ふけ)” の例文
身も魂も投げ出して追憶の甘きうれいにふけりたいというはかない慰藉なぐさめもてあそぶようになってから、私は私にいつもこう尋ねるのであった。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
もちろん食通というほど料理の趣味にふけるような柄でもなかったが、均平自身は経済的にもなるべく合理的な選択はする方であった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
また同時に自分の描いておいた絵を見せたりして閑談にふけるのがあの頃の子規の一つの楽しみであったろうということも想像される。
明治三十二年頃 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
見れば郡視学は巻煙草をふかし乍ら、独りで新聞を読みふけつて居る。『失礼しました。』と声を掛けて、其側そのわきへ自分の椅子を擦寄せた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出にふけっていた私は、そのとき急に、いまやっと食事をえ、そのままベッドの上に起きながら
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
やがてクリストフの方から眺められると、耳まで真赤になり、ポケットから新聞を引出し、もったいらしく読みふけってるふりをした。
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌をひろげて読みふけっていた。そのとき表の方にあたって
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
スラヴ人は元来空想にふける国民性だから、無教育者の中にも意外な推理力や想像力を蓄えて人生をフィロソファイズするものがある。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
私が尋常六年頃から新体詩や小説を読みふけるようになったのは、そんな悲しさや淋しさが積り積ったせいではなかったかと思います。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
青々と葉を繁らせている山毛欅ぶなの大木の幹にもたれて蒼空を眺めながら、何考えるともなく取り留めもない物思いにふけっていたのです。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
発句の代りに一陶いっとうの酒を楽しんで、ありし昔の夢にふけりながら、多年の間、山上でひとり夜を明かすことを苦なりとはしていません。
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
今の辛酸しんさんも、かくまで呪われた恋の不幸さも、忘れていた。——現実に恋人と会っているような陶酔とうすいのなかに尺八を吹きふけっていた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
青山あをやまうちからは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼はつとめて門野を相手にして他愛ない雑談にふけつた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
「マーメイド・タバン」の一隅で詩作にふけったり、手製の望遠鏡で星を眺めたり、浮気な恋に憂身うきみやつしたりしているのであった。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
かくまで、この子守唄が、瞑想めいそうふけらせるとしたら、その子守唄には、最も力強い芸術的の魔力があることをいなむ訳にはゆかない。
単純な詩形を思う (新字新仮名) / 小川未明(著)
お繁さんは無事でしょうなと、聞きたくてならないのを遂に聞かずに居った予は、一人考えにふけっていよいよ其物足らぬ思いに堪えない。
浜菊 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
残り五十両はそのまゝもとの通り幹の穴に隠し、右の四拾両を以て、一時めかけを囲ひ、淫楽いんらくふけりをり候処、その妾も数年にして病死致し
榎物語 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
魯侯は女楽にふけってもはやちょうに出なくなった。季桓子きかんし以下の大官連もこれにならい出す。子路は真先に憤慨ふんがいして衝突しょうとつし、官を辞した。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
私もこのことに興味を覚えて、それからつづけさまに、写生のことはそっちのけにして、その日はこの種の句作のみにふけりました。
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に綺羅きらを張り、春は花見秋は観楓かんぷう、昼は音曲夜は酒宴……競って遊楽あそびふけっております。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
こんな風に互に心配をごまかしていようとしているが、それでもやはり男は男、女は女で、自分自分の思案にふけっているのである。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
幸子が庭を歩きながらこんな思案にふけっている時、台所の方で又電話のベルが鳴り出したようであったが、お春がテラスへ駈けて来て
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
始終空想ばかりにふけッているでも無い※多く考えるうちには少しは稍々やや行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想にふけり出した。——大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安をまもっている。
少年 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
手酌で勝手に酔うことができるし、誰に気兼ねもなく邪魔もされず、いたければ朝までいられるし、自由にもの思いにふけることもできた。
嘘アつかねえ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
だからなるべくそんなことを考えまいとして、貸出台にしがみついて、面白そうな小説本などを読みふけってまぎらわそうとする。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
その以来、わたしは芝居の本というものが好きになって、その草双紙類をいろいろ買ったり借りたりして読みふけるようになった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
〔譯〕雅事がじ多くは是れきよなり、之をと謂うて之にふけること勿れ。俗事却て是れ實なり、之を俗と謂うて之をゆるがせにすること勿れ。
夜具代りにした二三枚のケットにもたれて、書見にふけっているように装いながら実は考えごとにふけっていたと思われるのである。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
炉塞ろふさぎの場合、そこに坐っている客も主人も共に老人で、茶をすすりながら閑談にふけっている、というようなところらしい。びた趣である。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
……彼はかうして幼年時代の追想にふけりつづけた。しかもそれらはことごとく、今日まで殆んど跡方もなく忘却し尽して居たことばかりであつた。
愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出にふけろうとしたほどの博士が、何故扉際とぎわに押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
遊びきると、命を助けてやる。それから、どこかへ行って、尻尾の輪の中にすわると、罪の無さそうな顔をして、空想にふける。
総監罵倒の投書文に読みふけっているのを目撃して、この老政治家の太っ腹に驚嘆したものであるが、その実何も驚くことはなかったのだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
昨夜さくやも、一昨夜いつさくやも、夕食ゆふしよくてゝのち部室へやまど開放あけはなして、うみからおくすゞしきかぜかれながら、さま/″\の雜談ざつだんふけるのがれいであつた。
詩人に交際のすくない、いなむしろ交際を避けて居るヌエはたれとも握手をしなかつた。皆思ひ思ひに好む飲料のさかづきを前に据ゑて雑談にふけつて居る。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
物思いにふけることがあったり、ふと気がついて女を見ると、私の目もそうであるに相違ないのだが、憎むような目をしている。
二十七歳 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
はなはだしく空想にふけるとか、異常軽率、衝動行為や感情のいちじるしい転換もなく、強迫観念や幻覚に襲われるようなところも見られず
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
宝探しに夢中になるにしても、あまりに気高いこの婦人は、かえってこう、荒れ模様の海を背景に劇的な感慨にふけるにふさわしい人柄でした。
呪の金剛石 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費しひして淫楽いんらくふけり、公道正義を無視なみして、一遊妓の甘心かんしんを買う、何たる烏滸おこ白徒しれものぞ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
われ等は、かの全然瞑想にふけりて、自己の責務の遂行を等閑視とうかんしする、人気取式の神信心を排斥する。神は断じて単なる讃美を嘉納かのうされない。
つまり恋愛小説を読むとか、似非えせ風流にふけるとか、女学生の口真似くちまねをすれば我が理想を高潔神聖にするとかいう位なものです。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
寺の前の田圃で思案にふけっていたが、とうとう決心してお寺様の弟子にして頂きたいと考え、だしぬけではありながら、お訪ねした次第です。
みやこ鳥 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
私は、わら屋根の上の例のやぐらを眺めながら、しばらくそんな史的考察にふけつたのち、やをら立上つて、もと来た道を引返した。
ハビアン説法 (新字旧仮名) / 神西清(著)
そして、このことは彼を憂鬱にするが、情勢として女漁をんなあさりにふけるより仕方がない。だから、彼の場合は、女に選び好みの感情は失はれてゐる。
日本三文オペラ (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
二一 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読みふけりたり。少し変人といふ方なりき。
遠野物語 (新字旧仮名) / 柳田国男(著)
僕の血液は刻一刻減って行く。頭脳がはっきりして来た。暫らく、ペンを休めて、彼女の心臓を観察し、懐旧のおもいふけろう。
恋愛曲線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
もう豪雨が来ても大丈夫だと一同が安心してその夜は熟睡したが、自分は多年の宿望を果したから最も愉快に安眠にふけった。
平ヶ岳登攀記 (新字新仮名) / 高頭仁兵衛(著)
『來月の六日むいかだすがな。』と、おみつ先刻さつきから昔の祭の日の記憶を辿たどつて、さま/″\の追懷つゐくわいふけつてゐたらしく思はれた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
老いを忘れる為に思ひ出にふけるとは卑怯ひきょうな振舞ひとして、秋成はかねがね自分をいましめてゐた。過ぐ世をも顧りみない、行く末も気にかけない。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)