暗澹あんたん)” の例文
そして詩的精神は隠蔽いんぺいされ、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹あんたんたる事態の下に」
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
しかも、夢はやぶれて、業は半ばというよりは、時も暗澹あんたんなうちに、世を終わられたことである。御無念はいうまでもなかったろう。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私の囲ったのは芸者上りの女でしたが、一たびそのことが先妻の耳にはいりますと、私の家は実に暗澹あんたんたる空気に満たされました。
猫と村正 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
千三百年のいにしえ、太子がこもらせたもうた御姿を想像し、あの暗澹あんたんたる日に美しい黎明を祈念された太子が、長身に剣をしかと握りしめ
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
怒る時は鼻柱から眉宇びうにかけて暗澹あんたんたる色をみなぎらし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気しょげ返る。
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
倭文子は先刻から沈んでいた心が、さらに暗澹あんたんとしてしまった。おとなしい彼女も、京子のわがままを、にくまずにはいられなかった。
第二の接吻 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
しかも、その暗澹あんたんとした雰囲気を、さらにいちだん物々しくしているのが、周囲の壁面を飾っている各時代の古代武具だったのである。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
寒風に裸の皮膚をさらしているその煙突のような孤立した冷えびえとした気持ちが、さらに暗澹あんたんとしたものに深まって行くのをかんじる。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
フランス芸術のもっとも暗澹あんたんたる時代の間に、自分の信仰の宝と民族の天才とを、おのれのうちに完全に保有していたのである。
古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹あんたんとした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたのあわよりはかなく、めんどくさく思えて来る。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
従ってそういう意味では、我が国のこれから先一年とか二年とかの期間は、前途極めて暗澹あんたんたるものがあることを覚悟しておく必要がある。
硝子を破る者 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
イエスは彼の死を聞いて暗澹あんたんたる思いとともに、自己の使命に対するいっそうの愛着と熱心とを燃やされたに違いありません。
吾人の住む社会は暗澹あんたんたるものである。成功することこそ、まさにつぶれんとする腐敗より一滴また一滴としたたる教えである。
前途は彼に取って唯暗澹あんたんとしている。父が投出して置いて行った家の後仕末もせねば成らぬ。多くの負債も引受けねば成らぬ。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我身のことに思い至って、まことに、暗澹あんたんとした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。
正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹あんたんとしてゐる。正宗氏はこの事実を教へる為に種々雑多の「話」を作つた。
日本へ帰って来るとこんな苦しみがあったのかと、彼は暗澹あんたんとなりまさる胸の中に顔を埋めるようにして幾つも坂道を上ったり降りたりした。
厨房日記 (新字新仮名) / 横光利一(著)
が、それはすぐ消えて、室内はまた暗澹あんたんの中に沈んだ。その代り、なにか重いものを引擦ひきずるようにゴソリゴソリという気味のわるい音がした。
恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三(著)
あさひは暗澹あんたんたる前途を見透し、地獄へちる瞬間の光景を垣間かいま見たひとのような悲愴な顔で、生きにくい東京という土地を離れる決心をした。
虹の橋 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
暗澹あんたんとした息ぐるしい日がつづいた、そしてある日、槍ぐみ番がしらの平田玄蕃と実家の兄の正之進とがおとずれて来た。
日本婦道記:春三たび (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
こう毒づいた上で、僕は、我が心の墓地に眠っている、あの薄倖な詩人たち、宿命の病人たちの生涯を憶っては、暗澹あんたんたる悲憤に打たれるのだ。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
たちまち、暗澹あんたんたる海上かいじやうに、不意ふい大叫喚だいけうくわんおこつたのは、本船ほんせんのがつた端艇たんていあまりに多人數たにんずうせたため一二そうなみかぶつて沈沒ちんぼつしたのであらう。
日中なれども暗澹あんたんとして日の光かすかに、陰々たるうち異形いぎやうなる雨漏あまもりの壁に染みたるが仄見ほのみえて、鬼気人にせまるの感あり。
妖怪年代記 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
誰もいないのに弁信は、こんなことを言いながら、暗澹あんたんたる土蔵の中の隅っこで、しきりにのみふるっておりました。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただ天地暗澹あんたんうちに、寒い日がしずかに暮れて、寒い夜がしずかに明けた。この沈黙は恐るべき大雪をもたらす前兆である。里の人家ではいずれも冬籠ふゆごもりの準備にかかった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
暗澹あんたんたる空は低く垂れ、立木の梢は雲のようにかすみ渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧もうろうとして薄暮たそがれよりも明かった。
(新字新仮名) / 永井荷風(著)
いま、この化物屋敷には、暗澹あんたんとして雲のたれる空の下に、戟渦げきか巻きあふれて惨雨さんういつやむべしとも見えない。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
濃い、暗澹あんたんとした果てしのない雲が、とこしえにお前の希望と天国とのあいだにかかっているのではないか?
おそらく、墨汁ぼくじゅうを流したように暗澹あんたんとした空と巨鯨のように起き伏した激浪が視界をおおっているに違いない。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
己はなんだか、自分の周囲を包んで居た暗澹あんたんたる雲の隙間から、遥かに天日てんじつの光を仰いだような心地こゝちがした。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
私は従姉いとこをたずねていって、暗澹あんたんたる有様に胸をうたれて途方にくれたことがある。これが、あのはなやかに、あでやかに見える、左褄ひだりづまをとるひとせびらに負う影かと——
殊にあの村はずれで御一緒に美しい虹を仰いだときは、本当にこれまで何やら行き詰っていたようで暗澹あんたんとしていた私の気もちも急に開けだしたような気がしました。
楡の家 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
当時私が時代精神の圧力に対していだきつづけた対抗と緊張と恐怖との肉体的感覚や、暗澹あんたんたる無力感や、それにもかかわらず働きつづける批評的意識やを思いおこして
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹あんたんとした気分だった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
私はその話を一時は子供威しと思ったのであったが、しかしその暗澹あんたんたる真相を知るにつれて、私はその後感じさせられた気味悪さを、今更にまた深く感じさせられた。
わたくしは母の心を深くは察し兼ねながら暗澹あんたんとした気持にならないわけにはゆきませんでした。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
夜は暗澹あんたんとして、わたしたちの戸外の散策は拘束され、感情もまた外にさまよい出て行かずに、内にとじこめられ、わたしたちは互いの交歓に愉しみを見つけようとする。
背後に蔚然うつぜんたる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹あんたんたる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
私のこの時の幸福感は、かつて暗澹あんたんたる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。
聴雨 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
一時間、酒が切れると、すぐ手がふるえ、舌が痺れる、よるべないその頃のアル中の私、重ねて言うが、明日の知れない、人生いとも暗澹あんたんのその頃の「私」だったのだった。
随筆 寄席囃子 (新字新仮名) / 正岡容(著)
春めいたうららかな日光の讃岐さぬきの山々に煙っていることもあれば、西風が吹荒れて、海には漁船の影もなくって、北国のような暗澹あんたんたる色を現わしていることもたまにはあった。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹あんたんと見えた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
暗澹あんたんたる闇の中に一縷いちるの光明が燃え始めた。それは犯罪者の屡々おちいる馬鹿馬鹿しい妄想であったかも知れない。第三者から見れば一顧いっこの価値もない愚挙であったかも知れない。
灰神楽 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。おしな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
... 松島の気焔は楽しかったが、今夜の告白は、暗澹あんたんたるものです。」と言って、にっと笑い
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
星ばかりが空へ穴を穿けていた。その暗澹あんたんたる漆色の夜を、二つの焔が遠ざかって行った。一つは陸を行く仮面の城主の、身に纏っているほうであり、一つは帆船の帆であった。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
暗澹あんたんたる水のうえを、幻のごとく飛んで行くかもめも寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
北海道の原野はもう蒼茫そうぼうと暮れ果てて雪もよいの空は暗澹あんたんとして低く垂れ下っていた。
生不動 (新字新仮名) / 橘外男(著)
普通チェーホフが最も暗澹あんたんたる精神的危機に瀕していた年代とされているが、その年の手紙の一つ(五月、スヴォーリン宛)には、——知識の諸部門は平和のうちに共存して来た。
もっとも、多くの者は、彼のことばに驚いて、そこに暗澹あんたんたるものを認めていた……。