摂津せっつ)” の例文
旧字:攝津
海路、摂津せっつから四国へ行く便船は、こよいの八刻やつの上げ潮にともづなを解くというので、夕方の船着場は、積荷や客の送別で雑閙ざっとうしていた。
濞かみ浪人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蕪村は摂津せっつ浪花なにわに近き毛馬塘けまづつみの片ほとりに幼時を送りしことその「春風馬堤曲しゅんぷうばていきょく」に見ゆ。彼は某に与ふる書中にこの曲の事を記して
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
なるほど日本人は住んでいたが、摂津せっつの沖から吹き流されて漂着した漁師原りょうしばらで、助左衛門とは縁もゆかりもない男たちであった。
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
申し渡しのあと、太田摂津せっつ守が上使を命ぜられ、立花飛騨守と伊達兵部との三人で、伊達家の上屋敷へゆき、陸奥守綱宗つなむねにその旨を伝えた。
兵庫は摂津せっつの国にあって、明石あかしから五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨すまの山から東方に当たって海上に突き出している
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
摂津せっつ有馬ありまの温泉には、人が近くへ寄って大声で悪口をいうと、忽ち湧き上るという小さな湯口があって、これを後妻湯うわなりのゆと呼んでおりました。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
みんなは、そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津せっつ浪速なみはやの海を乗り切って、河内国かわちのくにの、青雲あをぐも白肩津しらかたのつという浜へ着きました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津せっつ豊能とよの郡の垂水たるみ播磨はりま明石あかし郡の垂水たるみの両説がある。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
やがてその三月三日も四五日の中に迫って参りますと、驚いた事には摂津せっつの国桜井さくらいにいる叔母の尼が、是非その竜の昇天を見物したいと申すので
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
摂津せっつ大阪おおさかにある四天王寺してんのうじ大和やまと奈良ならちか法隆寺ほうりゅうじなどは、みな太子たいしのおてになったふるふるいおてらでございます。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
美しい青田の山城やましろ平野、それに続く摂津せっつ平野の向うに、くっきり播但ばんたんの山脈が見えるようになると、野原にき散らされた家の数がだんだん多くなる。
急行十三時間 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
祖母の寝物語によると、君子は摂津せっつの国風平かざひら村とか風下かざしも村とかで生まれたということであるが、いまは村の名や、国の名さえ君子の記憶にはなくなっている。
抱茗荷の説 (新字新仮名) / 山本禾太郎(著)
ここで近畿きんき地方というのは便宜上、京都や大阪を中心に山城やましろ大和やまと河内かわち摂津せっつ和泉いずみ淡路あわじ紀伊きい伊賀いが伊勢いせ志摩しま近江おうみの諸国を包むことと致しましょう。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
摂津せっつ半国の主であった松山新介の侍大将中村新兵衛は、五畿内中国に聞こえた大豪の士であった。
(新字新仮名) / 菊池寛(著)
その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津せっつの三十三間堂が聞きたい。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「丹後の国をふり出しに、但馬たじま因幡いなば播磨はりま摂津せっつと、打って廻りましてござりまして……」
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ちょうどそのとき、余は摂津せっつ地方を巡回していたが、天然痘を免るるには種痘すればよいのに、これを行わずして敦盛あつもり様の墓へ参詣さんけいするものが日夜たえぬということを聞いた。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
とあるのはここだともいうし、それは摂津せっつ磯歯津しはつ山を詠んだともいう。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
つきとめようという気もなかったのであるがその御殿の遺跡は山城やましろ摂津せっつのくにざかいにちかい山崎の駅から十何丁かの淀川よどがわのへりにあって今もそのあとに後鳥羽院を祭った神社が建っていることを
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
が、摂津せっつ、兵庫あたりには、早くも頼朝の軍令がまわっていた。諸国の地頭は、義経を討って、鎌倉殿の感賞にあずかろうものと争った。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
中世盛んに流行した歌問答の昔話にも、西行さいぎょうとか宗祇そうぎとかいう旅の歌人が、摂津せっつの鼓の滝に来て一首の歌を詠んだ話がある。
それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけてほろぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津せっつ斗賀野とがのというところまでご進軍になりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
わたくしどもはけっして変化へんげでも、おにけたのでもありません。一人ひとり摂津せっつくにから、一人ひとり紀伊きいくにから、一人ひとり京都きょうとちか山城やましろくにからたものです。
大江山 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
彼がその実を握ったまま居間へ戻るとすぐに、朝倉摂津せっつから迎えの者が来た。会いたいからすぐにという口上である。直衛はかみしもをつけず、はかまだけはいていった。
改訂御定法 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
あるものは摂津せっつの海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされて来た。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
摂津せっつの国で特筆しなければならないのは、有馬郡塩瀬村の名塩なじおで出来る紙であります。古くから「間合紙まにあいがみ」と呼んでいるもので、雁皮がんぴを材料にし、これに細かい泥土をまぜてくものであります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
これは高麗こまの帰化人であるところの、背奈氏せなしと合してその土地に住み、他の一派は京都洛外の、太秦うずまさ辺に住居して秦氏はたしの一族と合体したりしたが、宗家は代々摂津せっつ和泉いずみ河内かわち、この三国に潜在して
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
なおまた、播磨はりま摂津せっつの海上には、七百余そうの兵船を遊弋ゆうよくさせ、後詰の兵や糧食を、なおも続々陸上に押し揚げようと計っておりまする。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ところが摂津せっつ有馬ありまの湯の山では、豊臣秀吉がやはり杖をもって温泉を出したという話になっております。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「太田摂津せっつさまよ」と他の女が云った、「火の見が右にあるじゃないの、小笠原さまはあの右よ」
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
けれども牡鹿おじか摂津せっつ牝鹿めじかよりも、淡路あわじ牝鹿めじかほうを、よけいいていました。
夢占 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
天皇がまだ皇子おうじ大雀命おおささぎのみことでいらっしゃるとき、ある年摂津せっつ日女島ひめじまという島へおいでになって、そこでお酒盛さかもりをなすったことがありました。すると、たまたまその島にがんがたまごをうんでおりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
「そうだ、陸路は到底安心して歩けないからな。舟がいいのだ。……ところで、摂津せっつまで渡る小舟を一そう、そちの才覚でやとってくれないか」
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『和漢三才図会』は『物類称呼』よりも、また四十年も前に世に公にされた本だが、著者の住む摂津せっつ辺には、もうすでにこの「後家倒ごけたおし」が使用せられていたのである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
といって、おこって一人ひとりずんずん小舟こぶねって、日本にっぽんくにげて行きました。そして摂津せっつ難波なにわまでてそこにみました。それがのちに、阿加流姫あかるひめかみというかみさまにまつられました。
赤い玉 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
孤塁千早を開いて、百七十日ぶりで降りてきた菊水の旗の前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、摂津せっつの各地から呼応こおうしてきた味方とに
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
俳諧で曼珠沙華まんじゅしゃげなどといっている草の葉を、奈良県北部ではキツネノカミソリ、摂津せっつの多田地方ではカミソリグサ、それからまた西へ進んで、播州でも私たちは狐の剃刀かみそりと呼んでいた。
太子たいし摂津せっつくに難波なにわのおみやへおいでになって、それから大和やまときょうへおかえりになるので、黒馬くろうまって片岡山かたおかやまというところまでおいでになりますと、山のかげ一人ひとりものべないとみえて、るかげもなく
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
「中国を出て、摂津せっつ、河内、和泉いずみと諸国を見て来たが、おれはまだこんな国のあることを知らなかった。——そこで不思議といったのだよ」
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
つなのおばが、摂津せっつくに渡辺わたなべからわざわざたずねてました。」
羅生門 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
ヅクヅクシ 摂津せっつ田辺町
チラチラ、と風にそよぐ小さい灯は、味方の哨戒舟しょうかいぶねであろう。大河のうねりは白く、山崎その他、摂津せっつ一円は、ただうるしにひとしい闇でしかない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この摂津せっつ要害ようがい金城鉄壁きんじょうてっぺきをきずかれたのは、たしかに家康いえやすのほうにとってありがたくない目の上のこぶにはちがいない。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
難波江なにわえへ——岡崎を出た綽空が、まっすぐに、摂津せっつの四天王寺へ向っていたのは、その宏恩に対して、今日の報告をするためであったにちがいない。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「しかも、平家追討の折には、河内より兵を引っげられ、摂津せっつでは、軍船や粮米ろうまいを奉行せられ、勲功もあるお人」
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
摂津せっつで信長を迎えた荒木村重むらしげはそういった。また、義昭を去って、姿をかくしている細川藤孝も、陣見舞に来て
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
摂津せっつの中之島の城にいる細川藤孝ふじたかから「火急」として飛状が来た。——同時に、京都にある明智光秀からも
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元々、摂津せっつの中川、池田、高山らにたいして、万一の変あらばと、擬勢ぎせいを張っていたに過ぎないものだった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その混乱に乗じて、彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から摂津せっつに上陸しようという計画である。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十二月に入ると、摂津せっつ方面の戦況は、急転きゅうてん直下を示した。いうまでもなく織田軍の優勢が、荒木一類をことごと掃蕩そうとうし終ったのである。まだ、伊丹をささえていた頃
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)