あじわ)” の例文
何といったって、今夜のような深いまじりっ気のない歓びというものは、おれとしては、二度と再びあじわうことの出来ない心持なんだ——
幻想 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
或は又酔うて居るのを幸いに二人の息子に足を洗わせて、其所に一種の快味をあじわおうという単純な考からであるかも知れぬと思った。
恭三の父 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
この人を公方さまの側から引き離して、にがいにがい味を、三斎にまずあじわわせねばならない——わしは、気を弱らしてどうするのだ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
それにしたしみて神を見、かつ己の真相を知り、以てヨブの如き平安と歓喜をあじわうに至るのである。ヨブ記はこの事を教うる書物である。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
貴族的なものでは古い時代のものにいいものが多いのです。それは技巧がまだ進んでおらず、稚拙なあじわいがあるからだと云えるのです。
民芸とは何か (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
ただ市村いちむら座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種のこつがあって余所よそではあじわえない味を出していた。
三筋町界隈 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
だが土用を過ぎると急に天地の色から一つ何物かが引去られ、寂寞せきばくと空白がみなぎり初める。私はいつもその不思議な変化をあじわって眺める。
男女の間の、信頼と親愛だけの交友は、僕たちにでなければわからない。所謂いわゆるあたらしい男だけがあじわい得るところの天与の美果である。
パンドラの匣 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「ところで、あなたを何とお呼びしましょうかね」賊はさもさも愉快らしく手をすり合わせて、一言一言自分の言葉をあじわう様に
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
これらの御婦人たちはいずれも結婚しない事の苦い不幸をあじわいながら、その不幸を他の幸福に換える立派な工夫を実行していられるのです。
女子の独立自営 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
それも招きに応じて来たものならまだしも、振り向きもせぬ寂しさをあじわうのは、沁み入る異境の果ての心細さに変るのだった。
罌粟の中 (新字新仮名) / 横光利一(著)
白鳥の胸毛か何かのように、暖い柔かい、夜着の感触を身体一面にあじわった時、藤十郎のお梶に対する異常な興奮は、危く爆発しようとした。
藤十郎の恋 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
この話の結びとして、最後に言いのこしたことをよくあじわっていただきたいと思います。この事件の結末は、まだ本当についていないのです。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
他の二三の茶碗を手にとって、素早く比較し、比較においてあじわうという態度には、近代人の致命的な弱点がひそんでいるのではなかろうか。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
さぞ不味ふみにおあじわいになったことも多かったろう、当年の疳癪など、芸術家としての疳癪で、むしろ、思出は悪くないと思った。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
この宇宙間には眼で見え、耳で聞え、鼻に匂い、舌であじわわれ、手で触れられるもの以外に、まだまだ沢山の感じられ得るものがあるのです。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
けれども能くこれをあじわってみると、また頗る面白い、高尚な趣味があろうと思う。人が学問をするのもこう行きたいものだ。
教育の目的 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
泣かない野村はもっと真剣であり、それがミネにとって納得出来がたいことであろうとも、もっと切実な苦悩をあじわっているにちがいなかった。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
大原君、このボイルドチッキンこそ如何いかなる贅沢家ぜいたくかも金満家もまだ滅多めったに口にした事のない天下の珍味だ。そのつもりでよくあじわってくれ給え。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
あるいはこのあたりに多い羊の群の飼われる牧場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅らしい心地こころもちあじわうに事を欠かなかった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
賤しい売女に接近して禁断の果実このみあじわい、出船の間際に、生涯の煩いになった、悪い病気を背負ったという例は、決して少くは無かったのです。
見るものきくものあじわう者ふるるもの、みないぶせし。にもるいいをしいの葉のなぞと上品の洒落しゃれなど云うところにあらず。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情をあじわおうとしたら埃及エジプト伊太利イタリーおもむかずとも現在の東京を歩むほど無残にもいたましいおもいをさせる処はあるまい。
人間というものは甘みとか、苦しみとか臭さ、そういう性情が生活に適応して、そこにあじわいとか臭とか、或いは他の感覚が惹起じゃっきするものなのです。
孟買挿話 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
其の酒の中へぽっちり、たらりと落して、一合の中へ猪口ちょくに四半分もポタリと落してやるとなんとも云えんあじわいのものだ、飲む気が有るなら遣ろうか
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
くらやみの中で自分の功利心がぴっかり眼を見開いているのに小初の一方の心では昼間水中であじわった薫の若い肉体との感触をおもい出している……。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
簡単率直であって、そのあじわいは深遠であり複雑であるということが生命であります。あなたの象徴の高さというのも畢竟ひっきょうそのことだろうと思います。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
自分のような鈍感者では到底あじわう事の出来ない文章上の微妙な説を聞いて大いに発明した事もしばしばあったし
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
もうすまでもなく、十幾年いくねんあいだ現世げんせなかよくった良人おっとと、ひさしぶりで再会さいかいするというのでございますから、わたくしむねには、夫婦ふうふあいだならではあじわわれぬ
岩壁のあたまに登ったりして、じみに Gipfelrast をあじわってきたり、あるいはシュタインマンを積みに小さなグラートツァッケに登るのも面白い。
それが近年に至って文学上の趣味をたのしむようになってから、智識的な事には少しあきが来て、感情に走った結果、宗教上の信仰という事にあじわいが出て来て
病牀苦語 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
恢復かいふく期にある明子はよくこの苦渋な回想を反芻はんすうした。彼女はそれに残酷なたのしさをあじわふと言ふ風にさへ見えた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
「古きつぼには古き酒があるはず、あじわいたまえ」と男も鵞鳥がちょうはねたたんで紫檀したんをつけたる羽団扇はうちわで膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものならうれしかろ」
一夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その時傷の痛みは私に或る甘さをあじわわせる。然しこの自己緊張の極点には往々にして恐ろしい自己疑惑が私を待ち設けている。遂に私は疲れ果てようとする。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
で、私の意見のようにすると、あじわわるるものは人生で、味わうものは作家の主観であるから、作家の主観の精粗に由て人生を味わう程度に深浅の別が生ずる。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
更に面白いのは、この方法で活動写真をとることである。ウーファの文化映画『見えない気流』を見られた方々は、十分にその面白さをあじわわれたことであろう。
「茶碗の湯」のことなど (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
そして五十歳を越えた今となっては、かつて知らなかった人生の深遠な情趣を知り、したがってまたその情趣をあじわいながら、静かに生きることの愉楽を体験した。
老年と人生 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
だって僕は、あなた方さえ知らないような生の愉悦ゆえつを、こんな山の中で人知れずあじわっているんですもの。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
私は樋口さんのむしろ無邪気なところを微笑ほほえんであじわうことができ、赤児はすこしずつ笑うようになった。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
まずしい小人形マリオネットの踊りをその踊りの輪のなかから見るつもりで、さんざん探した末この貧民区へうつって来た私たちは、第一に幻滅をあじわわなければならなかった。
此方こちらは初めての土地にて何やら一向それらしい気分もあじわわず松の内もあわただしく過してしまいました
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
彼の身に付き添いたる貧困の神は、彼をして早く浮世をあじわわしめたのである。彼が十四頃にはすでに大人びて来て、くれないなす彼の顔から無邪気の色はめてしまった。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
Monetモネエ なんぞは同じ池に同じ水草のえている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人にあじわわせるから
カズイスチカ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その一顆ひとつは渋かりき。他の一顆をあじわわむとせしに、真紅の色の黒ずみたる、うてななきは、虫のつけるなり。熟せしものにはあらず、毒なればとて、亡き母棄てさせたまいぬ。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かれの経験にはこういう経験が幾度もあった。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶くもん、その苦しい味をかれは常にあじわった。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
如何いかなる西洋嫌いも口腹こうふくに攘夷の念はない、皆喜んでこれあじわうから、ここ手持不沙汰てもちぶさたなるは日本から脊負しょって来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯かなあんどんけるにも及ばず
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
ところでちっとも不思議でない事には、所謂いわゆる実験室的作物の味が、多く加味されていればいる程、氏の作はいつも面白く、そのあじわいの薄い時は、面白くない作になって居ります。
探偵文壇鳥瞰 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私は麦酒を技いて貰ったが、凄まじい強雨と荒海の潮鳴りとに耳傾けながら、この国境の山上であじわう麦酒の味はひえびえとしてそれもいい記念になるだろうと思えた。その色も泡も。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
人おのおのその言うところを異にし、ごうも帰一するところあるなく、しこうしてただその子規子は偉人なりという点においてのみ、一致せるの事実を見たるは最もあじわうべき点なりとす。
絶対的人格:正岡先生論 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
現実の惨苦を身にしみじみとあじわえば味うほど、貧困の中に喘いでいる彼の一家を何とかして救い出そうとあせりぬく気もちを道化じみた彼の姿勢の中からかんじないではいられなかった。
菎蒻 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)