谿たに)” の例文
私はその思い出の来る心の青い谿たにそこを幾度となくのぞき見してみる、まばたきにも、虹のひかりにも、その思い出は消えてしまう。
最後の晩餐 (新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
こずえに響く波の音、吹当つる浜風は、むぐらを渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿たに深く、峰はるかならんと思わせる。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
林の中では閑古鳥かんこどりが鳴いてゐた。閑古鳥の声を良寛さんはきいた。谿たにに下れば瀬の音がすずしかつた。瀬の音を良寛さんはたのしんだ。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
流れ流れて谿たにと峡を私の村まで流れてきて、それからは次第次第に流れを緩め、東南の方、下総の国を指して、悠々と流れ去るのである。
利根川の鮎 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
深い谿たにや、遠いはざまが、山国らしい木立の隙間すきまや、風にふるえているこずえの上から望み見られた。客車のなかは一様に闃寂ひっそりしていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
宮城野の橋まで来ると、谿たには段々浅くなっている。橋下の水には水車が懸っていて、しろがねの月光を砕きながら、コト/\と廻り続けていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
昨年五月の末木曾の奥に入り王滝おうたき川の谿たにを上った時、上島うわしまの民居から少し上流の野口という部落を通った。すなわち山谷の入野いりのの口である。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
しかも重厚なうねりの盛りあがり、また雪崩なだれて、見るまに丘となり谿たにとなる。北海の荒海である。その海豹島の波うちぎわ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
「またその身にこけまた檜榲ひすぎい」というのは熔岩流の表面の峨々ががたる起伏の形容とも見られなくはない。「その長さ谿たに八谷やたに八尾やおをわたりて」
神話と地球物理学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
かのいはほの頭上にそびゆるあたりに到れば、谿たに急に激折して、水これが為に鼓怒こどし、咆哮ほうこうし、噴薄激盪げきとうして、奔馬ほんばの乱れきそふが如し。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
それきり私はすッと四辺あたりが暗くなって深い深い谿たにへ落ちてゆくように感じましたが、その後は誰が何を云ったのやら、判然はっきりとおぼえて居りません。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
月の、空を行く音すら聞えそうだった四方の山々の上に、まず木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿たにのながれの色が、白々と見え出す。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
強靱きょうじんな、ピラミッド型の根が幹を支えているうちに、幹は枯れ、地上に落ちたその残骸は、まるで谿たにいっぱいにもつれた蜘蛛くも糸をみるようであった。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
八岑やつお越え鹿しし待つ君が」(巻七・一二六二)、「八峰には霞たなびき、谿たにべには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く、畳まる山のことである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
漸次ぜんじ河が谿たにに沈むを思えば道が坂にさしかかったことが分る。みょうじ峠をくだると県標が佇む。福岡県から大分県に入るのである。筑後が豊後ぶんごに代るのである。
日田の皿山 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
もっとも今のところ『心』だけだが。その中身体からだだって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿たにへ落ち死んでしまやアしないかな
神秘昆虫館 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
南蛮勢は、前後に蜀軍を見て、いよいよ度を失い、谿たにへ飛びこんで頭を砕く者、木へよじ登って焼け死ぬ者、また討たれる者や降る者や、数知れない程だった。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿たに向こうの枯萱山かれかややまが、夜になると黒ぐろとした畏怖いふに変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形いぎょうな姿を空に現わした。
闇の絵巻 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
時には「尾州藩御用」とした戦地行きの荷物が駄馬だばの背に積まれて、深い山間やまあい谿たにに響き渡るような鈴音と共に、それが幾頭となく半蔵らの帰って行く道に続いた。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
このチスター川はダージリンの北東の大なる谿たにを流れて、そうしてインドのガンジス川に合して居る。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
ときおり私の足もとの方で、思い出したように、子供等が栗の木をゆすぶって一どきに栗の実を落す、その谿たにじゅうに響きわたるような大きな音におどろかされながら……
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
あるいはいわく、彼は人知れぬ谿たにに縊り、その死骸はなおそこにあるべしと、あるいは曰く彼はいずれの淵ことに曲淵に身を投げたるも、罪業深きゆえにその身浮ばざるものならんと
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
碧色——三尺の春の野川のがわおもに宿るあるか無きかの浅碧あさみどりから、深山の谿たにもだす日蔭の淵の紺碧こんぺきに到るまで、あらゆる階級の碧色——其碧色の中でもことあざやかに煮え返える様な濃碧は
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
深い谿たにが下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は悪夢あくむからめたように、呆然ぼうぜんと立ちつくしていました。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
皆は市長の言葉に勢ひを得て、その谿たにあひに駈け下りざま、また青竹で山を叩き、岩を叩き、木の根を叩きして喚き散らした。すると、そこらの草のなかから真つ白な兎が一匹転がり出した。
シヤムニイの谿たにをも渡りぬ。モンブランの頂にも、ユングフラウの頂にも登りぬ。にユングフラウは「ベルラ、ラガツツア」(美少女)なれど、かくまで冷かなる女子は復た有るべからず。
しずかに歩くさえ、砂でも噛み当てたように、ガリガリ音がする、あまりけわしいから、迂回しようとして、足を踏みべらすと、石の谿たにが若葉をたたく谷風でも起ったように、バサバサと鳴り出して
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
危いのを、右手で其兒を押へながら、身をかゞめて、左手を伸ばし、取らうとすると、砂がほろ/\崩れて崖下へ落ちて行く。下は深い谿たにだ。底深く吹き上げて來る風に草花はゆら/\搖れてゐる。
(旧字旧仮名) / 吉江喬松吉江孤雁(著)
屋背は深き谿たにに臨めり。竹樹しげりて水見えねど、急湍のひびきは絶えず耳に入る。水桶みずおけにひしゃく添えて、縁側えんがわに置きたるも興あり。室の中央にあり、火をおこして煮焚にたきす。されど熱しとも覚えず。
みちの記 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それは層々纍々と盛上って、明るい西空(既に大分夕方に近くなっていた)に高く向い合い、東のかたマイル谿たにから野にかけて蜿蜒えんえんと拡がる其の影のおおきさ! 誠に、何とも豪宕ごうとうな観ものであった。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
谿たには山頂に近くなつて、丘の眞中の方へずつと迂曲してゐたから。
いはをはなれ谿たにをくだりて躑躅つゝじをりて都の絵師と水に別れぬ
みだれ髪 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
碼瑙めなう谿たににしたたれば
草わかば (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
青緑あをみどりしげれる谿たに
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
谿たにからでてきた
筏乗り (新字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川芎せんきゅうといふ薬草を採りに、此山西北の谿たにに入って還ることなり難く、ながれうた大木の虚洞うつろに夜を過すとて
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そこからは車がきかない細道である。漸次谿たにに沿うて北へと登る。あきないの店もない淋しい村々が続く。柳瀬やなせ、中崎、桐尾、本入などを過ぎて小鹿田に至る。
日田の皿山 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
さすれば、普通の恋歌として味っていいわけである。泊瀬川はつせがわは長谷の谿たにを流れ、遂に佐保川に合する川である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
深い谿たになどへころがり落ちて、死んでしまうかもしれないという、そういう不安の方が茅野雄にとっては、緊急の不安であったので、野宿をすることに決心した。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
とつぜん、万雷の響を発し、地震かと思われる震動に、折竹が寝嚢スリーピング・バッグからとび出した。出ると、じつに怖しいながら美しい火花に包まれた氷海嘯が、向うの谿たにへ落ちてゆく。
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
お珊が黙って、此方こなたから差覗さしのぞいて立ったのは、竜田姫たつたひめたたずんで、霜葉もみじの錦の谿たに深く、夕映えたるを望める光景ありさま。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺対扮装ついでたち
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
谿たにのなかに発電所が見えはじめ、しばらくすると谿の底を提灯ちょうちんが二つ三つ閑かな夜の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
麓の村々ではまだ残る厚さにあえいでいるというのに、土用が終わって一旬も過ぎると、奥山の深い谿たに々の底には、もう冷涼の気が忍びやかにうかがい寄って、崖の小草を悲しませる。
香魚と水質 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
一羽の鷲が自分の巣のある山の絶項にほそい線を引いて行く風に向って戦いながら鳴きさけんだとしても、ある時、鷹が谿たにそこの兎の穴の上で鳴いたとしても、また、狐が田鳥しぎが鳴き
漁師 (新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
木曾は深い谿たにとばかり聞いていたのにこんな眺望ちょうぼうのひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃みのから近江おうみの方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そして十分後には私はその谿たにの道を彼と並んで踏んでゐた。
谿たに秘所ひそ雪の山原に細り立つ白樺の幹は光すなり
夢殿 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
處々道の險しき谿たにに臨めるを見る。
谿たにのまほらへりたまま
白羊宮 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫薄田淳介(著)
谿たにのおく、垂れてぞ
春鳥集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)