七石二人扶持ふちなる河島伯耆守かはしまはうきのかみと云る人或日あるひ只一人祇園ぎをんの社へ參詣なし祇園豆腐どうふと云を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
この時代には引きつづいて江戸の将軍の上洛じょうらくがあった。元和げんな九年には二代将軍秀忠が上洛した。つづいてその世子せいし家光も上洛した。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
元和げんな偃武えんぶ以来、おさめてさやにありし宝刀も、今はその心胆と共にびて、用に立つべきもあらず。和といい、戦という、共にこれ俳優的所作に過ぎず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
山形の城主最上源五朗義俊げんごろうよしとしが所領を召上めしあげられて、重臣を各大名に預けられたのは、元和げんな八年七月十八日、この物語から丁度ちょうど一年半ばかり前のことです。
十字架観音 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
淀君の生活は、彼女とは反対に、それからにわか爛熟らんじゅくを迎えた花のように咲けるだけ狂い咲きに咲いて、そして、元和げんな元年の夏の陣に、大坂落城のほのおに散った。
日本名婦伝:太閤夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
樫井かしいの戦いのあったのは元和げんな元年がんねん四月二十九日だった。大阪勢おおさかぜいの中でも名を知られた塙団右衛門直之ばんだんえもんなおゆき淡輪六郎兵衛重政たんなわろくろうびょうえしげまさ等はいずれもこの戦いのために打ち死した。
古千屋 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
慶長十四年に藤堂佐渡守高虎とうだうさどのかみたかとらが率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和げんな元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父長政ながまさが、夫人保科ほしな氏に長女とく、二男犬萬
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
元和げんな元年五月七日の朝は、数日来の陰天名残りなく晴れて、天色ことのほか和清わせいであった。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
まだ元和げんな慶長ながらの武の道がお盛んな時代ですから、もとより商売はことのほかの繁盛ぶりで、三間間口の表店には、百丁ほどの半弓がずらりと並び、職人徒弟も七、八名——。
元和げんな九年安楽庵策伝あんらくあんさくでん筆でわが邦落語の鼻祖といわるる『醒睡笑』巻一に
政陽せいよう郡の東南に法喜寺ほうきじという寺があって、まさに渭水いすいの西に当っていた。唐の元和げんなの末年に、その寺の僧がしばしば同じ夢をみた。
もっとも、ほかの世間は、余りにもまぎれるものが多すぎた。寛永かんえい元和げんなの戦国期にわかれを告げて六十年余、江戸の文化は、芳醇ほうじゅん新酒しんしゅのように醗酵はっこうして来た。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、「貞観ぢやうぐわん政要」を印刷させてゐるし、その後も「吾妻鏡」を刊行させてゐる。さらに元和げんな元年、大坂方と対戦中に、「群書治要」を刊行させてゐる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
紀伊が奥勤おくづとめをしてゐると、元和げんな三年に振姫が伊達忠宗だてたゞむねしたので、紀伊も輿入こしいれの供をした。此間に紀伊の兄清長は流浪して、因幡いなば鳥取に往つてゐて、朽木宣綱くつきのぶつなむすめの腹に初子が出来た。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
彼れ英邁の資を以て、親藩の威望を擁し、その直截ちょくせつ的哲理を鼓吹こすいす、天下いずくんぞ風靡ふうびせざらんや。尊王の大義は、元和げんな偃武えんぶいまだ五十年ならざるに、徳川幕府創業者の孫なる彼の口より宣伝せられぬ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
というのは元和げんな九年のこの二月二日に、ご当代家光いえみつ公がご父君台徳院秀忠ひでただ公から、ご三代の将軍職をお譲りうけになられましたので、それをお祝い記念する意味から、この日をお将軍日と唱えまして
元和げんなか、寛永かんえいか、とにかく遠い昔である。
おぎん (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
御先祖樣が慶長けいちやう元和げんな度々どゞの戰場に、敵の血をそゝいだるその鎧、申さばお身にもかへがたき寶、藤枝五百石のお家はその鎧と太刀の功名故でござりまするぞ。
箕輪の心中 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
世の中が変っている、わしが江戸を出た時からもう元和げんな寛永かんえいの世の中ではなかった。それから十幾年……
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元和げんな元年になると東西の和睦は既に破れ関東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。
真田幸村 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
元和げんな寛永以来かんえいいらいの、素朴な士風や町人道の反動として、“世の中は金、女というも金次第”と心中物の浄瑠璃じょうるり作者すら云う黄金万能が、この世の鉄則となってきた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元和げんなの初年である。都の東市に李和子りわしという悪少年があって、その父を努眼どがんといった。和子は残忍の性質で、常にいぬや猫を掻っさらって食い、市中の害をなす事が多かった。
家中の武士は、元和げんな以来、絶えて使わなかった陣刀や半弓の手入れをし始めた。
恩を返す話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
女装考にょそうこう』などを見ますと、女の被衣する風俗も元和げんな寛永をなごりとして、正保の頃に至っては、三都ともにそのふうおとろえ、ことに江戸には見ることはきわめて稀としてありますが
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
唐の元和げんな年中、きょ州の趙季和ちょうきわという旅客が都へ行く途中、ここに一宿いっしゅくした。趙よりも先に着いた客が六、七人、いずれもとうに腰をかけていたので、あとから来た彼は一番奥の方の榻に就いた。
元和げんな、慶長のころ、すでに現在から百余年も昔のまだ江戸城創府の当時から、どうしてもなくてはならない夜光刀をこの日本に求めて、幾多の異国人が千里の波濤をこえ禁教の国を承知しながら
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元和げんなの大坂落城から僅か十年あまりで、血の匂いに馴れている侍は、自分の前に横たわっている敵の死骸に眼もくれないで、しずかに川の水をんで飲んでいた。お染も息が切れて水が欲しかった。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
元和げんな以前、海をこえて、日本へ宣教に来られた、スペインの女修士おんないるまん、ご承知でもございましょう。五十五聖徒の殉教者のひとり、老女ルシヤ様のつれていた娘が、後に、天草あまくさはらしろへ入りました。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
六、七十年ぜん——元和げんなから家光時代、天草の変以後、しばらくはそうでした。しかし、その後は、幕府の手きびしい禁教政策で、まったく、この屋敷が不用になるほど、異教者の影が絶えていました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)