しの)” の例文
しかし郊外には、いい住宅地がたくさんあって、そういうところには、樹木が多く、日本の秋の美しさをしのばせる風趣が十分にある。
ウィネッカの秋 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
張交はりまぜふすまには南湖なんこだの鵬斎ぼうさいの書だの、すべて亡くなった人の趣味をしのばせる記念かたみと見るべきものさえもとの通りり付けてあった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その頃中坂下に住んでいて朝夕この界隈を散歩した私は馬琴の瀬戸物屋の前を通って文豪をしのぶと共に中坂という名に興味を持ち
盂蘭盆うらぼん墓詣はかまうでに、のなきはゝしのびつゝ、なみだぐみたるむすめあり。あかのみづしづくならで、桔梗ききやうつゆ置添おきそへつ、うきなみおもふならずや。
婦人十一題 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
が、焼ける前の昔の面影をしのばすものは、かつて庭だったところに残っている築山つきやまの岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらいのものだ。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影をしのんだことがある。
三筋町界隈 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影をしのぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
庭の崖先から真下に、江戸城の北のほりが見え、城壁をつつむ丘陵の森と対して、昼間はさぞと、ここからの展望もしのばれるのであった。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此の一事を以ても、敦忠の死が人々に惜しまれたこと、又敦忠が和歌ばかりでなく、管絃の道にもひいでゝいたことがしのばれるのである。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
原稿が間もなく手許に戻って来て、章句が適当に取捨されて、体裁の整えられたのを見た時には、一入ひとしお故人の労をしのばざるを得なかった。
「古琉球」改版に際して (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
今日の常識から見れば、決して驚くほどの変化ではないが、たまたまもって十八世紀末のイギリスの宮廷の長閑のどかな空気がしのばれて面白い。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
蔭凉軒の跡とおぼしきあたりも激しいいくさの跡をしのばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つはまろんでいる始末でございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
原形は全く散逸してしまってうかがうべくもない。真紅しんくの布片や金色の刺繍の跡に、わずかに往時の荘厳な美しさがしのばるるのみである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
整然きっちり片附られた座敷の正面床の脇に、淋しく立掛られてある琴が、在らぬ主のおもかげを哀れにしのばせた、春日は中央まんなかでじっと四辺あたりを見廻して後
誘拐者 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
面白いことに、今東京の面影をしのぼうとするなら、下町を訪ねるにくはありません。品物にも何か昔の江戸風な気質かたぎが残されております。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌をしのばせるようなものもあった。磯子、涼子、それから勝子の面影をすら見つけた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
書斎も母屋おもやも壁の亀裂ひわれもまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックをしのんで居ます。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
黒く陽やけした顔は満州滞在中の労苦をしのばせるのだったが、それだけにひどくふてぶてしい面構えになったとも見られた。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
涼しい水音をしのばせる売り声をきそう後からだらりと白く乾いた舌を垂らして犬がさも肉体を持て余したようについて行く。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
ちやんと紋服に袴を着けて玄關に現はれた道臣の姿は、流石さすがに昔がしのばれた。其處へ定吉が來て、「留守を頼む。」なぞと道臣に言はれてゐた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
さながら希臘ギリシャか古羅馬ローマ貴族の邸にでも佇んで在りし昔の豪華なるおもかげでもしのんでいるかのような気持がしてくるのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしをしのぶよすがはありません。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それがこの岡のまわりにも群を成してはいるのだが、幼ない頃に見たのとはどうも様子が少し違う。ということが一段と昔をしのばしめたのである。
妻をうたい子を詠う歌は勿論もちろん、四季おりおりの気遣きづかいや職務とか人事、または囚人の身の上をしのぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
当時の楽しかった結婚生活が、ありありと思い出されてきて、返すがえすも、我が身の不幸がしのばれてくるのであった。
在郷軍人が、現役兵の話を聞いて昔をしのぶごとくに、吾々は、毎朝米を食ふごとに、昔の服農を思ひ出すことができる。
一日は琵琶湖びわこに舟をうかべて暮し、あくる日は伊吹の山すそでいのしし狩りをした、また鈴鹿の山へ遠駆けをして野営のいち夜にむかしをしのんだりもした。
青竹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
飛ぶ雲の影を見れば故郷の山を思い、うららかなる春の日に立つ野山の霞を見る時は、ありし昔の稚子おさなごの面影をしのぶ。
これもよい井戸水のために、いい豆腐ができたのだが、今は場所も変わって、わずかに盛時の面影をしのぶばかりだ。
美味い豆腐の話 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
あくまで豪毅ごうき、あくまで沈着、さながら春光影裡しゅんこうえいり斑鳩いかるがの里を逍遥しょうようし給う聖徳太子のおもかげしのばれんばかりであった。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
私は行く春の面影を傷手を負うたような心地で、しのばぬわけにはゆかぬのである。私は惜しくて惜しくてならない。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
あれは、ルキーンが拾ってそれでジナイーダの移香をしのんでいたものが、綱を登る際に何かの拍子で移ったのだよ。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それから私は、鏡に映ってゐる海の中のやうな、青いへやの黒く透明なガラス戸の向ふで、赤い昔の印度インドしのばせるやうな火が燃されてゐるのを見ました。
毒蛾 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
第四の女は、父の読書癖を代表するし、放慢癖ほうまんへきと鼻っぱしをしのばせるが、海のものとも山のものともわからない。
親は眺めて考えている (新字新仮名) / 金森徳次郎(著)
十二月廿五日のゆふべは来りぬ、寒風枯草を吹きて、暗き空に星光る様、そぞろに二千年前の猶大ユダヤ野辺のべしのばしむ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
武田博士を先頭に、数百人の技師や職工が、険しい岩山をよじ登り、かがり火をたいて、亡き大将らをしのんだ。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
そこで木戸博士は、研究当時の苦心をしのぶかのようにジッと瞑目めいもくし、しばし手を額の上に置かれたのだった。
キド効果 (新字新仮名) / 海野十三(著)
私はわざと臼を躍らせてぱっと茶の粉をたたせるのがすきだった。すがすがしい薫りがする。しめやかな茶臼の音は今も耳にのこって遠いとおい昔をしのばせる。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
底知れなかった愛人の情をしみじみとさとり知ったおり、そこに偉大な人格をしのばなければならなかった。
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
隅田の情趣になくてはならない屋形船やかたぶねも乗る人の気分も変り、型も改まって全く昔をしのぶよすがもない。
亡び行く江戸趣味 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
わたしはうお寺の鐘の音をきいただけでも、おそろしい阿闍利さまの悪相をしのばずにはおられません。
あじゃり (新字新仮名) / 室生犀星(著)
その時の小さいきずは長く残つて居てそれを見るたびに昔をしのぶ種となつて居たが、今はその左の足の足首を見る事が出来ぬやうになつてしまふた。(五月十六日)
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
懐かしさ、恋しさの余り、かすかに残ったその人の面影おもかげしのぼうと思ったのである。武蔵野むさしのの寒い風のさかんに吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音がすさまじく聞えた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
一木一草そよ吹く風すら、遠つ御祖みおやの昔思いしのばれて、さだめしわが退屈男も心明るみ、恋しさなつかしさ十倍であろうと思われたのに、一向そんな容子がないのです。
たゞ、大川に面した河岸側だけ、むかし三叉みつまたと言って夏の涼みや秋の月見の風雅な場所だったことをしのばしめるように上品で瀟洒とした料理店が少し残っております。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ところで人生を旅路と考え、弥次郎兵衛、喜多八の膝栗毛を思い、東海道五十三次の昔の旅をしのぶとき、私どもは、ここにあの善財童子の求道譚くどうものがたりを思い起こすのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦をしのばせないものはございません。
地獄変 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
しかしまだ、高津の黒焼屋の前を通ると、私は私自身の生れた家を思い出す。それから船場せんば方面やうつぼあたりには、私の幼少をしのばしめる家々がまだ相当にのこっている。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
みことのお身代みがわりとして入水にゅうすいされたときひめのお心持こころもちはどんなであったろう……。』祠前しぜんぬかづいてむかししのときに、わたくし両眼りょうがんからはあつなみだがとめどなくながちるのでした。
私は、そこに故人をしのぶ風景というより、人びとの得手勝手な好奇心のほうを多く見ていた。
演技の果て (新字新仮名) / 山川方夫(著)