しお)” の例文
散ってしおれる末の世のかなしみの気配をば、まだこればかりも見せぬ元禄時代の、さる年の晩春初夏に、この長物語ははじまります。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
お組の声はすっかりしおれて居ります。お園と張合って、一寸も退けを取らなかったお組にしては、それは思いも寄らぬくじけようです。
女らしいと云う点からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のように果敢はかなくしおれて了うのであった。
秘密 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
いつか散歩のついでに町の花屋で買って来たサイネリヤが、雑誌や手紙や原稿紙の散らばった卓子テイブルすみに、わびしくしおれかかっていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
確められて文三急にしおれかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩なべやきうどんでもくいたくなるだろう」
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
の揺れる音が風のように聞えて来た。月のない暗い花園の中を一人の年とった看護婦が憂鬱に歩いていた。彼は身も心もしおれていた。
花園の思想 (新字新仮名) / 横光利一(著)
そういう彼女の打ちしおれたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。突然とつぜん後悔こうかいのようなもので私の胸は一ぱいになった。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
記者は玉子色の外套の隠袖かくしへ両手を入れたまま、反返そりかえって笑った。やがて、すこししおれて、前曲まえこごみに西の方をのぞくようにしながら
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
菊の花は既にしお山茶花さざんかも大方は散って、曇った日の夕方など、急に吹起る風の音がいかにも木枯こがらしらしく思われてくる頃である。
枇杷の花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
乱れて咲いた欄干のたわわな枝と、初咲のまましおれんとする葉がくれの一輪を、上下うえしたに、中の青柳は雨を含んで、霞んだたもとを扇に伏せた。——
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
去年の冬、袱紗包みを持ってたずねてきたときは、枯葉のようにしおれていたが、きょうは咲きほころびた春の花のように生々としていた。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
又正しく彼女を取り扱うことの出来ないものが、仮初かりそめにも彼女に近づけば、彼女は見る見るそのやさしい存在からしおれて行く。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しおれた草花が水を吸い上げて生気を得たごとく、省作は新たなる血潮が全身にみなぎるを覚えて、命が確実になった心持ちがするのである。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
と熊のつむりを撫でて暫く有難涙ありがたなみだにくれて居りますると、熊も聞分けてか、悄然しょうぜんしおれ返って居りまする。お町は涙を払いながら
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
そうして、その露にぬれた花がもうしおれかかっているのを見たとき、なんとも言われない恐怖の戦慄が彼の全身をめぐった。
暗くじめじめした、かなり広い土間に、茣蓙ござを敷いた腰掛が並び、壁によせて、しおれた菊や、しきみや、阿迦桶あかおけなどが見える。
夕靄の中 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その枕元にはしおれた秋草の花束と、二三冊の絵本と、明日あすのおめざらしい西洋菓子が二つ、白紙に包んで置いてあった。
白菊 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
と言って、ぐんにゃりとしおれたのは少しく意外で、お角がかえって力抜けがしました。そこで極めて温和おとなしく、いったん抜いた刀をもさやへ納めて
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だとおさえ付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言いちげんすぐぐたりとしおれてしまいます。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
上方一と言われた女も、手活ていけの花としてながめると、三日てばしおれる。いまじゃ、長屋の、かかになって、ひとつき風呂ふろへ行かなくても平気でいる。
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
雪のような落花が散りかかるのを見上げて、しおれた枝を少し手に折った大将は、階段きざはしの中ほどへすわって休息をした。衛門督が続いて休みに来ながら
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
「あなたこそ……」と、妻は打ちしおれて「旅では、食べ物にも、お気をつけてくださいね。そして一日もおはやく」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
少ししおれかかって花弁の縁が褐色にせているが、中部の枝には満開の生き生きした花が群がり、四月下旬の午後になったばかりの精悍な太陽の光線が
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
花立ての花もきょうはもうしおれて、桔梗も女郎花も乾いた葉を垂れていた。弥三郎はじっとそれを見つめているうちに、彼の睫毛まつげはいつかうるんで来た。
半七捕物帳:05 お化け師匠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
4 夜が更けて僕が眼覚めたとき、かたわらには腐敗しかかった売笑婦の肉体がしおれた花のように残っていた。
戦争のファンタジイ (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
この数日間不安に湧き立った青春がふたたび元の位置にひきもどされて小さい生活の中にしおれてゆくのをまざまざと見せつけられるような哀感に襲われた。
菎蒻 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
お敏は頬の涙のあとをそっと濡手拭で拭きながら、無言のまま悲しそうに頷きましたが、さて悄々根府川石から立上って、これもしおれ切った新蔵と一しょに
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
花は二三日でしおれた。鉢の上には袂屑たもとくずのような室内のちりが一面にかぶさった。私は久しく目にも留めずにいた。
サフラン (新字新仮名) / 森鴎外(著)
心持俯向うつむいていらっしゃるお顔のひんの好さ! しかし奥様がどことなくしおれていらしって恍惚うっとりなすった御様子は、トントうれしかった昔を忍ぶとでもいいそうで
忘れ形見 (新字新仮名) / 若松賤子(著)
見ると紳士の顔にもしたたか泥が付いて、恐ろしい争闘いさかいでもした跡のよう、顔は青褪あおざめて、唇には血の気の色もない、俯向いてきまりが悪そうにしおれている。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
下田の金さんとこでは、去年は兄貴あにきが抽籤でのがれたが、今年は稲公があの体格たいかくで、砲兵にとられることになった。当人はいさんで居るが、阿母おふくろが今からしおれて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
彼は自分の姓名を非常に嫌うという奇癖の持主で、うっかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になって、あわや泣き出しそうにしおれるのであった。
鬼涙村 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
女のくちびるかたく結ばれ、その眼は重々しく静かにすわり、その姿勢なりはきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気にみたされたり。男はしおれきったる様子になりて
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
皮肉変色憔悴やせしおれ黄ばんだので、仏目蓮もくれんをして二竜を調伏せしめた(『根本説一切有部毘奈耶』四四)。
ぼく達の自動車は、助手席のところにぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっとしおれどおしのようでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
花がしおれていないのは、刈られてまだ間もないのであろう。虎杖やアカソも算を乱して倒れていた。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
型の如く菊を抜いてその傍に番をしながら、もとの人になるのを待っていたが時間がたってから葉がますますしおれてきた。馬はひどくおそれて、はじめて黄英に知らした。
黄英 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
書いたものもまた色も香もつやも生気もないしおれた花のあわれさを思わせるようなものばかりだった。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
「そうだ。」私はしおれて答えた。何がそうだと答えたのか? 勿論両方の話し、即ち私が何うしても苛酷な事と、火事の方角が病院の近くである事の二つに対してである。
職工と微笑 (新字新仮名) / 松永延造(著)
王はそれから食事が次第に多くなって、日に日になおっていった。そして思いだしては枕の底を探しての梅の花を出した。花はしおれていたけれどもまだ散っていなかった。
嬰寧 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
阿園は言うべき語を知らず手拭てぬぐいを顔にあて俯向うつむいてただよよと泣くのみ、勇蔵もうちしおれて悄然しょうぜんとして面を伏したり、身を投げてよりすがる阿園がほおより落つる熱き涙は
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
お神さんは、それで花束をこしらえる。なぜなら、この「ふるえ草」は、しおれることがない。
そしてその後すぐしおれていってしまったような歌は、実は次のような一群の歌であったのだ。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
「わたし病気よ」と、ねこのようにやさしい声を出して、そうっとしおれかけて見せた。私は
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
吾平爺がその翌日、警察から釈放されてきたときには、荷車の上の野菜は残暑のかれてすっかりしおれていた。爺はしかし、それをそのまま捨ててしまう気にはなれなかった。
或る嬰児殺しの動機 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
詛言のろいごとを言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉のしおれるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽のちたりたりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」
一つは日射病のようなもので鶏冠が黒くなってしおれて急に弱って半日位でたおれますが何でも夏は平生鶏冠に注意して少しでも色が黒くなりかけたら唐辛子とうがらしの粉を口へ割り込んで水を
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
一体いったい夏菊という花は、そう中々なかなかしおれるものでない、それが、ものの二時間もあいだにかかる有様ありさまとなったので、私も何だか一種いやな心持こころもちがして、その日はそれなり何処どこへも出ずすごした
鬼無菊 (新字新仮名) / 北村四海(著)
スカートも、上衣も、ネクタイも、夏の頃は晴やかに微笑したものであっただろうが、今はすべてが灰色のうすら寒い四辺あたりの色に対照すると、いやに寂しくうちしおれて見えるのであった。
碧眼 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
私はそのしおれきった様子を見て、てっきり銀行の方がだめなのだと察した。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)