うれい)” の例文
無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠ぼうばくとしたうれいである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
と『疑雨集』中の律詩りっしなぞを思い出して、わずかうれいる事もあった。かくては手ずから三味線さみせんとって、浄瑠璃じょうるりかたる興も起ろうはずはない。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云ううれいの表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
人々は強いて昂然としているらしかったが、雪にとざされた窓の外の景色は、混濁した海を控えていて、ひそかに暗いうれいたたえているのだった。
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
特に私の眼を引いたのは、うれいを持ちながらも濁っていない、理智的というよりも情熱的の、その青年の立派な眼でした。
「そうだっけな、李白の詩に、酒を飲んでうれいさんとすれば愁更に愁う、というのがあったっけ、あれなんだな」
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
これを男の冷淡さからとはまだ考えることができないのであるが、蓮葉はすっぱな心にもうれいを覚える日があったであろう。
源氏物語:03 空蝉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
……思えば呪の運命に弄れた不幸な彼女、そのうれいに沈む夫人の心情、人として何人かこれを目前に見て看過し得よう。いわんや侠気自ら許すルパンである。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
身にはやまいあり、胸にはうれいあり、悪因縁あくいんねんえども去らず、未来に楽しき到着点とうちゃくてんの認めらるるなく、目前に痛き刺激物しげきぶつあり、よくあれども銭なく、望みあれどもえん遠し
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
中川の去りてのち小山はひとりお登和嬢と対座せしが嬢の様子の引立たぬを見て心のうれいを想い
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
「野分だちて、にはかにはだ寒き夕暮の程は、常よりも、おぼし出づること多くて」という桐壺の帝のうれいより始め、「つれづれと降り暮して、しめやかなる宵の雨に」大殿油おおとなぶら近くの
『新訳源氏物語』初版の序 (新字新仮名) / 上田敏(著)
忠胆義肝匹儔ひつちゆう稀なり 誰か知らん奴隷それ名流なるを 蕩郎とうろう枉げて贈る同心のむすび 嬌客俄に怨首讎えんしゆしゆうとなる 刀下えんを呑んで空しく死を待つ 獄中の計うれいを消すべき無し 法場し諸人の救ひを
八犬伝談余 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
ひじまくらに横に倒れて、天井に円く映る洋燈ランプ火燈ほかげを目守めながら、莞爾にっこ片頬かたほ微笑えみを含んだが、あいた口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処いずくからともなくまたうれいの色が顔にあらわれて参ッた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
されど、わが家には幸においたる父母ありて存すれば、これに依って立ち、これに依って我意を強うしたるに、測らざりき今またその父に捨てられて、闇夜に灯火ともしびを失うのうれいきたさむとは。かなしかな
父の墓 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
まれには国々のうるわしき少女おとめを、花のようにめるおもわ、月の光りのように照れるおもてとうたって、肌のつや極めてうるわしく、額広く、うれいの影などは露ほどもなく、輝きわたりたる面差おもざし晴々として
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
弱った糸七は沓脱くつぬぎがないから、拭いた足を、成程釣られながら、そっと振向いて見ると、うれいまぶたに含めて遣瀬やるせなさそうに、持ち忘れたもののような半帕ハンケチが、宙に薄青く、白昼まひる燐火おにびのように見えて
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
奥様は泣はらした御顔を御出しなすって、きょうの御祝の御余おあまりの白米や金銭おかねをこの女に施しておやりなさるところでした。奥様が巡礼を御覧なさる目付には言うに言われぬうれいが籠っておりましたのです。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
船中に居ります罪人はいずれも大胆不敵の曲者くせものでありますが、流石さすがおもてに一種のうれいを帯び、総立そうだちに立上りまして、おかを見上げるていを見るより、河岸にる親戚故旧の人々はワッ/\と声を放って泣叫ぶ。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛ばんこくうれいなどと云う字がある。詩人だから万斛で素人しろうとなら一ごうで済むかも知れぬ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
で、探偵の心持が、たよりない以上にたよりなくなり、うれいをさえも感じたのは、当然なことといわなければなるまい。
畳まれた町 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
即ちゲーテが作『若きウェルテルのうれい』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』のたぐいなり。わが国にては紅葉山人こうようさんじんが『青葡萄あおぶどう』なぞをやその権輿けんよとすべきか。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
若々しく、美しく、気品があって、房々とした金髪、真白な肌、なよなよとしてなまめかしい中にうれいを含んだ様子は、まだこのほどの事件の驚きが消え失せぬようであった。
兄は弟のあさましき言葉に深きうれいを起し、血統ちすじの兄弟にてすらもかくまでにむごつれなければまして縁なき世の人をや、ああいとはしき世の中なりと、狭き心に思ひ定めて商買しょうばいめ、僧と身をなして
印度の古話 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
お登和嬢は全く料理談に惹入ひきいれられてまた胸中のうれいを忘れたり
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
と口を結んだがうれいを帯びた。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
丸顔にうれい少し、さっうつ襟地えりじの中から薄鶯うすうぐいすらんの花が、かすかなるを肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子いとこはこんな女である。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
懐中手ふところでを出すのが大儀だったからだ。いや夫れからもう一つ、うれいに沈んでいたからだ。……で、私は呉れなかった。
奥さんの家出 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
フロマンタンが小説『ドミニック』ゲーテが小説『ウェルテルのうれい』の如き万世この種の制作の模範となるべきものを熟読して初学者よくよく考ふべきなり。
小説作法 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
お登和嬢も幾分か胸中のうれいを忘れたり。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
「おや、御母おっかさん」とななめな身体を柱から離す。振り返った眼つきにはうれいの影さえもない。の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
運命の人を揶揄やゆすることもまた甚しいではないか。草稿の裏には猶数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散文だか訳のわからぬものをしるして此夜のうれいを慰めよう。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
市長官邸の客室に市長を初め警視総監や多数の記者に囲繞されて心霊学者のフィリッポ氏がうれいに沈みながら腰掛けていた。そしてみんなの乞うままに昨日の事件の説明をした。
物凄き人喰い花の怪 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
衰えは春野焼く火と小さき胸をかして、うれいは衣に堪えぬ玉骨ぎょっこつ寸々すんずんに削る。今までは長き命とのみ思えり。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
後へ引っ返して彷徨さまよった。で、月光が正面を照らして、今はかえって細めているうれいを持った眼のあたりを、睫毛の見えるまでに明るめた。「でも」と鈴江はさらに思った。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
雨声に至りては怒るにあらず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。人情千古かわらず独夜枕上ちんじょうこれを聴けば何人なんびとうれいを催さゞらんや。いはんやわれやまいあり。雨三日に及べば必ず腹痛を催す。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
うれいいてり上げしたまの、はげしき火にはえぬほどに涼しい。愁の色はむかしから黒である。
一夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「僕達は親友では無かったか」私はうれいに捉えられながら、彼の心を動かそうとした。「いいや僕達は親友の筈だ。二人の心は一つであった。よろこびかなしみも一緒に感じ、そうして慰め合ったものだ。 ...
西班牙の恋 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
過去のつぶやきであるが故にうれいあるものこれを聞けばかえって無限の興趣と感慨とを催す事あたかも商女不知亡国恨。隔江猶唱後庭花の趣がある。これまさに江戸俗曲の現代における価値であろう。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)