朦朧もうろう)” の例文
朦朧もうろうと見えなくなって、国中、町中にただ一条ひとすじ、その桃の古小路ばかりが、漫々として波のしずか蒼海そうかいに、船脚をいたように見える。
絵本の春 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それでも、この連中はみんな、酒浸りのために黒ずんだ顔色、ぼんやりした朦朧もうろうたる眼、固く結んだ蒼い唇、などで区別がつくのだ。
群集の人 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
堀は、そういう一日ずつが経ってゆくごとに内儀の顔がずっとさきから心の中に生きていたことを朦朧もうろうとして意識のなかにも感じた。
(新字新仮名) / 室生犀星(著)
だから文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧もうろうたるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細しさいに区別して行きます。
文芸の哲学的基礎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と、部屋内のともしびが、一時に光を失ったかのように、四辺朦朧もうろうと小暗くなり、捧げられた深紅の纐纈ばかりが虹のように燦然と輝いた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
見る限り灰色の大空に、何かしら途方もなく巨大な生きものが、朦朧もうろうと覆いかぶさって、不気味なスロー・モーションでうごめいていた。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
いかに現在の計測を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧もうろうたる不明の笹縁ささべりがつきまとってくる。
野球時代 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼しんきろうのように朦朧もうろうと現れて来る。店の八つ手はその頃も青かった。
二階から (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
楼上には我を待つ畸人あり、楼下には晩餐ばんさんの用意にいそがしき老母あり、弦月は我幻境を照らして朦朧もうろうたる好風景、も言はれず。
三日幻境 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
横網ニ親戚ノ家ガアルノデ、ソコヘ行ク途中ナンダロウト思ッタ。ホンノ一分間グライデ、ソレカラアトハ朦朧もうろうトナッテシマッタ。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
うとうとすると、経帷子きょうかたびら数珠じゅずを手にした死装束の母が、朦朧もうろうと枕許に現れて……全身にビッショリと、汗をかいてしまいました。
仁王門 (新字新仮名) / 橘外男(著)
その最も古きは西南戦争の翌年、熊本鎮台の一兵卒が写真をとったときに、朦朧もうろうとしたる他人の姿が一緒に写っていたことがある。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
女流詩人らが息を切らし汗を流しながら、シュリー・プリュドンムやオーギュスト・ドルシャンの詩句を、朦朧もうろうたる調子でしょうした。
多くの人に残る記憶も前後して朦朧もうろうとしたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
マリア・ブルネル夫人と同じ朦朧もうろう状態をねらい、あわよくば、まさに飛び去ろうとする潜在意識を記録させようとしたからなんだよ。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
興奮と煩悶はんもんとにつかれた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時いつしか朦朧もうろうとしてしまって、寝苦しい眠りに落ちていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
其処そこへ幸ひ戸口に下げた金線きんせんサイダアのポスタアの蔭から、小僧が一人首を出した。これは表情の朦朧もうろうとした、面皰にきびだらけの小僧である。
あばばばば (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
着物は——中田の朦朧もうろうとしたまなこには、黒っぽい盲縞めくらじまのように思えたが、それが又、あたりの荒廃色と、妙に和合するのであった。
自殺 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
すると店の灯も、町の人通りも香水こうすいの湯気を通して見るようになまめかしく朦朧もうろうとなって、いよいよ自意識をたよりなくして行った。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の朦朧もうろうとして見えたりしが、やがてみちはめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
酔眼朦朧もうろうたる眼前へ二十人ぐらいの舞妓達が次から次へと現れた時には、いささか天命と諦らめて観念の眼を閉じる気持になった程である。
日本文化私観 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
第一に殺人その他の重罪犯人は犯行中精神の朦朧もうろう状態にあり、犯行後になって、自分の犯行を全く記憶していない場合がある。
誰が何故彼を殺したか (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
円い磨硝子すりがらすの笠をかけた朦朧もうろうたるランプの火影に、十九歳のロザリンが洋琴ピアノを弾きながら低唱したあのロマンスのなつかしさ。
海洋の旅 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
ふりかえった彼の前をすれすれに、朦朧もうろうたる人影が、音もなく通り過ぎて部屋の中へ入ってきた。何であろう。何者であろう。
四次元漂流 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ようやく近ごろ酔眼朦朧もうろうとして始めて這個しゃこの消息を瞥見べっけんし得たるに似るがゆえに、すなわちこの物語に筆を執りいささか所懐の一端を伸ぶ。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
此の考がひらめくと、一時はっと気が付きかけたが、暫くして再び意識が朦朧もうろうとし出した。ぼんやりした意識の中に妙な光景が浮び上って来た。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
一転すると悲壮沈痛にして、抑えがたき感慨がこもる。朦朧もうろうとして春の宵の如きところから、寥々りょうりょうとして秋の夜の月のように冴え渡って行く。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
目がめた時、重吉はまだベンチにいた。そして朦朧もうろうとした頭脳あたまの中で、過去の記憶を探そうとし、一生懸命に努めて見た。
四方の壁際までにはやっとその光りが泳ぎ着く位で、四は灰色の壁が朦朧もうろうと浮き出てストーブの火もいつしか消えていた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
自分の嘘の効果のあまりの絶大さに、悪夢でも見ているような朦朧もうろうとした気持ちで、でも半分は本気でそれをたずねたのだ。
軍国歌謡集 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
十吉は振返つて、やはりその火影を見てゐるブラウエンベルグ老人の顔にほつと安堵の色のうかんだのを、朦朧もうろうたる幽暗の中にみとめた。……
灰色の眼の女 (新字旧仮名) / 神西清(著)
やっとその時になって玄竜は横合いの方から臆病そうに首を突き出し、慌てたように朦朧もうろうとした目をこすって見据え、口をばっくりと開けた。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
バベはよく言った、「クラクズーは二色の声を持ってる夜の鳥だ。」彼は朦朧もうろうとした恐ろしい、ぶらつき回ってる男だった。
たちま山岳さんがく鳴動めいどうし、黒烟こくゑん朦朧もうろう立昇たちのぼる、その黒烟こくゑん絶間たえまながめると、猛狒ゴリラ三頭さんとうとも微塵みじんになつてくだんだ、獅子しゝ大半たいはん打斃うちたをれた、途端とたん水兵すいへい
朦朧もうろうランプに照らされた空車の二字が目に入った刹那、本庄は救われたような喜びに我を忘れて合図の手を高くさし挙げ、停るのを待ち兼ねて
黒猫十三 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
動物的生命においては見るといっても、朦朧もうろうたるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。動作が本能的と考えられる所以である。
絶対矛盾的自己同一 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
それまで、どこを転々として、何をしてゐたかと、朦朧もうろうとして頭をひねつて跡を辿ると、恥づべき所業だけしか手繰り得ないのもいつもの通りだ。
大凶の籤 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
朦朧もうろうとした月の光のした水の上に岸を離れたばかりの小舟が浮んで、それが湖心のほうへ動いていた。櫓をおしている小柄の男の姿も見えていた。
ある神主の話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
きかねど晦日みそかつきなか十五夜じふごややみもなくてやはおく朦朧もうろうのいかなる手段しゆだんありしか新田につた畫策くわくさくきはめてめうにしていさゝかの融通ゆうづうもならず示談じだん
別れ霜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
眠っているのかいないのか判然せぬ状態、揉ませている方の意識もやや朦朧もうろうたる点が、春雨の趣に調和するのであろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
彼は快活で朦朧もうろうたる心持の、のんきな連中にしているのが耐えられなかった上、また彼の額にある極印が、その連中には邪魔になったからである。
廻り燈籠どうろうの人物の影が、横に廻らず上下にまわったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて朦朧もうろうながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた。
ぎはのあわたゞしさの中でも、彼を思ひ、是を思ひ、時に朦朧もうろうとした、時に炳焉へいえんとした悲しみに胴を顫ひ立たせ
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
こんど急な病気で半分意識が朦朧もうろうとしたとき、フロムゴリド博士をよび、自動車をまわして入院させてくれたのは、大使館の河井夫妻の親切であった。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
明和めいわ戊子ぼし晩春、雨れ月朦朧もうろうの夜、窓下さうかに編成し、以て梓氏ししあたふ。題して雨月物語うげつものがたりふと云ふ。剪枝畸人せんしきじん書す。
大杯を持って、そのうしろへ坐ったのが、無態むたいに、与平のからだを抱いて、自分のほうへ向け直すと、与平はもう別人のような酔眼を、朦朧もうろうとすえて
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昭和九年私の父が胃潰瘍いかいようで大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧もうろう状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。
智恵子の半生 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
半ば朦朧もうろう状態に於て意識せるものとするも、の小児の人形飜弄の如く、自己が手を下したるものとは思惟しいせずして、屍体そのものの活躍なりと錯覚し
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ところで、その時に見せてもらった雲岡の写真は、朦朧もうろうとした出来の悪いもので、あそこの石仏の価値を推測する手づるにはまるでならなかったのである。
麦積山塑像の示唆するもの (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
こんなことを言って熱心に世話もしないのであったが、宮は終焉しゅうえんの床で、夫人がもう意識も朦朧もうろうになっていながら、生まれた姫君を気がかりに思うふうで
源氏物語:47 橋姫 (新字新仮名) / 紫式部(著)