口許くちもと)” の例文
すると、一寸会話の途切れたあとで、S子はTの顔をジロジロ見ながら、その可愛い口許くちもとに一寸えみを浮べてこんなことをいうのです。
算盤が恋を語る話 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
まずこの辺までは芥川さんに話しても、白い頬を窪まし、口許くちもとに手を当ててうなずいていましょうがね、……あとが少しむずかしい。——
半島一奇抄 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ひき結んだ口許くちもとにも、子供にはまれな意志のあらわれといった感じがみえ、これまでのようにたやすく話しかけることもなくなっていった。
日本婦道記:おもかげ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
丁度ちやうど其時大島の重ねに同じ羽織を着て薄鼠の縮緬の絞りの兵児へこ帯をした、口許くちもとの締つた地蔵眉の色の白い男が駅夫えきふに青い切符を渡して居た。
御門主 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
しかし、事実と思うことができないにしても、まざまざと見える女の眼なり、口許くちもとなり、肉付にくづきなりがどうしてもただの夢とは思われなかった。
蘇生 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
むしろ好んで皮肉をてらふやうなその歪んだ口許くちもとに深い皺を寄せ乍らにや/\とほこりがに裕佐の顔を見てゐた孫四郎はかう云つて高く笑ひ出した。
その中に、汗は遠慮なく、まぶたをぬらして、鼻の側から口許くちもとをまはりながら、頤の下まで流れて行く。気味が悪い事おびただしい。
酒虫 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
右手を屏風にして囲った口許くちもとを、藤吉の左鬢下へ持って行くと、後は彦兵衛の咽喉仏のどぼとけが暫時上下に動くばかり——。
そして末期の水をその手からませると、娘は小鳥のやうな口許くちもとをして水を飲んだが、その儘息が絶えてしまつた。
せ姿のめんやうすご味を帯びて、唯口許くちもとにいひ難き愛敬あいきょうあり、綿銘仙めんめいせんしまがらこまかきあわせ木綿もめんがすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹かいきなるべくや
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その中の二人は小銃を手にぶら下げ、もう一人はパイプをくわえて口許くちもとからぷかりぷかりと紫の煙をはいていた。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
男らしい顔つきで、きりっとした口許くちもと、弓なりの鼻、頬はオリーブ色、動作はもの静かで、態度に威厳があります。年は二十八年と九ヵ月ということです。
大きな男の、頬骨の出っ張った、笑うときには、必ずひたい口許くちもとに並み外れて大きな沢山たくさんしわが出来る男だった。
戦争雑記 (新字新仮名) / 徳永直(著)
優しい眼……凜々りりしい口許くちもと……よく透る声……さっきまでの御親切だった殿下と、何の変ったところもない。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
自分たちのほうではその間にも油断なくお客のコップや口許くちもとに目をくばって、みんな満遍なく飲み物が渡っているだろうか、甘味の足りない人はないだろうか
接吻 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
千代之助はそう言いながら、片手を縁の板に突いて、斜下から夢見るような真弓の口許くちもとを見上げるのでした。
百唇の譜 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
次第しだいにおせんのこえは、たかかった。べばこたえるかとおもわれる口許くちもとは、こころなしか、さびしくふるえてえた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
彼女かのぢよ若々わか/\しくむねをどきつかせながら、いそいでつくゑうへ手紙てがみつてふうつた。彼女かのぢよかほはみる/\よろこびにかゞやいた。ゆがみかげんにむすんだ口許くちもと微笑ほゝゑみうかんでゐる。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
そして口許くちもとにはたえず少女のような弱弱しい微笑をちらつかせていた。私は何とはなしに、今のさっき見たばかりの一匹の蜜蜂と見知らない真白な花のことを思い出した。
燃ゆる頬 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
ひじょうに美しい人で、目鼻だちがよくととのって居り、口許くちもとは最も魅力に富んでいたが、そのつぶらな両眼は、どんな相手の心も見ぬきそうな知的なかがやきを持っていた。
海底都市 (新字新仮名) / 海野十三(著)
鼠色をした筒袖のあわせを着て、両手を後ろへ廻し、年は十歳とおぐらいにしか見えないが、色は白い方で、目鼻立ちのキリリとした、口許くちもとの締った、頬の豊かな、一見して賢げというよりは
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
表からずっと這入って来た男は年頃三十二三ぐらいで、色の浅黒い鼻筋の通ったちょっと青髯あおひげの生えた、口許くちもとの締った、利口そうな顔附をして居ますけれども、形姿なりを見るとごく不粋ぶすいこしらえで
闇夜の梅 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
そのくせ、物を食う男の口許くちもとを母親のように見とれる年齢に達していた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許くちもとに薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように見せた。只かまを掛けるつもりで荒っぽく出た刑事は、これで一層自信を強くしたようだった。
上海された男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
(その折もし仏躰に薄い一枚の布が掛っていたとしたら、一生上人は私からかくされていたかもしれないのです!)私は即座に心を奪われました。その口許くちもとに漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
相手の口許くちもとに微笑の影でも浮かんでおりはしないかと、それを発見しようと骨折ったが、それらしいところは微塵もなく、それどころか反対に相手の顔はいつもより真面目に見えるくらいであった。
と、かの女も口許くちもとで笑って云えば、規矩男は今度は率直に云った。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
信祝は、茶碗のふたを置くと、熱い茶を口許くちもとまでもって行って
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
それを聞くと彼女はふと皮肉な微笑を口許くちもとに浮べた。
静物 (新字旧仮名) / 十一谷義三郎(著)
手に取り見れば、年の頃二十歳はたちばかりなる美麗うつくし婦人おんなの半身像にて、その愛々しき口許くちもとは、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それは小供小供した一度も二度も見たようなどこかに見覚みおぼえのあるきれいな顔であった。視線があうと女の口許くちもとに微笑が浮んだ。
雑木林の中 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
まもなく、燗徳利を二本持って戻ったとき、おのぶの顔は洗ったようにさっぱりとし、あいそのいい微笑をうかべた口許くちもとから、八重歯を覗かせていた。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「御挨拶ですね。」と紳士は苦笑にがわらひした。「これには理由わけがあるんです、私は口許くちもとが悪いもんですから、それで……」
その立派なお鼻から両方の口許くちもとへかけてのいやな皺なんぞは昔はなかつたもんにちがひないわ。きつと後で出来たもんだわ。さうでせう? 妾、之でも人を見抜く事は名人なのよ。
「そうです、これは一種異様の味がするでしょう。お気に入りましたか星宮君」と軍医は照れたような薄笑いを浮べ、ダンディらしい星宮理学士の口許くちもとに射るような視線をおくった。
恐しき通夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
妹とよく似た面差おもざしはしていますが、これは妹と違って細面の、あでやかなひとみ……愛らしい口許くちもと……たかい鼻……やっぱりふさふさとした金髪を、耳の後方うしろで付けて、せいも妹よりは
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
或日津藤が禅超にふと、禅超は錦木にしきぎのしかけを羽織つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色の悪い男であるが、今日は殊によくない。眼も充血してゐる。弾力のない皮膚が時々口許くちもと痙攣けいれんする。
孤独地獄 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
話をして居ますると衝立ついたてかげからずいと出た武家さむらいは黒無地の羽織、四分一拵しぶいちごしらえの大小、胸高むなだかに帯を締めて品格ひんい男、年頃は廿七八でもありましょう、色白で眉毛の濃い口許くちもとに愛敬の有る人物が
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
と言ってる口許くちもとへ世話人が、お粥の椀を持って来て
もすそは長く草にあおつて、あはれ、口許くちもとえみも消えんとするに、桂木はうあるにもあられず、片膝かたひざきっと立てて、銃を掻取かいとる、そでおさへて
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
髪の毛は灰色であるが、眉毛は黒ぐろと太く、口許くちもとにも壮者のような力があった。それが正内老人であった。
ちくしょう谷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
環女史は一口言つたまゝ菜つ葉のやうな顔色がんしよくをして席を立つた。浜田氏は殉難者のやうな眼つきでその後姿を見送りながら、そゝつかしい自分の口許くちもとひねつた。
乱暴なつむじ曲りの伊沢の口許くちもとに無邪気なわらいあふれた。
雨夜続志 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
口許くちもとに笑いを忘れたまま、夫人の眼を炎が走った。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
与八の口許くちもとをながめているばかりであります。
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
顔も蒼白く、目が逆釣さかづり、口許くちもとも上に反ったように歯をんで、驚いて見る下地ッ子の小さな手を砕けよと掴んでぐッと引着けた。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おどおどした眼で、口許くちもとに詫びるような微笑をうかべながら、さぶはさも心配そうにみつめるのである。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
といふ挨拶を読むと、「ふふん」と鼻の上に皺を寄せて笑つたが、直ぐ気が付いたやうに、其処そこに手持不沙汰で坐つてゐる男をちらとぬすをして、今度はまた口許くちもとでにやつと笑つた。
五十六七にもなろう、人品じんぴんのいい、もの柔かな、出家すがたの一客が、火鉢に手を重ねながら、髯のない口許くちもとに、ニコリとした。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
もとから浅黒い膚だったが、陽にやけたのだろうか、その小さな細い顔は小麦色につやつやとして、意志の強そうな眼や、ひき緊った口許くちもとはあのころのおもかげをそのまま残していた。
滝口 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)