佇立たたず)” の例文
「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立たたずんでいる彼女の耳朶みみたぶたたきに来るだけであった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
友人の牧野が住む山の方は、定めし最早もう秋らしく成ったろうと思わせた。三吉は眺め佇立たたずんで、更に長い仕事を始めようと思い立った。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
松崎は今ではたまにしか銀座へ来る用事がないので、何という事もなく物珍しい心持がして、立止るともなく尾張町おわりちょう四辻よつつじ佇立たたずんだ。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
露八はつい後方うしろにばかり気をられているのだった。そのときも、かえっていた。そして思わず、あっ……と佇立たたずんでしまった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
皆其隣のうちの者の住居すまいにしてある座敷にかたまっているらしい。塩梅あんばいだと、私は椽側に佇立たたずんで、庭を眺めているふりで、歌に耳をかたぶけていた。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
虎ヶ窟の入口にはの重太郎が佇立たたずんでいた。かたえには猿のような、小児こどものような、一種の怪しい者が蹲踞しゃがんでいた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
車のあとより車の多くは旅鞄たびかばんと客とを載せて、一里先なる停車場すていしょんを指して走りぬ。ぜんの通い茶の通いに、久しくむつみたるおんなどもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立たたずめり。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
この時かかる目的の為に外面そといでながら、外面に出て二歩三歩ふたあしみあしあるいて暫時しばし佇立たたずんだ時この寥々りょうりょうとして静粛かつ荘厳なる秋の夜の光景が身の毛もよだつまでに眼にしみこんだことである。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
真事はその間を向う側へけ抜けて、朝鮮人の飴屋あめやの前へ立つかと思うと、また此方こちら側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立たたずんだ。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
いつ迄も、同じところに佇立たたずんでいるのは、わざと人目の怪しみを求めるようなもの。右衛門七は、きつ戻りつ、その辺を歩き出した。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
翁の街頭に佇立たたずむのは約束した人の来るのを待つためばかりではない。むしろこれを利用して街上の光景を眺めることを喜んでいたからである。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
橋のたもと佇立たたずんで往来を眺めると、雪に濡れた名物生蕎麦きそばうんどんの旗の下には、人が黒山のようにたかっておりました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その葉かげに瞬目またたきするかと見ゆる瓦斯灯がすとうの光の一つ消え、二つ消えてあさ霧絶え絶えのひまより人の顔おぼろにのぞかるる頃となれば、派出所の前にいかめしく佇立たたずめる
銀座の朝 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へこうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方こちらへ背を向けて縁端えんばな佇立たたずんでいる。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
町家の女ではなく、身装みなりやもの腰は武家の娘である。しかし良家の子女が、ひとりであんな場所に佇立たたずんでいるのはおかしい。
べんがら炬燵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「あの女」がまだどこかにいそうな気がするので、自分は玄関の入口に佇立たたずんで四方を見廻した。けれども廊下にも控室にも患者の影はなかった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
わたしは無遠慮に格子戸こうしど明けて中座させるも心なきわざと丁度目についた玄関のひさしに秋の蜘蛛くも一匹しきりに網をかけているさまを眺めながら佇立たたずんでいた。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その時は城門の前を横に切れて、線路番人の番小屋のある桑畠のところへ出た。番人は緑色の旗を示しながら立っていた。暫時しばらく三吉も佇立たたずんで眺めた。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
くして真実ほんとうの𤢖は逃げ去ったが、𤢖類似の怪しい男はだ眼の前に残っている。この男ははたして善か悪か、敵か味方か、市郎もその判断にくるしんで佇立たたずんでいると、男はいよい馴々なれなれしい。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
さてはと、さすがに胸をギクとさせて、男女ふたりが顔を見合わせたまま佇立たたずんでいますと、途端に、そこの戸を開けた率八が
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
再びびっくりして二つの首級をハタと投出し唯茫然ぼうぜんとしてその場に佇立たたずんでしまうと、いつのに寄集って来たものか
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
老人と三吉は、時々町中に佇立たたずんで、子供の歩いて来るのを待った。幾羽となく空を飛んで来た鳥の群が、急に町の角を目がけて、一斉に舞い降りた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
董其昌とうきしょう折手本おりでほんを抱えてそば佇立たたずんでいる彼に取ってはその態度が如何いかにも見苦しくまた不愉快であった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
室内昼の如くにてらさせて四辺あたりくまなく穿索したがもとより何物を見出そう筈もなく、動悸どうきの波うつ胸を抱えて、私は霎時しばらく夢のように佇立たたずんでいたが、この夜中やちゅう馴染なじみも薄い番人を呼起よびおこすのも如何いかが
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
先に、ぶらぶらと、ゆるい足どりで歩いていた堀部と奥田は、容易に郡兵衛が来ないので、路傍へ寄って佇立たたずんでいた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
種彦はあまりの事に少時しばしはその方を見送ったなり呆然ぼうぜんとして佇立たたずんでいたが、すると今までは人のいる気勢けはいもなかった屋根船の障子が音もなくいて
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
松の多い静かな小山の上に遺骸いがいが埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立たたずんで、この光景ありさまを眺めていた。
岩石の間 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そうしてけかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立たたずんでいる間に、気分を紛らそうとして絵をいた。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして夜店の並んでいない方の舗道を歩み、実はそのまま帰るつもりで七丁目の停留場に佇立たたずんで額の汗を拭った。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ある時は、はっと、用ありげに眼を惑わせながら、そのくせ、近づいて来る気ぶりはなく、いつも濡れているような眸を投げて佇立たたずんでいるきりだった。
べんがら炬燵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
丁度、そこに線路番人が見張をして佇立たたずんでいて、お隅の通るたびに言葉を掛ける。しまいには、お隅の見えるのを楽みにして待っている、という風になりましたのです。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
自分はこの重苦しい茶褐色の中に、しばらく茫然ぼうぜん佇立たたずんだ。自分のそばを人が大勢通るような心持がする。けれども肩が触れ合わない限りははたして、人が通っているのかどうだか疑わしい。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
見返柳みかえりやなぎの立っていた大門おおもん外の堤に佇立たたずんで、東のかたを見渡すと、地方今戸町じかたいまどまちの低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚こづかぱらの女郎屋の裏手が見え
里の今昔 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ふと、顔を出してみると、どじょうひげの大将がそこに佇立たたずんでいる。いきなり窓ごしに彼女の手を強く握って
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もう一度彼が甲板の上に出て見た時は空も海も深いやみに包まれていた。甲板のてすりに近く佇立たたずみながら黙って頭を下げた彼は次第に港の燈火ともしびからも遠ざかって行った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
毎夜まいよ吾妻橋あずまばしの橋だもとに佇立たたずみ、往来ゆききの人の袖を引いて遊びを勧める闇の女は、梅雨つゆもあけて、あたりがいよいよ夏らしくなるにつれて、次第に多くなり
吾妻橋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
すると、風にられて往来の者の菅笠が、彼の前を、坂の下へ吹かれて転がって行った。土佐守の屋敷の台所門の下に、用もなげに佇立たたずんでいた男の笠だった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
白いペンキ塗の客船が石炭をく船に引かれて出て行くまで、三吉は鉄橋の畔に佇立たたずんでいた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立たたずんだ。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
婦人は小禽の声に小砂利を踏む跫音あしおとにも自然と気をつけ、小径に従ってななめに竹林を廻り、此方こなたからは見通されぬ処に立っている古びた平家ひらやの玄関前に佇立たたずんだ。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
すると、彼の佇立たたずんでいるところから十歩ほどの距離である、幹の太い四、五本の枯柳があった。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして母と顔を見合せて微笑ほほえんだ。母は乳呑児をおぶったまま佇立たたずんでいた。お菊は復た麦だの薩摩芋さつまいもだのの作ってある平坦たいらな耕地の間を帰ったが、二度も三度も振向いて見た。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
彼自身は長く門外に佇立たたずむべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿たどりつくのが矛盾であった。彼はうしろかえりみた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ゆるやかに西南のかたへと曲っているところから、橋の中ほどに佇立たたずむと、南のかたには永代橋えいたいばし、北の方には新大橋しんおおはしよこたわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。
深川の散歩 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そして前栽せんざいにある車井戸のほうへ戻って来ると、髪もすそも埃にまみれた——しかしどこか気品のある若い女が——門前から中を覗いて、恟々おずおずと、去りがてに佇立たたずんでいる。
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仄白ほのじろい夜の雪ばかりで誰の影も見えません。しばら佇立たたずんでおりましたが、「晴れたな」と口の中で言って、二あしあし外へ履出ふみだして見ると、ぱらぱら冷いのが襟首えりくびのところへかかる。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
だから其所そこには現在がすぐ過去に変化する無常の観念がひそんでいます。そうして其過去が過去となりつつも、なお意識の端に幽霊のような朧気おぼろげな姿となって佇立たたずんでいて、現在と結び付いているのです。
木下杢太郎『唐草表紙』序 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と向うの葉柳の蔭に佇立たたずんでいた年配の武家が、質屋の門を出て来た浪人を待ち設けていて
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これらのほか階子段はしごだんに腰かけて懐中よりふみ読む女のうしろに美しき少年の佇立たたずみたるあり。あるひは鳥居の見ゆる茶屋の床几しょうぎに美しき団扇売うちわうりの少年茶屋の娘らしき女と相対したるあり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)