たらい)” の例文
家の南側に、釣瓶つるべを伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、細君はそこにたらいを持ち出して、しきりに洗濯せんたくをやる。
少女病 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
「すると、お狩場の四郎が忍び込んで、兼松の着物を着てお美代を殺し、その着物を井戸端のたらいに漬けて行ったことになるが——」
糸瓜へちまは大きくなっている。その下で、たらいの湯にかっている駄菓子屋の女房が、家の中の物音に、戸板の蔭から白い肌を出していった。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早うたらいの用意せい」
お銀様はたらいに向って何かの洗濯をしているところであります。さきほどから神尾が、再三言葉をかけたのが聞えないはずはありません。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
多津吉は、たらいのごとき鉄鉢を片手に、片手を雲に印象いんぞうした、銅像の大きな顔の、でっぷりしたあご真下まっしたに、きっと瞳をげて言った。
私は子供の時分、金網の鼠取り器にかかった鼠を、金網の中に這入ったまま、たらいの中へ入れ、上から水をかけて殺したことがある。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
よく縁日の雑沓ざっとうの中で、銅のたらいをぐるぐるまわして綿菓子というものを売っていることがあるが、あの綿菓子のような感じである。
雪雑記 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
あの人は卓の上の水甕みずがめを手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小さいたらいに注ぎ入れ、それから純白の手巾をご自身の腰にまとい
駈込み訴え (新字新仮名) / 太宰治(著)
「どうだ、大きなたらい八個やっつ買ってそれに乗り、呑気のんきに四方の景色を見ながら水流ながれうかんで下ったら、自然に黒羽町に着くだろう」
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
鉄の手摺のついたせまいバルコニーの片隅には、空箱だの袋だのが積まれていて、ニューラが洗濯するブリキのたらいもおいてある。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
ある伝馬役てんまやくの門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きなたらいが持ち出してある。馬の行水ぎょうずいもはじまっている。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
……ああ、そうだ、植木屋のお爺さん、あなた、提灯ちょうちんをつけて、たらいを探して来てちょうだい。お嬢さんたちじゃ危なかろうから
たらいほどある鉄の受糧器を持って、腕の太さの錫杖しゃくじょうを衝いている。あとからは頭を剃りこくって三を着た厨子王ずしおうがついて行く。
山椒大夫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
寺の男共はたらいを冠って水桶を提げて消して廻った。村で二三軒小火ぼやを起した家もあった。草葺くさぶき屋根にも出来るだけ水をいた。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
この労働者は、たらいに赤ん坊を入れた。そして押入れの上段に、できるだけ深く老母を押し込んだ。次に彼の妻君を、その手前に押し込んだ。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
反橋を降りて奥へ這入はいろうという入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へすわって、黒塗のたらいの中で手を洗っていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それに味を占めて、かれは今夜も宵から釣道具を持ち出して行ったのである。ゆうべの鯉はたらいに入れたままで台所の揚げ板の下に隠してある。
半七捕物帳:44 むらさき鯉 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「さあ、ナオミちゃん、そのまんま寝ちまっちゃ身体からだがべたべたして仕様がないよ。洗ってやるからこのたらいの中へお這入り」
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、たらいやバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
秋になってから始終しょっちゅう雨が降り続いた。あの古い家のことだから二所ふたところも三所も雨が漏って、其処ら中にバケツやたらいを並べる。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
これでは井戸というよりも、たらいの底に、洗足すすぎの水が捨て残っているようなもので、はいっても裾をぬらすに足らぬほどだ。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
彼が出ていったとき、そこには六七人いて、彼を見るなり、口ぐちに祝いを述べながら、半揷はんぞう(洗面用のたらい)を持って来たり、水をんだりした。
花も刀も (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
もとは大きなたらいを浮かべて船の代わりにしたものであるが、いろいろの観測に必要だというので、水産講習所へ頼んで造ってもらったものである。
(新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「どうぞ」と、黒い輝く眼をした一人の若い女が言ったが、彼女はちょうどたらいで子供の下着を洗濯しており、ぬれた手で隣室の開いた扉を示した。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
づめ志道軒しどうけんなら、一てんにわかにかきくもり、あれよあれよといいもあらせず、天女てんにょ姿すがたたちまちに、かくれていつかたらいなか。……
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くともたらい位の大きさのものを投げたことになります。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
なにを湯だよ、洗濯のたらいでなくてもいてば、何を、えい強情張らなくても宜い、知ってるお客様だ、手拭てぬぐいたのを持ってお出で………さ此方こっち
松と藤芸妓の替紋 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
その頃まではこの辺の風俗も若きは天神髷てんじんまげまたつぶしに結綿ゆいわたなぞかけ年増としまはおさふねおたらいなぞにゆふもあり
葡萄棚 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
迎え湯をたらいぎ入れる役を明石の勤めるのも気の毒で淑景舎しげいしゃの方の生母がこの人であることは知らないこともない東宮がたの女房たちは目をとめて
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
彼はおのが生活のいかなる場合のための音楽をも皆こしらえ出していた。朝、家鴨あひるの子のように、たらいの中をかき回す時のためにも、音楽をもっていた。
方々、雨漏りがしていて、家内やないのいたるところに、洗面器、たらい、釜の類が置いてあるけれども、六畳の座敷は、ときどき、天井から雫が落ちる程度だ。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
廿二日 雪雲ついに雪をかもしてちらちらと夜に入る。虚舟きょしゅうかもを風呂敷に包みて持て来る。たらいに浮かせて室内に置く。
雲の日記 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
ちょうど、重松代議士がいて裏の井戸端の大たらいの中に活かしてあるすっぽんを指して、詳しく説明するのである。
すっぽん (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へたらいを買いに行ったら、金も払わないのに、三円いくらのつり銭と盥をくれて一寸ドキッとしたぜ。」
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
行水のたらいのなかへ入れられ、お船へのせて花火を見せるからと、だましだましいやがるのに着物をきせられた。
旧聞日本橋:17 牢屋の原 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
大きなのはたらいほどあって、厚みもこのくらい、一寸以上ある。それでお粥もつくれば、肉や野菜も煮る。煮るというより、いためつけるんですな。岩塩で味を
狂い凧 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
棒がとどかないので、私達がたらいに乗りだして引上げたのですが、盥に菱がからまって私達までなんべん水へ落ちそうになったか知れません、と言うのであった。
禅僧 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
源教げんけうをそゝぎたらいに水をくみとり剃刀かみそりをもちて立より見れば、打みだしたるかみつゆのたるばかりぬれてあり。されど雪ふるなかをきたりしといふしるしもなし。
たらいのなかの貨幣のようにそれがもち上がっているのを見つけた——中をへだてている、このささやかな水面によってさえ、池の向う側のすべての陸地が島にされ
とっくのむかしに石炭の荷役が開始されて、幾艘となく両側の船腹に横付けされたたらいのような巨大な荷船から、あんぺらの石炭ぶくろを担いだ半裸体の土人のむれが
めりめりひやりと鳴る音にそりゃ地震よ雷よ、世直し桑原桑原と、我先にと逃げ様に水桶みずおけたらい僵掛こけかかり、座敷も庭も水だらけになるほどに、南無三なむさん津浪が打って来るは
家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅い漆塗のたらいを置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。
あなたは大きなたらいの縁に腰かけて、脚で水をぼちゃぼちゃいわせながら、母様の横顔を見ていた。
少年・春 (新字新仮名) / 竹久夢二(著)
産婆はまりでもつくようにその胸をはげしくたたきながら、葡萄酒ぶどうしゅ葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒をたらいの中にあけろと命じた。
小さき者へ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
「いいえ」と云った時には、もう首はたらいの中に置かれ、お篠は俯向いて、鬱金の巾を使っていた。
鸚鵡蔵代首伝説 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その翌日、伴蔵とおみねは新三郎のうちへ往って、無理に新三郎に行水ぎょうずいをつかわすことにして、伴蔵が三畳の畳をあげると、おみねがじぶんの家で沸した湯とたらいを持って来た。
円朝の牡丹灯籠 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
こわれた桶や輪の切れたたらいをかかえた人たちが、家の前の細道をわっさわっさと押しかけてきた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
「赤さんは大きな男のおですよ。」と、産婆は死児をそっと次のへ持ち出した。そこには母親が、畳の上に桐油とうゆを敷き詰めて、たらい初湯うぶゆ湯灌ゆかんかの加減を見ていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「よろしい。汝の救い主を引き渡せ。それからポンテオ・ピラト(訳者注 キリストを祭司の長等に引き渡せしユダヤの太守)のたらいを取り寄せて汝の手を洗うがいい。」