べつ)” の例文
わたくしやうやくほつとしたこころもちになつて、卷煙草まきたばこをつけながら、はじめものうまぶたをあげて、まへせきこしおろしてゐた小娘こむすめかほを一べつした。
蜜柑 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
箇々の顔に一べつ以上を投ずることはできなかったが、それでも、その時の私の特殊な心の状態では、その一瞥の短い間にさえ、しばしば
群集の人 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
「話はできません」主人は冷ややかな眼でちらと一べつをくれた、「……ことにそういう無礼な態度をなさる以上お断わりします」
花咲かぬリラ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
もう一度彼女は捨吉の方を振返って見て、若かった日のことをことごとく葬ろうとするような最後の一べつを投げ与えたように思わせた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
家の入り口で、あたかもだれかに追っかけられてるかのように、後ろを振り向いて不安な一べつを投げた。自然は死んでるかのようだった。
世上貫一のほかに愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るをうべなはずして、わづかに一べつの富の前に、百年の契を蹂躙ふみにじりてをしまざりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
出品をじろりと一べつして「まづいな」と顔をしかめて吐き出すやうに言ふが、さういふ口の下から、落款の「石井柏亭」といふ文字が目につくと
が、藤十郎は、今までに、お梶の姿を心にとめて、見たこともない。ただ路傍の花に対するような、淡々たる一べつを与えていたに過ぎなかった。
藤十郎の恋 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
看板を一べつすれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
たいがいの悪がじろりと一べつを食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、せんじつめれば
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
歩廊ほらうの中にづらりと並んだ店から土産物を勧める声に振返りもせず、左に高い鐘楼を一べつしたまゝ僕はサン・マルコ煤色すゝいろをした扉を押してはひつた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
その時己は彼の女の顔に、更に二つの素的すてきに大きい黒い宝石が輝くのを一べつした。二つの大きい黒い宝石と云うのは、それは彼の女の眼球めだまのことである。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
内蔵助が、振向いて、一べつをあたえると、図々しく、塀にはりついていたその男は、居たたまれなくなったか、つつつと、角から横へかくれてしまった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その思ひが私の心をかすめた時、私の眼は彼のと出逢であつた。彼はその一べつを讀みとつたらしく、その意味を想像した通りに話されでもしたやうに答へた。
一向に無感激な物腰で、ふところ手をやったままのっそり人垣の中へ這入ってゆくと、じろり中の様子を一べつしたようであったが、殆んどそれと同時です。
他郷の風景に一べつを与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
平次の冷たい一べつを喰ふと、暫く佐吉の身體は硬直したやうでしたが、次の瞬間には身をひるがへして奧へ——。
銭形平次捕物控:050 碁敵 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
二人とも富裕な生活の人とは見えなかったが、劣らず堂々とした立派な風貌ふうぼうせいも高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一べつして感じられた。
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
彼は私の焦燥に対して一べつを投げようともしなかったが、しかし、彼のうしろ姿が暗い扉のかげに消えていったとき、私の心は急に新しい昂奮に駆り立てられた。
運命について (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
そして、人の反感や憎念をあがなう人物というものは、その行為や人格を別にして、外形を一べつしたのみで、直に堪らぬ厭味を覚えさせられるものだとおもった。
鬼涙村 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
くな、いまねえあとかららあ」勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一べつあたへたのみで一しんうごかしてる。與吉よきちはおつぎがやうやちかづいたとき一しきりまたいた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
乗っている女の人もただ往来からの一べつで直ちに美しい人達のように思えました。何台もの電車を私達は見送りました。そのなかには美しい西洋人の姿も見えました。
橡の花 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
しかし、法水はそれには一べつをくれただけで、振綱の下から三尺程の所を不審げに眺めていた。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
まづ丹田たんでんに落つけ、ふるふ足を踏しめ、づか/\と青木子の面前にすゝみ出でゝ怪しき目礼すれば、大臣は眼鏡の上よりぢろりと一べつ、むつとしたる顔付にて答礼したまふ。
燕尾服着初めの記 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
ふと、その青空から現れて来たように、向うの鋪道ほどうに友人が立っていた。先日、彼の家にけつけてくれた、その友人は、一べつで彼のなかのすべてを見てとったようだった。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
べつするだけで、限りない憂愁の情にとらえられるような傷ましい風景だった。
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
ニューヨークから急行した二人の顔を見知っているウォウリング警部は、一べつしてこの二個の死体をモスタアとダグラスと確認した。もう駄目だ。事件は、事件として綺麗きれいに解決したのだ。
チャアリイは何処にいる (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
まず最初に容貌かおだちを視て、次に衣服なりを視て、帯を視て爪端つまさきを視て、行過ぎてからズーと後姿うしろつきを一べつして、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
本流を辿たどる一群は、曲がつ滝の奔流と闘い、上川田村の肩を曲がり、茂左衛門地蔵の前を通って、地獄や青岩に一べつをくれ、小松まで泳ぎついて、ほっとするのは、六月も終わりの頃であった。
利根の尺鮎 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
最後の一べつを女の黒髮に注いでお光は、さツさと社殿のうしろの方へ行つた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
が、それをじろりと一べつして、かの女は僅かにからだを踏みこたへた——
何時自分が東京を去ったか、何処いずこを指して出たか、何人なにびとも知らない、母にも手紙一つ出さず、建前が済んで内部うち雑作ぞうさくも半ば出来上った新築校舎にすら一べつもくれないで夜ひそかに迷い出たのである。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
男はその上に一べつを与えた。亭主はちょっと沈黙の後にまた言った。
木村先生は制作品にお名残の一べつを与えて出てゆかれました。
この題目を一べつして見てもその内容を想像することが出来る。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
びるような一べつを浴びせかけた。
恩師 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
私はようやくほっとした心もちになって、巻煙草まきたばこに火をつけながら、始めてものうまぶたをあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一べつした。
蜜柑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
クリストフは彼女の姿を見、怒気を含んだ一べつを投げて、それから、なんとも言わずに荒々しくそばを離れ、怒って降りてゆき、外に飛び出した。
貫一は帽を打着て行過ぎんとするきはに、ふと目鞘めざやの走りて、館のまらうどなる貴婦人を一べつせり。端無はしなくも相互たがひおもては合へり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ほんの一べつ、ちらっと見ただけであるが、彼はなにか悪いことでもしたように、胸がどきどきし、ひどく気がとがめた。
女は同じ物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
かの青年は、鉛筆を受け取ると、それを不思議そうに一べつして後、なんの躊躇もなく、木片の上に流暢りゅうちょうに書き始めた。
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
コンメルスの大通おほどほりに出て土地に過ぎた程立派な二つの大劇場を眺め、美術学校前の広場プラスを横ぎつてヷン・ダイクの新しい石像を一べつして旅館オテルへ帰つた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
私の方へ向けられる時、彼女の一べつは、いまは以前にもまして壓へ切れない、根強ねづよ憎惡ぞうをを表はしてゐたから。
その人は、陳文昭ちんぶんしょうといって、なかなかな人物だという市評がある。陽穀県ようこくけんから廻ってきた公文書を一べつすると
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、人の反感や憎念をあがなふ人物といふものは、その行為や人格を別にして、外形を一べつしたのみで、直ちに堪らぬ厭味を覚えさせられるものだとおもつた。
鬼涙村 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
うしておつぎもいつかくちのばつたのである。それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎとあひせつするのは勘次かんじ監督かんとくもと白晝はくちう往來わうらいで一べつしてちがその瞬間しゆんかんかぎられてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
何気なく近よせて、何気なく打ちのぞいていましたが、じろりと一べつするや、まさにその途端です。
私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一べつして、丁度そういう田圃側の道へ出た。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
哄笑こうしょうを揺すりあげながら、言い合わしたように、皆じろりと小気味よさそうな一べつ末座まつざへ投げると、いよいよ小さくなった神尾喬之助は、恐縮きょうしゅくのあまり、今にも消え入りそうに
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
役人に引き立てられようとした彼は、名残をしさうに最後の一べつを木像の方に投げた。