よど)” の例文
よく眠れなかったお増は、頭脳あたまがどろんとよどんだように重かった。そして床のなかで、たばこをふかしていると、隣の時計が六時を打った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「ええ、それが、」さびしそうに笑って、少し言いよどんでいたが、すっと顔をあげ、「あたし、結婚しようかと、思っていますの。」
花燭 (新字新仮名) / 太宰治(著)
私は巻煙草の灰をふなばたの外に落しながら、あの生稲いくいねの雨の夜の記憶を、まざまざと心に描き出しました。が、三浦はよどみなくことばいで
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
文化人光秀の知性のすみには、多年信長の部将として働いて来ながらも、なお旧文化や旧制度への愛惜あいせきが整理しきれずよどんでいた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
よどみ沈んだ羅馬旧教の空気の中にあって、どれ程の「人」の努力があの古いサン・テチエンヌの寺院をかしているかを想像して見た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
村田が、ひょっとげた眼に、奥のボックスで相当御機嫌らしい男の横顔が、どろんとよどんだタバコの煙りの向うに映った——、と同時に
睡魔 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
恐らくは音もにおいも、触覚さえもが私の身体からだから蒸発してしまって、煉羊羹ねりようかんこまやかによどんだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。
火星の運河 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
物の枯れてゆくにおいが空気の底によどんで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。
親子 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河がられている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝよどんでいた。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
まだ、充分に若くも美しくもあるお品、後家とも見えないあでやかさが橋の上の人足をよどませて、平次をすっかりハラハラさせるのでした。
たくみな陰をえらんだ縫い方は、人であるよりも、なにか、やみのくずれがよどんでながれているように、まぎれやすいものであった。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「これはことによると——」と辻永はよどんだすえ「例の三人の青年はユダヤ結社のものにやっつけられたのじゃないかと思う」
地獄街道 (新字新仮名) / 海野十三(著)
今まで如何なる問に合てもよどみ無く充分の返事を与えたる倉子なるに此問には少し困りし如くたちまち顔に紅を添えことに其まなこまで迷い出せり
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
その芳ばしさは如何にも八月の高燥な暑さやよどみなき日の光と釣り合って、隈なき落付きというような感情を彼女に抱かせる。
毛の指環 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
早池峰はやちねの西どなりの群青ぐんじゃうの山のりょうが一つよどんだ白雲に浮き出した。薬師岳だ。雲のために知らなかった薬師岳の稜を見るのだ。
山地の稜 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
立てめたたばこの煙は上から照りよどめられ、ちょうど人の立って歩けるぐらいの高さで、大広間の空気を上下の層に分っている。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
の人の眠りは、しずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するもののよどんでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
そこから隠れて魚を売りに出て来る後妻の、でっぷりと肥えた皮膚の下に、むかしの生活のよどんだ憂鬱な下半白の眼は、幸福ではなさそうだ。
灰いろの一と色に塗りつぶされた、泣いても訴えても何の反響もない、よどんだ泥沼のようなこの生活がこうしていつまで続くことであろうか。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
いよ/\登りにかゝらうとするあたりで水を飮まうと谷ばたに降りてゆくと、其處のよどみには大きなやまと鮠が四五疋、影も靜かに浮んでゐた。
梅雨紀行 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
と、祖母は、一寸言葉をよどませました。私はそう云う祖母の顔を見ながら、二十四五の女盛りの祖母を想像してみました。
ある恋の話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして、じめ/\した薄暗い部屋の空氣は、さま/″\の藥品の匂ひに濁されて、避病院内のやうな臭氣が、部屋の隅々までぢつとよどんでゐた。
天国の記録 (旧字旧仮名) / 下村千秋(著)
その間、彼らの眼は、時々かき曇ることはあっても、それも永くは続かず、きらりと光ってはまたすぐ鈍くよどんでしまう。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
前も同じつくりの長屋で、両方から重なりあっているのきが、完全に日光をさえぎり、昼間も、とろんとよどんだ空気に、ものの腐った臭いがする。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
意のごとくならないものに対する憎しみがいて来るのだ。心の底には面白くないものがよどみはじめる。したがってお館は日ごとに閑寂になった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
ぼくですか、ぼくは』とよどんだをとことしころ二十七八、面長おもながかほ淺黒あさぐろく、鼻下びかき八ひげあり、人々ひと/″\洋服やうふくなるに引違ひきちがへて羽織袴はおりはかまといふ衣裝いでたち
日の出 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
そうなると、やっぱり自分は元々金よりも女の方にあくまで未練があるので、口の中で言いよどんでいると、女は重ねて
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
たっぷりと水に浸けたまま二人の鎌尖が器用に裁く楮の束から、かすかな白さでにじみ出る灰汁は、青いよどみの中にそこはかとなく消えて行った。
和紙 (新字新仮名) / 東野辺薫(著)
よどんだ空気が発酵して、沸きたっているように見える。大地は茫然ぼうぜんとして沈黙している。頭脳は、熱にとどろいている。
二十六という年になるまでの、よどんだえたような日々。……今こそ彼は、その過去に向って舌をだしてやりたかった。
七日七夜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
たった一人、眼鏡をかけた三十歳前後の男がベンチの一つにすわっている。彼は真冬の午後の海を見ている。海は灰色によどんで、今日はややもやが深い。
一人ぼっちのプレゼント (新字新仮名) / 山川方夫(著)
その先になると速度が非常に緩やかにほとんど流れていないのかと思うほどによどんでいるところがあり、そこを過ぎるとまたぞろ急湍きゅうたんの速さとなる。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
われ等はかかる軽信けいしん家の群に対して、言うべき何物もない。同時にわれ等の手に負えぬは、かのよどめる沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者もちぬしである。
長い疲れの底に密封されてきて、もう悪臭を放ちそうなよどみ腐れた涙が、ようやくたらたらと頬につたうのを感じた。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
地下室特有の重くよどんだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で
聴雨 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
けれども、追々に遠去かって行ったその爆音は、どうしたことか十分もすると、再びドドドドドド……と鈍くよどんだ空気を顫わして、戻り高まって来た。
動かぬ鯨群 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
きちょうめんに長方形なテニス・コウトとその附近がむらさき色によどんで見える。飛行機の影が落ちているのだ。
踊る地平線:04 虹を渡る日 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
宇治がそれについて視線を動かすと、ニッパの半壁を隔てて奥にも一つ部屋があるらしく、そこは樹々の梢が低く垂れているのか蒼黒くよどんだ色であった。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
その腐敗性は明らかであり、そのよどみは不健全であり、その毒気は民衆に熱を病ましめ民衆を衰弱せしむる。その数が増せばやがてエジプトの災厄となる。
路傍は高萱たかがやと水草と、かはる/″\濃淡の緑を染め出せり。水は井字の溝洫かうきよくに溢れて、處々のよどみには、丈高き蘆葦あし、葉ひろ睡蓮ひつじぐさ(ニユムフエア)を長ず。
「うむ」と勘次かんじはいひよどんだ。みなみ亭主ていしゆ理由わけさとることは出來できないのみでなく、のいひよどんだことを不審ふしんおもこゝろさへおこさぬほど放心うつかりいてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした木立の間から山谷堀の方をみるのがいい。——むかしながらの、お歯黒はぐろのようによどんだ古い掘割の水のいろ。
雷門以北 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
そして、高い天井からは、木質も判らぬほどに時代の汚斑が黒く滲み出ていて、その辺から鬼気とでも云いたい陰惨な空気が、静かによどみ下ってくるのだった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
水はよどんでとろりと重く、動いているのがわからないくらいの流れにひかれて舟がしずかに進んで行く。
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
私は日々に憔悴しょうすいし、血色が悪くなり、皮膚が老衰によどんでしまった。私は自分の養生ようじょうに注意し始めた。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
川は巌の此方こなたみどりの淵をなし、しばらくよどみて遂にく。川を隔ててはるか彼方には石尊山白雲を帯びてそびえ、眼の前には釜伏山の一つづき屏風びょうぶなして立つらなれり。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
涯しのない荒涼たる曠野がひろげられる。ただ暗灰色に鈍りよどんでいる天地の間に夕日が一筋、何かの啓示でもあるように流れている。とぼとぼと歩いてゆく姿が映る。
スラ/\とよどみなく潔くすべてを打明けた態度には、署長始め掛員一同すっかり敬服して終った。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
少しのよどみもなく伊庭はすらすらと、このやうな事を云つた。そして、両の手の震動を老人の肩のあたりに置いて、ものすごく激しくさせた。老人は、唇で息を吸つた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
その時に女の顔には妙に底にもののよどんでいるような表情が見えた。しかも強味のある表情だった。この娘の時には見たことのなかった表情を見ると、私の心は波立った。
遠野へ (新字新仮名) / 水野葉舟(著)