鼈甲べっこう)” の例文
書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲べっこう小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
すすき、天守の壁のうちより出づ。壁の一かくはあたかも扉のごとく、自由に開く、このおんなやや年かさ。鼈甲べっこうの突通し、御殿奥女中のこしらえ。
天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
金襴きんらんの帯が、どんなに似合ったことぞ、黒髪に鼈甲べっこうくしと、中差なかざしとの照りえたのが輝くばかりみずみずしく眺められたことぞ。
大橋須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
一歩外に出て見ると、縁側に白々と落ちたのは、人形の差して居た鼈甲べっこうかんざしです。ハッと思って、五、六間先の廊下をすかして見ると
「金はねえがしろがある」懐中ふところからくしを取り出した。「先刻さっき下ろした鰻掻、歯先に掛かった黒髪から、こんな鼈甲べっこうが現われたってやつさ」
隠亡堀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
最後に彼女はくしこうがいを示して、「これ卵甲らんこうよ。本当の鼈甲べっこうじゃないんだって。本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
柳生家江戸家老、田丸主水正は、鼈甲べっこう縁の眼鏡を額部ひたいへ押しあげて何か書見をしていた経机から、大之進のほうを振りかえった。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そっとのぞいてみると、鼈甲べっこうぶちの眼鏡をかけた権内が、十畳の座敷いっぱいに金をならべて、その真ん中に、腕拱うでぐみをしているのだった。
雲霧閻魔帳 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あかいきれをかけた大きい島田まげが重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲べっこうの櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
お柳のなりは南部の藍の子持縞こもちじまの袷に黒の唐繻子とうじゅすの帯に、極微塵ごくみじん小紋縮緬こもんちりめん三紋みつもんの羽織を着て、水のたれるような鼈甲べっこうくしこうがいをさして居ります。
名人長二 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
一人の女中の部屋では鼈甲べっこうこうがいかんざしをみんな取り出して綺麗に並べて置いて、銀簪なんぞは折り曲げて並べて行ったとね。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
昔からきつね色に焼くのを最上としておったようだが、ところどころ濃く、ところどころ狐色に丁度鼈甲べっこうを思わせるように焼くのが理想的である。
雑煮 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
日本橋、通四丁目の鼈甲べっこう屋鼈長の一人娘で、スカールの選手室子は、この頃また、隅田川岸の橋場の寮に来ていた。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
鼈甲べっこうで作るくしを九四といい始めたと承ったが、江戸で唐櫛屋とうぐしやを二十三屋と呼んだは十九四とくしの三数を和すれば二十三となるからという(『一話一言』八)。
別に御木本みきもとで真珠入りの鼈甲べっこうのブローチ兼用のクリップを買って、それを雪子と妙子との連名で贈ることにした。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「そうです。鼈甲べっこうなんかも取りますがね。こんどは何にも持って来ませんでしたけれど……大概良いものは途中で英国人や米国人に売ってしまうんです。」
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
俊助は相手にならないで、埃及エジプトの煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子テエブル越しに手をのばして、俊助の鼈甲べっこうの巻煙草入から金口きんぐちを一本抜きとりながら
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
かたわらには幅の広いへらのような形をした、鼈甲べっこう紙切小刀かみきりこがたなが置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
何事の起ったのかと種彦はふと心付けばわがたたずむ地の上は一面に踏砕ふみくだかれた水晶瑪瑙めのう琥珀こはく鶏血けいけつ孔雀石くじゃくせき珊瑚さんご鼈甲べっこうぎやまんびいどろなぞの破片かけらうずつくされている。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
多計代は、櫛のしまつをして抽斗をしめると、束髪のまんなかにいつもさしている鼈甲べっこうにガーネットのついた飾りピンをとり、もんだ紙でそれをこまかに拭いた。
二つの庭 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
寝台の側に大酒甕さけがめ形の立卓笥キャビネットがあるのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけたメモと、被害者がる時に取り外したらしい近視二十四度の鼈甲べっこう眼鏡、それに
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
そして銀のピラピラかんざしを前の方に飾ったものでございますが、鼈甲べっこうの櫛笄が灯影に栄え銀簪がちらちらひかる様子は、何と申しましても綺麗なものでございました。
帯の巾が広すぎる (新字新仮名) / 上村松園(著)
歌いながら、室じゅうをかき回し、散らかった物の中にはいり込んだ鼈甲べっこうの留め針を、ののしりちらした。じれったがって、怒鳴りだし、獅子ししのようにたけりたった。
孫四郎まごしろうは易者然たる鼈甲べっこう眼鏡めがねをかけて積んである絵本をまたぎ茶盆をまたぎして、先刻から机の上、床の間、押し入れの中としきりに引っくり返して何かさがしていたが
傍には鰻掻うなぎかきになっている直助がいて、煙草を飲みながら今のさき鰻掻にかかって来た鼈甲べっこうの櫛を藁で磨いていた。伊右衛門はそれを見て、煙草を出して火を借りようとした。
南北の東海道四谷怪談 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
未だ愛宕下の方へお伺いします頃、祖母さんの鼈甲べっこうのかんざしのいただいたのがありまして、それを束髪のに直してもらうように頼んで置きましたが、そのままに成っております。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それは大きくて広い家の土間だった、ひと抱えもありそうな柱や、鼈甲べっこう色に光るかまちや、重そうな杉戸が、うす暗いよどんだ空気のなかに、恐ろしいほどがっちりと威圧的に見えた。
初蕾 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「マガイ」とは馬爪ばづ鼈甲べっこうに似たらしめたるにて、現今の護謨ゴム象牙ぞうげせると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何いかばかり名言なりしかを知るべし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
厚いかしの木の扉飾りには鼈甲べっこうや象牙や金銀や碧玉へきぎょくさえも嵌め込まれているのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
なんであろうかと近づいてみると、それは、甲羅の大きさが一メートルもある、海がめの正覚坊しょうがくぼうが、のそのそしているのであった。なかには、鼈甲べっこうがめ(タイマイ)もまじっていた。
無人島に生きる十六人 (新字新仮名) / 須川邦彦(著)
彼女が髪にさしてるきれいな鼈甲べっこうくしの所有者も、自分であると彼は夢想していた。
海近く育ちて水に慣れたれば何のこわいこともなく沖の方へずんずんと乳のあたりまでずるを吉次は見てふところに入れし鼈甲べっこうくし二板紙にくるんだままをそっとたもとに入れ換えて手早く衣服きものを脱ぎ
置土産 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
鼈甲べっこう屋の養女であった。私はやはり同級の世良半次郎という子と時々その家に遊びに行った。色の白い、少し髪の赤い美しい娘だった。風が吹いてその前髪が上ると、美しい額があらわれた。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
青玉石の洪水こうずい鼈甲べっこう製品の安価。真鍮と銀の技能。そしてタミル族の女。
ヤトラカン・サミ博士の椅子 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
うしろからかざしかけた大傘の紋処はいわずと知れた金丸長者の抱茗荷だきみょうがと知る人ぞ知る。鼈甲べっこうずくめの櫛、かんざしに後光のす玉のかんばせ、柳の眉。綴錦つづれにしき裲襠うちかけに銀の六花むつばな摺箔すりはく。五葉の松の縫いつぶし。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼の家の台所には、極上鼈甲べっこう製の皿が天井迄高く積上げられている。
南島譚:01 幸福 (新字新仮名) / 中島敦(著)
私は悪い鼈甲べっこう色をした乳母の胸肌を、いい気もちで見られなかった。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
長崎は鼈甲べっこう細工で有名である。鼈甲の細工場を訪れたら面白かった。
書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば鼈甲べっこう小間物松屋の軒さきの、くしの画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。
雷門以北 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
差櫛くし珊瑚珠たまのついた鼈甲べっこうの簪を懐紙につつんで帯の間へ大事そうにしまいこみ、つまさきを帯止めにはさんで、おしりをはしょった。
小さなまげ鼈甲べっこうの耳こじりをちょこんとめて、手首に輪数珠わじゅずを掛けた五十格好のばばあ背後向うしろむきに坐ったのが、その総領そうりょうの娘である。
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
見れば、顔や手足ばかりでなく、背にもひじにも、縄目のあとがあざになっていた。そして全身、鼈甲べっこうの斑みたいにはれている。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平次はそう言いながら、お夏の丸髷まるまげから、まがい物の鼈甲べっこうに、これも怪しい銀の帯をしたこうがいを取って、スッと抜きました。
白雲が大事に拾い上げて見ると、箱の中には、鼈甲べっこう櫛笄くしこうがいだの、珊瑚樹の五分玉の根がけだのというものが入っている。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
第一大分古い物だ。木肌にあぶらが沁み込んで鼈甲べっこうのように光っている。俺は来る道々ためして見たが、百発百中はずれた事がない。嘘だと思うなら見るがよい
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
亭主は五十恰好かっこうの色の黒い頬のけた男で、鼈甲べっこうふちを取った馬鹿に大きな眼鏡めがねを掛けて、新聞を読みながら、いぼだらけの唐金からかねの火鉢に手をかざしていた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
髪ハ銀杏返シ、珊瑚さんご根掛ねがけ、同ジ珊瑚ノ一ツ玉ヲ挿シ、蝶貝ヲちりばメタ鼈甲べっこうノ櫛ヲサシテイル。髪ノ形ガソンナニ委シク見エタノニ顔ハドウモハッキリ見エナイ。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
足が自然と踊り出してくるのだった。アンナはロンドの中に飛び込み、手当たりしだいに二つの手をとらえ、気でも狂ったように踊り回った。鼈甲べっこうの留め針が髪からぬけ落ちた。
十五畳あまりの一室は父が生前詩書に親しまれた当時のままになっている。机の上にひろげられた詩箋しせんの上には鼈甲べっこうの眼鏡が亡き人の来るを待つが如く太い片方のつるを立てていた。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それから錦襴きんらんの帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲べっこう櫛笄くしこうがいが重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命な恐怖に圧倒されて
疑惑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)