おお)” の例文
晩春の黄昏たそがれだったと思う。半太夫は腕組みをし、棒のように立って空を見あげており、その脇でお雪が、たもとで顔をおおって泣いていた。
また、あるものはバータムナスの像のまわりを花環のように取り巻いて、きれのように垂れさがった枝はその像をすっかりおおっていた。
あるものは小さい池の岸をおおって、水に浮かぶ鯉の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。
我家の園芸 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
湖水を挟んで相対している二つの古刹こさつは、東岡なるを済福寺とかいう。神々こうごうしい松杉の古樹、森高く立ちこめて、堂塔をおおうて尊い。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
しかも予期したことながらあまりにも醜怪なる現実に直面して「ッ!」と思わず、私は顔をおおわずにはいられなかったのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまいを正しながら、背後うしろに続いている勝彦のあさましい怒号に耳をおおわずにはいられなかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
東京市の道路は甚乱雑汚穢おわいなり。此を攻撃する新聞社の門前は更に乱雑塵捨場ごみすてばの如し。門に入り戸を開けば乞食も猶鼻をおおうべし。
偏奇館漫録 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
聞いているうちに、コゼツはたまらなくなって、ぶるぶるふるえるからだを投げ出し、両手でしっかりと顔をおおってしまいました。
沈黙は少時しばし一座をおおうたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
金吾は浅ましさに一種の悪酔あくすいをおぼえながら、思わず耳をおおい、それらの物の消化されてゆく社会の健康におののきを感じていました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北から西にかけて空は一面に黄色く——真黒な雲がその上におおかぶさって、黄色な空をだんだんに押しつけて、下に沈ませているようだ。
黄色い晩 (新字新仮名) / 小川未明(著)
おおかぶさってるまゆ山羊やぎのようで、あかはな仏頂面ぶっちょうづらたかくはないがせて節塊立ふしくれだって、どこにかこう一くせありそうなおとこ
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
袖で十二分に口のあたりをおおうて隙見男すきみおとこに顔をよく見せないが、その今一人に目をじっとつけていると次第によくわかってきた。
源氏物語:03 空蝉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
いやだ厭だ厭だ、たまらない……」と彼は身震いして両耳をおおった。それ故彼は、めったな事には人に自分の姓名をあかしたがらず
鬼涙村 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
下人げにんは、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻をおおった。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。
羅生門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そうは言っても純情なすみ子は揚葉の蝶のようなその厚ぼったい愛のはねで、年少の私の多感の心をおおいつくそうとするような時もあった。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
で、た私は起き上った。微温なまぬるい風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へおおかぶさるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しかしすぐにまた弓をかわぶくろに収めてしまった。再びうながされてまた弓を取出し、あと二人をたおしたが、一人を射るごとに目をおおうた。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
真綱はこれを憤慨して、「ちり起るの路は行人こうじん目をおおう、枉法おうほうの場、孤直こちょく何の益かあらん、職を去りて早く冥々めいめいに入るにかず」
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
その中の一人が弾に顔をうたれて手を以ておおい落馬しかけている図などあって、私は幾度もそれを真似て描いたものであった。
新古細句銀座通 (新字新仮名) / 岸田劉生(著)
ほのあかるい空の下に、若葉の色がキラキラと光って見える。うす靄におおわれた青田のみずみずしさが眼にみるようであった。
親馬鹿入堂記 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
女のす事の過半は模倣であるというのは決して女の本性ほんしょうではなく、久しい間自分をおおうようにした習慣が今では第二の性質になったのです。
産屋物語 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
する事や書く事の上をおおっている薄絹は、はたから透かして見にくいと申そうよりは、自分で透かして見にくいと申すべきでございましょう。
田舎 (新字新仮名) / マルセル・プレヴォー(著)
古人が既に己の意匠を言ひをらん事を恐れて古句を見るを嫌ふが如きは、耳をおおふて鈴を盗むよりもなほ可笑おかしきわざなり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
またある時は、あの白いおおいの下で彼女が足を動かして、波打った長い敷布シーツのひだをかすかに崩したようにさえ思われました。
戸外そと朧夜おぼろよであった。月は薄絹におおわれたように、ものうく空を渡りつつあった。村々は薄靄うすもやかされ夢のように浮いていた。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
平岡の家の前へ来た時は、曇った頭を厚くおおう髪の根元が息切いきれていた。代助は家にる前にず帽子を脱いだ。格子こうしには締りがしてあった。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
われわれの前にあの方のいつわれていた brilliant な調子のためすっかりおおいかくされていたに過ぎないように思われるものだった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
頼りと思う病床の父にして、不如意勝な幾月日を送って来た子供達の心持を想像した時、僕は両手で顔をおおうて泣いた。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
国王の横死おうしうわさおおはれて、レオニに近き漁師ハンスルが娘一人、おなじ時に溺れぬといふこと、問ふ人もなくてみぬ。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
無数の彼等の流血は凄惨眼をおおわしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には時に大いなる怒りを感じ
青春論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以ておおうべからざるの事故じこあるがごとし。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
ここにおいて黒雲おおい闇夜のごとし、白雨はくう降り車軸のごとし、竜天にのぼりわずかに尾見ゆ、ついに太虚に入りて晴天と為る
しかるに五・一五事件以来ファッシズム殊に〔軍部〕内にけるファッシズムは、おおうべからざる公然の事実となった。
二・二六事件に就て (新字新仮名) / 河合栄治郎(著)
彼は耳をおおうように深く外套の襟を立てて、前屈まえかがみに蹌踉あるいて行った。眼筋が働きを止めてしまった視界の中に、重なり合った男の足跡、女の足跡。
(新字新仮名) / 池谷信三郎(著)
お庄らは、この老人の給仕をしているあいだに、袖で顔をおおうて、勝手の方へ逃げ出して来ることがしばしばあった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
検事代理村越欣弥は私情のまなこおおいてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩をかさねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃおおべからざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非ともず本田に依頼を
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
あの方をそでおおうて上げ度い程お気の毒に思うた。しかし其心の下から、ああ恋は何という手前勝手なものだろう。わたしはこの間違いを悦んで居る。
阿難と呪術師の娘 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そこを散歩して、己は小さい丘の上に、もみの木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密をおおかくすような工合ぐあいに小屋に迫っている。
冬の王 (新字新仮名) / ハンス・ランド(著)
雅頌がしょうよりして各国の国風まで収録した詩集であるが、詩はなり、志のく所なりとも称し、孟子にも詩三百一言以てこれをおおえば思い邪なしともいい
婦人問題解決の急務 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
さすがに霊界の天使達も、一時手を降すのすべなく、おぼえず眼をおおいて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。
貫之つらゆき和泉式部いずみしきぶ・西行・式子内親王を同数としたことは、定家の評価の良さを今からでも見ることが出来て、歌人としての力量の鋭さはおおうべくもない。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
ここにおいて彼は訴うるに処なくして、ついに大地に向って訴うるに至った。これ十八節である。「地よわが血をおおうなかれ、わが号叫さけびやすむ処を得ざれ」
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
畏友いゆう島木赤彦を、湖に臨む山墓に葬ったのは、そうした木々におおわれた山際の空の、あかるく澄んだ日である。
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
可哀想で、情けなくて、男の友達のように、オイ君、大丈夫かい、と肩を叩いたら、泣き出してしまわれるような、心細い寂しさが私をおおってしまいました。
江戸川の土堤内の田の中に、一つの用水池があって、その周囲にヤナギの類が茂って小池をおおうていた……。
鯨の背中のように円いおおいの、やや前寄りに細い出入口がついていて、小さな窓から中の明りがもれていた。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔をおおうたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息ためいきと共に、パッと電灯がついた。
赤外線男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼はいずまいを正して、おおいかぶさるようにその上にのしかかった。そして彼は書いて書いて書き続けた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)