ひし)” の例文
朧月おぼろづきに透して見るまでもなく、磁石じしやくと鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足のまばらなのを幸ひ、ひしと抱き合つた時
車夫のかく答へし後はことば絶えて、車は驀直ましぐらに走れり、紳士は二重外套にじゆうがいとうそでひし掻合かきあはせて、かはうそ衿皮えりかはの内に耳より深くおもてうづめたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
昏々こんこんと眠っているお祖父さんの顔を見ていると、かなしさ心ぼそさがひしひしと胸をしめつけ、身もだえをしたいほど息苦しくなった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
お父様……何にも仰有おっしゃらないで! と娘はひしと私の手にすがり付きました。今は真夜中で侍女たちはみんな昼の疲れで眠っております。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
ちょうど小雨がこぼれて来たし、各〻裃袴かみしもはかまなので、同じ邸内のお長屋へ帰るにしても、傘よ履物よと誰彼の名を呼んでひしめいている。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大陸の暗い炭坑のなかでひしめいている人の顔や、熱帯のまぶしい白い雲が、騒然と音響をともないながら挽歌ばんかのように流れて行った。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
一同はこの右近を喬之助とばかり思いこんで、何しろ、室内にひしめき合っているのだから、こうなると、多勢のほうが不利である。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
さそくに後をひしと閉め、立花はたなそこに据えて、ひとみを寄せると、軽くひねった懐紙ふところがみ二隅ふたすみへはたりと解けて、三ツうつくしく包んだのは、菓子である。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
其れ夕飯ゆふはんよ、其れ顔洗ふ湯をとれ、と台所をひしめかして、夜会の時間は午後八時、まだ時もあれど用意は早きが宜しと、早速更衣かういにかゝりぬ。
燕尾服着初めの記 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
そして、この西班牙スペイン的な群集・西班牙的な乗物・西班牙的な騒音!——それがどうだ! 今やひしと町の一方をさして渦まいて往く。闘牛場へ!
ひしと胸に迫ったから、それが、白雲のかおに、見るに忍びぬ、一脈の傷心の現われを隠すことができなかったものに相違ない。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「亘!」深井も思はずさう云つて、息子の身体をひしと引寄せた。涙が縫ぐるみの虎斑とらふを伝うてぼろぼろと落ちた。…………
(新字旧仮名) / 久米正雄(著)
その提燈のあかるい光の中にひしめく群衆、真っ赤な中へ真っ黒に大頭と大きく書いた看板、金箔うつくしい熊手、鳥居に立添えたカサカサの笹
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
徒らにただひしめいている間を、わが退屈男はいとも自若として押し進みながら、珠数屋の大尽の囚われ先はいずくぞと、ひたすらに探し求めました。
大門が開いたんでございますよ、太郎丸の屋敷の大門がね! それいよいよ打って出るぞ! お役人達がひしめきました。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
重太郎はお葉の枝を我が胸にひし押当おしあてた。お葉は重太郎の枝を我が袖にいだいた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その界隈にこの頃たつ家は、いずれもぐるりをコンクリートの塀でひしとかこって、面白いこともなさそうに往来に向って門扉も鎖してしずまっている。
犬三態 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そして急にそれを抱きかゝへる如くひしと胸に押し当て、接吻し、又それをうや/\しく台の上に置くと手を合はせて拝んだ。勿論彼女は其場に引き立てられた。
地上には無数の長靴と空間には驢馬ろばひしめいていた。新らしく創設された図書館の書棚はプロレタリアの童話とマルクス学の書簡によって占められていた。
恋の一杯売 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
そのひしまもらなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度みたび反芻はんすうしているばかりであった。
乞食学生 (新字新仮名) / 太宰治(著)
與吉よきちかべ何處どこともなくてはいたやうにふるはしていてひしとおつぎへきつく。おつぎは與吉よきちひざいてむまでは兩手りやうておほうてる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
津村と村井とは、互に後れるのを恐れるように、ひしめきながら部屋の中に這入って、扉をピッタリと閉めた。
それで電話をかけるにしても階下の内儀かみさんを裝つて欲しいと千登世に其意を仄めかした時の慘酷さ辛さが新にひしと胸につかへて、食物が咽喉を通らなかつた。
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
私はそこへ、ガクッとくびを折ると、熱い頬を押しつけた、そして、ひしとその濡れた垣を抱しめた……。と同時に、不思議にも込上こみあがるような微笑を感じて来た。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷にひしがれ、悩まされぬいているのだ。しかも、その財産というのは、大部分私のものじゃアないのだ。
その翌日も引き続いてひしと胸を締めつけていた憂慮、寝台へもぐり込んでからも夢魔のように夜じゅう自分を苦しめた問題、———あの時はあんなに急迫した
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
三時頃になつて、お八重が先づ一人源助にともなはれて出て行つた。お定は急に淋しくなつて七福神の床の間に腰かけて、小さい胸をひしと抱いた。眼には大きい涙が。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
見せかけの情実の座へ押し上らうとしてひしめき合ふのを、身のほとりに感ぜずにはをられないのだ。
母たち (新字旧仮名) / 神西清(著)
銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の恰好や身構え……床の上から机の端、棚の上までひしめき並んでいる紫、茶、乳白、無色の硝子ガラス鉢、又は暗褐色の陶器の壺。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
私は思はず身顫ひして本能的に私の盲目まうもくの、しかしいとしい主人にひしと縋りついた。彼は微笑んだ。
船中の人々は今を興たけなわの時なりければ、河童かっぱを殺せ、なぐり殺せとひしめき合い、荒立ちしが、長者ちょうじゃげんに従いて、皆々おだやかに解散し、大事だいじに至らざりしこそ幸いなれ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
雪崩なだれ出した工女の群は、出口を目がけて押しよせた。二方の狭い出口では、ひしめき合った工女たちがひっ掻き合った。電球は破裂しながら、一つ一つと消えていった。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
ましてその夜、少女の周囲にひしめいていた日本人たちの視線を、憶えているはずはあるまい。
昼の花火 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
それを中心に幾千幾万の旗やプラカードや、数知れぬ群集が立ったり坐ったりひしめいている。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
この時既にすさまじくひしめく物音濁れる波を傳ひ來りて兩岸これがために震へり 六四—六六
神曲:01 地獄 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
ひしめき、微妙につながり合ひ、その或る時は軽快に、或る時は重々しく、何かはつきりしてゐるかと思へば混乱し、——さういふ得体のしれない経過のせゐだつたのである。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
故意に、法水のりみずが音を押えて、ドアを開いた時だった。その時レヴェズは、煖炉の袖にある睡椅子ねむりいすに腰を下していて、顔を両膝の間に落し、その顳顬こめかみを両のこぶしひしと押えていた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
媒妁なかだちの役目相済んだつもりで納まって居ると、神田かんだの料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車にのせられ、十台の車は静かな村をひしめかして勢よく新宿に向った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
さすがにひしめいてはいるが、早急に討手の人馬が、城外へ押し出す様子は更になかった。宮内は手持ち無沙汰ぶさたになって、ただうろうろと、その辺を歩く外にすることがなかった。
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
太い根曲り竹の藪が深山榛や樺の類をひしと抱きすくめて、絡み合った小枝が網目よりも細かい。矢でも鉄砲でも来いとはこのこった。そこへ人間がぶつかったのだから堪らない。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
と突然、火のようなセーニャの泣き声が起った。セーニャは両腕をひしとその顔にあてた。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
卑しい利得一点張りの本屋や画商やが朝から晩迄ひしめき合う雑然たる長屋区域Q街の一隅の屋根裏の部屋にとぐろをまいていた頃、次郎蔵の懐ろに巨額の上演料が転げ込んで来た。
放浪作家の冒険 (新字新仮名) / 西尾正(著)
私はいつの間にか、これから三里の道を歩いて次の温泉までゆくことに自分を予定していた。ひしひしと迫って来る絶望に似たものはだんだん私の心に残酷な欲望を募らせていった。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
しかし、私たち親子の一心が通ったものか、とにかく、親子はひしと抱き合いました。
義仲も今日を最後とこれを迎え撃ち、東国勢は義仲を討たんと互いにひしめきあった。
「そしてあらゆるひしめき、あらゆる闘ひは主なる神における永遠の安らひである。」
ゲーテに於ける自然と歴史 (新字旧仮名) / 三木清(著)
迢空ちょうくうさんが姫に考えさせた「朝目よし」の深い意義が彼が身にもひしと伝って来るからである。姫の抱懐する心ばせには縦横に織り込まれる複雑な文彩が動いている。創造の意義である。
おごれる市民の、君のまつりごと非なりとてありのごとく塔下に押し寄せてひしめき騒ぐときもまた塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
女は死物ぐるいに藻掻きだしたが、男は離さばこそ、なおひしと締めつけて
暗中の接吻 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
境遇ところひとこころうつすとやら、自分じぶん現世時代げんせじだいしたしんだのとそっくりの景色けしきなかひしいだかれて、べつすこともなくたった一人ひとりらしてりますと、かんがえはいつとはなしにとおとおむかし