くつろ)” の例文
酒肴しゅこうが運ばれて、また娘が給仕に出た、話は途切れがちだったが、席はいつかのびやかにおちつき、いかにもくつろいだ小酒宴となった。
日本婦道記:小指 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
と云いながらそばへ寄って、源三の衣領えりくつろげて奇麗きれいな指で触ってみると、源三はくすぐったいと云ったように頸をすくめてさえぎりながら
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
地上はくつろいだ、幸せな、ひそまりかへつた空氣を一杯に擴げるのであるが、わたしは此の頃の或る日、北津輕郡内の小都會の板柳で
地方主義篇:(散文詩) (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
と、これも、みんなにくつろぎを勧めでもするやうな、殊更ことさらにおどけた調子で、少し離れたところから、ほかの者が、それにつけ加へた。
野の哄笑 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
湯元の温泉に一夜をくつろぎ、翌黎明れいめい爽昧そうまいの湯の湖を右に見て、戦場ヶ原の坂の上に出て、中禅寺湖の方を展望すれば、景観は壮大である。
雪代山女魚 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
「ええ、どうぞもうお気兼ねなく。宅はがさつ者ばかりでござんすから、おもてなしのない代りに、どんなにでもおくつろぎ遊ばして」
八寒道中 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家老や用人たちは、表座敷の方でうちくつろいでいた。中間や小者や女中などは、台所の次の間で、年に一度の公けの自由を楽しんでいた。
仇討三態 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
しかし、かうして、周囲の誰彼にかかはりなく、雑踏と騒音のなかで、一つ時のくつろぎと夢想の自由を得たことはもつけの幸ひであつた。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
半蔵が寿平次をくつろぎのへ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それぞれ御用ごようちがうので、平生へいぜい別々べつべつになっておはたらきになり、たまにしかしょになって、おくつろあそばすことがないともうします……。
次のつき井菊屋の奥、香都良川添かつらがわぞいの十畳に、もう床は並べて、膝まで沈むばかりの羽根毛はね蒲団ぶとんに、ふっくりと、たんぜんでくつろいだ。……
怨霊借用 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
敏子としこが笑ったのは、ついこの間のことのように覚えていたが、僕は今日から冬休みになった。当分くつろげる。郁子いくこも明日きりだ。
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
居間にくつろいだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
前記天満焼 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
わたしも、この立派な老紳士の快い炉ばたにすわって数分たたないうちに、あたかも自分が家族の一員であるかのようにくつろいだ気分になった。
私は幾度も入りつけてゐる風呂場で汗を流すと、湯上り姿で、二間の床を背にして食卓の前にくつろいだ。兄の家の養嗣子やうししもそこでさかづきをあげた。
町の踊り場 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
誰ひとりくつろいだような恰好はしていなかった。命令だから止むを得ずこんなふうにしているのだといったようなようすだった。
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
あっちでの奮闘談をまた繰り返し、彦太郎も、だんだん打ちくつろいで来て、しまいにはなかなか雄弁になり、いい気になって、喋舌り出した。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
かかる人を父とした者は真に不憫ふびんなものであり、また父たるその人もゆるりとくつろぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷おもにになう人生において
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
それを今彼等の問答は無造作むぞうさに片づけてしまったのだった。ふとその事実に気のついた広子は急に常談じょうだんを言うくつろぎを感じた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
かくて博士たちは別室へ退いたが、熱い珈琲コーヒーの一杯、くつろいだ紫煙の数分間は、老いたる博士の気力をまた癒したのであろう。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
今お役済で袴は着けて居りますが座蒲団の上にくつろいで居て、其の頃の遠国えんごくの奉行は、黒縮緬に葵の紋の羽織を上から二枚ずつ下すったもので
わたくしは久し振りに匂い入りの湯にでも浸ったようなくつろぎを覚え、鼻から息を吸って口からゆるやかにふ——っとそれを吐き出すのでした。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私を喜ばす機智の閃きもなく、私をくつろがす感情のほつれも示さず、ただ単にいつもやって来てはここに坐る退屈な相手だ。
曲者 (新字新仮名) / 原民喜(著)
打ちくつろいだ丹之丞の前には、久し振りの愛妾お勝が精一杯のよそおいをらして、旅の疲れ休めの盃をすすめております。
何の反省もなく、唇をれた詞。この時、姫の心は、急にくつろぎを感じた。さっと——汗。全身に流れる冷さを覚えた。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
私は心地こゝちよくくつろいでゐるやうに見えても、心の中は一向靜かではなかつた。馬車が、此處へ止まつた時、私は、誰か迎へに來てゐることだと思つた。
連れだって来た供のものも昔の家臣のように勿体もったいぶって庭先に控えている。何事も主君を第一にして、それが済まなければ自分らはくつろげないとする。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
私たちはくつろいでこの大景に接していた。八ヶ岳をあとにして、諏訪湖に添いゆくころから、空はどんよりとして来た。白いものがちらちら落ちそめた。
雪の武石峠 (新字新仮名) / 別所梅之助(著)
「こんなんですけど、くつろげるかと思って、自分で縫って見たの。それに、他所よそへこんなのを頼むとうるさいから。」
機関車 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
千登世は食後の後片づけをすますと、くつろいだ話もそこ/\に切り上げ暗い電燈を眼近く引き下して針仕事を始めた。
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
しかし、今朝けさ程から茄子なすびの黒焼を酒で飲みまして、御覧の通り、妙薬のふなを潰して貼っておりますけに、おかげで余程痛みがくつろいだようで御座います。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
殿中では、何の意味もないにしろ、鯉口こいぐちを三寸くつろげれば、直ちに当人は切腹、家は改易かいえきということに、いわゆる御百個条によって決まっているのである。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「拙者ひとりで寒さ凌ぎをやろうと思うていたところ、折よく分部殿がお見え、それにまた貴殿のおいでで甚だ嬉しい、ゆっくりとくつろいで行ってくれ給え」
私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされてくつろいでゐた。
二十七歳 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
よほど打くつろいで話でもする時でなければ、小刀は腰から離す事はない。たとえば人の年忌で法会などをする時は、主客共に上下を着て必ず一刀を帯びている。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
下宿屋生活ぐらしより一躍して仮にも一家のあるじとなればおのずから心くつろぎて何事も愉快ならざるはなし、勝手を働くは小山が世話せし雇婆やといばあさん、これとて当座の間に合せ
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
椅子にかけている男の膝には、場所柄になく白と黒との斑猫まだらねこが一匹丸くなって抱かれていた。この男は打ちくつろいだ風で、その猫の背を撫で撫で物を云っている。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
大いに不機嫌な顔をしながら、豺は自分の衣服をくつろげて、隣室に入って行ったが、冷水の入っている大きな水差と、洗盤と、一二枚のタオルとを持って戻って来た。
勿論五人の間には昔ながらの親しみと、くつろぎとがありました。然し、姿形から云ふともう見違へる程大人びて、腕白な中學時代の面影は殆ど何處にもありませんでした。
S中尉の話 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
そばで見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうもっき客の前で勤めていた時と変らないように、少しもくつろいだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ここはくつろぎの世界である。安らかさの世界である。器は一家の者たちである。否、器なき所にわが家はない。器を愛する者は家に帰ることを好む。器はよき家庭を結ぶ。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
その日も蒸暑むしあつかつた。すべてに公平なお天道様てんとうさまは、禅坊主が来たからといつて、つておきの風を御馳走する程の慈悲も見せなかつた。皆はえりくつろげて扇をばたばたさせた。
室外の空気に頭をさらしていた所為せいか、重かった頭も大分にかろすずしくなって、胸もほどくつろいで来たから、そのまま枕に就いて一霎時ひとしきりうとうとと眠ったかと思う間もなく
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼はやっと出て来たと思って安心した。そして、固くなっていた体をいてくつろげるようにした。
文妖伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分にくつろぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それを反て不思議にも私達は通いなれた道でも歩いているような、体までくつろいだ心安さと親しさとをもっこれに接し得るのは、畢竟ひっきょう室堂の影が始終視界を離れない為であろう。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
わずかに十坪ぐらいの余地しか使えないのでは、花壇をこしらえるにしても、趣きを出すにはくつろぎが足りなさ過ぎる。その上いけないことには、その地所は鍵の手に板塀で囲まれていた。
来客の間にほつとくつろいだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
と、荒畑は急にくつろいだ表情を見せながらまるで人が一変したように屈託のない微笑をうかべた。「君のことは堺君から聞いていましたよ、——いや、これは妙なところで会いましたね」
学校騒動 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
充実したくつろぎようである。六尺豊かな中肉の体躯を、悠々と部屋の一杯に伸ばしているのが、まるで畳をとおし、階下を通じ、大地の底にしっかり根をおろしたように静かに不壊である。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)