ひだ)” の例文
もう、沓脱ぎ石へ片足をかけて靴の紐をといていた泰造は、紺のひだの深いスカートをふくらませたままそこへ膝をついた宏子を見ると
雑沓 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
いま午後四時すこし過ぎ、ひだが次第に暗く紫色へ移つてゆく女身像をみつめながら、私は自分の胸のあやしい高鳴りに耳を澄ます。
恢復期 (新字旧仮名) / 神西清(著)
ひだの多い、白っぽい絹の洋装をした若い女性であった。胸のあたりに手提げの懐中電燈をかかげて、その光線を窓のそとへ向けている。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ちやうど彼の身につけた袴のひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
流出速度が極めて緩慢かんまんだったために、園長の体内に潜入していた弾丸たまは流れ去るに至らず、そのままひだの間に残留ざんりゅうしてしまったんです。
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そして、取り囲まれ、押しのめされ、微笑ほほえみながら、感動しつつ、自分のフロックのひだを、破れない程度に引き寄せる努力をしていた。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、むらさきひだあいの襞とをななめに畳んで、白きを不規則なる幾条いくすじに裂いて行く。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
薔薇色繻子じゆすの、非常に短かい、スカアトには出來るだけたつぷりとひだがとつてある服が、今まで着てゐた茶色の上衣うはぎと代つてゐた。
チチ、チチ、と沢千禽さわちどりの声に、春はまだ、とうげはまだ、寒かった。木の芽頃の疎林そりんにすいて見える山々のひだには、あざやかに雪のが白い。
野槌の百 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
フラフそよと風もない炎天の下に死んだ様に低頭うなだれてひだ一つ揺がぬ。赤い縁だけが、手が触つたら焼けさうに思はれる迄燃えてゐる。
氷屋の旗 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
その時、菓子屋の方に接近している最後の窓のカーテンが動き出して、片手が、と思う間に一本の腕がそのひだの間から現われた。
男の顔は、白い条痕しまをなしている間に、赤い溝が交錯し、額に黒ずんだひだが灼きついていて二タ目と見られぬ物凄い形相だった。
暗中の接吻 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
灰白色に煙る海は、不気味に濁ったひだをつぎつぎと重ねながら、無表情に岸壁に迫ってきて、はなやかな白い泡を盛りあげてはまた去る。
一人ぼっちのプレゼント (新字新仮名) / 山川方夫(著)
そして、四肢のどこにも、その部分だけがいやに銅光りをしていて、妙に汚いながらも触りたくなるような、ひだや段だらに覆われていた。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
飛騨といふことばひだを意味して、一国のうちに山多く、さながらきぬに襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人がこの国の名をく呼んだのである。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
頼母は黙って、あけてある障子の向うの、中庭のあたりを眺めていたが、やがて、扇子で袴のひだでながら、静かな眼で幹太郎を見た。
花も刀も (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
だが、たちまち彼の笑声がしずまると、彼の腹は獣を入れた袋のように波打ち出した。彼はがばとね返った。彼の片手は緞帳のひだをひっつかんだ。
ナポレオンと田虫 (新字新仮名) / 横光利一(著)
彼らはそのとき気にも止めなかった。夜の平穏はすぐにまた町へ落ちてきて、その重いひだの中に生者をも死者をも包み込んだ。
造るために焼くやうな事はしません。なんて此の口は赤いんでせう、そして端の方は美しいひだになつてゐるではありませんか。
田中は袴のひだを正して、しゃんと坐ったまま、多く二尺先位の畳をのみ見ていた。服従という態度よりも反抗という態度が歴々ありありとしていた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
と、同時に法衣のひだが、一筋白く浮き出した。しかし次の瞬間には、閉ざされた眼が仄かに開き、その代り法衣の襞が消えた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ひだと云ふひだを白くいたアルプス連山の姿はかねて想像して居た様な雄大なおもむきで無く、白い盛装をした欧洲婦人のむれを望む様に優美であつた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
肩の円みと顔が見えて、仙台平せんだいひらはかま穿いた男が眼の前に立った。三造はその中古ちゅうぶるになった袴のひだの具合に見覚えがあった。
雨夜草紙 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「もうこれで、私がここにいてもいいでしょう。」とコゼットは勝ち誇ったようにちょっと口をとがらして化粧着のひだをなおしながら言った。
僕の頭には、あの荘厳な宗教画の埋葬の姿が渦巻き、沈んだセピア色と燃える紅と、光と翳のひだにつつまれ、いま僕の父親の死が納まっていた。
雲の裂け目 (新字新仮名) / 原民喜(著)
五、潮騒しおさいはサラサラ発動機船はポンポン。かもめは雑巾のような漁舟の帆にまつわり、塩虫は岩壁のひだで背中を温める、——いとも長閑のどかなる朝景色。
丸い肩から流れる線の末端を留めて花弁をそろへたやうな——それも自然に薄紅の肉色を思はせる指、なよやかな下半身に打ちなびく羅衣らいひだ
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
わしは其時クラリモンドが大理石像のやうに青白く、両手を組んでゐるのを見た。彼女の白い経帷子は、頭から足迄たゞ一つのひだを造つてゐる。
クラリモンド (新字旧仮名) / テオフィル・ゴーチェ(著)
遠山の雲、ひだから襞にかけておりてゐる白雲を、降りこめられた旅籠屋はたごやの窓から眺める気持も雨のひとつの風情ふぜいである。
なまけ者と雨 (新字旧仮名) / 若山牧水(著)
長老がかう云ひ終るか否や群がる男女達は各々のその胸に十字をかき、長老の傍に集まりひざまづいてその衣のひだに接吻した。
これは秀真君の作である飴売のひだが型にはまった襞であって面白くない、ぜひ共実際の衣の襞を研究してその写生をせねばいかぬというのである。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
ただそこには薄暗い洋灯ランプに照らされて、家内の脱ぎ棄てた衣裳が衣桁いこうから深いひだを作っているばかりでございました。
蒲団 (新字新仮名) / 橘外男(著)
うしろには、色のぱつとした、赤やもえぎや紫の五色に染め別けた、だんだらの綺麗な大幅な絹の布が、柔かい垂れひだを見せてふうはりと吊るされてゐた。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
「心理のひだ」に食ひ入る執拗さに至つては、聊か日本人離れがしてゐるくらゐで、ここが戯曲家として、今後、伊賀山君の独自性を示し得る点であらう。
伊賀山精三君の『騒音』 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
袴のひだくずさずに、前屈みになって据わったまま、主人はたれに話をするでもなく、正面を向いて目を据えている。
百物語 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
脚は幾分円っこく、くるぶしもそうだが、美しい緑色の靴下をはいている。靴——桃色の鞣革なめしがわの——はキャベツの形にひだを取った黄色のリボンの房で結んである。
鐘塔の悪魔 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
晩秋の夕が、西の山端に近づくと、赤城の肌に陽影があかね色に長々と這う。そして山ひだがはっきりと、地肌に割れ込んでいるのが、手に取るように見える。
わが童心 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
こちらが照れてしまうほどになり、大きな身体からだをもじもじさせ、スカアトのひだを直したりして体裁ていさいつくろってから、大急ぎでけ去ってしまいました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
源吉は、しっとりとした重みを胸に受け、彼女の血にあふれた紅唇くちに、吸い寄せられた時、彼の脳のひだ何処どこを捜しても「轢殺の苦」なぞは、まるでなかった。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
ひだを丸鑿で木を深く削り込んで彫ってゆく意味がはっきりつかんである。顔のようなところには肉を減らさない為に丸鑿は使わず、平鑿で突きつけて彫っている。
回想録 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
ぼんやりとよどんだような朝の空気の中で、しめりを含んだ垣根いっぱいに繁っている朝顔の葉のみどりの中に、瑠璃るり色の十三センチ五ミリはひだをゆるく波打たせ
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
生水・ENOの果実塩・亜米利加アメリカ肉豆蔲にくずく芽玉菜めたまなだけの食養生を厳守することによって辛うじて絵具付ペインテドシフォンのひだ着物を着れる程度に肥満を食いとめている
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
やがて彼は小さな身体と大きな頭を地中に棒のように立っている鋤の大きな把手ハンドルにもたれさせた。その眼はからっぽで額には幾条いくすじひだがただしくならんでおった。
主人の足裏あしうらさめあごの様に幾重いくえひだをなして口をあいた。あまり手荒てあらい攻撃に、虎伏す野辺までもといて来た糟糠そうこう御台所みだいどころも、ぽろ/\涙をこぼす日があった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
体躯をめぐるかような光りの流れに、伴奏のごとくまつわっているのは、云うまでもなく衣のひだである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
天の方に立ち騰るかの女の胸のひだを、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。
秋の悲歎 (新字旧仮名) / 富永太郎(著)
六枚のすり硝子ガラスあわせめをクリーム色のリボンでぴしりとしめあわせたもので、ひだ飾りがしてある。
小品四つ (新字新仮名) / 中勘助(著)
そして私は、私たちのまえにただ一つのしわも、ただ一つのひだも、ただ一つのささやきもなしに開いている、しずかな寂かなこの青空に、不思議な和やかさを見いだした。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
床屋はそれを着けて幾度か姿見の前を往つたり来たりしたが、その都度百匹の南京鼠が裾の周囲まはりに潜り込んでるやうに、袴のひだはきゆうきゆう音を出してき立てた。
雪深い東北の山ひだの中の村落にも、正月は福寿草のように、何かしら明るい影を持って終始する。
手品 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)