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尋
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つい
ふりがな文庫
“
尋
(
つい
)” の例文
尋
(
つい
)
で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
伊沢蘭軒
(新字旧仮名)
/
森鴎外
(著)
それに
迚
(
とて
)
も天国へまで
往
(
ゆ
)
けさうにも思へなかつた。森田氏は試験はこの儘で
止
(
や
)
めようかとも思つたが、
尋
(
つい
)
でに今一つ訊いてみた。
茶話:03 大正六(一九一七)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
對
(
むかひ
)
が
方
(
かた
)
には、常に聖にして、曠野、殉教、
尋
(
つい
)
で
二年
(
ふたとせ
)
の間地獄に
堪
(
た
)
へしかの大いなるジョヴァンニの座またこれとなり 三一—三三
神曲:03 天堂
(旧字旧仮名)
/
アリギエリ・ダンテ
(著)
其
翌年
(
よくとし
)
になり權官は
或
(
ある
)
罪
(
つみ
)
を以て
職
(
しよく
)
を
剥
(
はが
)
れて
了
(
しま
)
い、
尋
(
つい
)
で
死亡
(
しばう
)
したので、
僕
(
ぼく
)
が
竊
(
ひそ
)
かに石を
偸
(
ぬす
)
み出して
賣
(
う
)
りに
出
(
で
)
たのが恰も八月二日の朝であつた。
石清虚
(旧字旧仮名)
/
国木田独歩
(著)
因
(
よつ
)
て母と
倶
(
とも
)
に
遠江
(
とほたふみ
)
国井伊谷に至り、
舅
(
しうと
)
の菅沼治郎右衛門忠久の家に寓す。後徳川家康の今川義元の
許
(
もと
)
に在るや、其の側に侍す。
尋
(
つい
)
で義元の子氏真に仕ふ。
聞書抄:第二盲目物語
(新字新仮名)
/
谷崎潤一郎
(著)
▼ もっと見る
それでなくても
其
(
そ
)
の
知
(
し
)
りたがり
聞
(
き
)
きたがる
性情
(
せいじやう
)
を
刺戟
(
しげき
)
すべきことは
些細
(
ささい
)
であるとはいひながら
相
(
あひ
)
尋
(
つい
)
で
彼等
(
かれら
)
の
耳
(
みゝ
)
に
聞
(
きこ
)
えるので
勘次
(
かんじ
)
のみが
問題
(
もんだい
)
では
無
(
な
)
くなるのである。
土
(旧字旧仮名)
/
長塚節
(著)
衍
頓首
(
とんしゅ
)
して謝し、
尋
(
つい
)
で卒すと。
篋中
(
きょうちゅう
)
の朱書、道士の霊夢、
王鉞
(
おうえつ
)
の言、
呉亮
(
ごりょう
)
の死と、道衍の
請
(
こい
)
と、溥洽の
黙
(
もく
)
と、
嗚呼
(
ああ
)
、数たると数たらざると、道衍
蓋
(
けだ
)
し知ることあらん。
運命
(新字新仮名)
/
幸田露伴
(著)
河南の韓山童乱を
作
(
な
)
し、弥勒仏の出世を名となし、無頼の悪少を誘集し、香を
焼
(
た
)
き、
会
(
え
)
を結び、漸々
滋蔓
(
じまん
)
して淮西の諸郡を陥れ、それより陳友諒・張士誠等の兵
尋
(
つい
)
で起り
十二支考:08 鶏に関する伝説
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
わたくしの先人永井匡温は始め青木可笑に従って詩書を学び、
尋
(
つい
)
で毅堂の門生となったので、可笑の没後その詩稿を編んでこれを刻した。毅堂の撰に係る墓碑銘の略に曰く
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
すこぶる分を越ゆるの言を
作
(
な
)
し、先ず『将及私言』九篇を
著
(
あらわ
)
し、
窃
(
ひそ
)
かにこれを
上
(
たてまつ
)
り、
尋
(
つい
)
で「急務条議」を上り、また夷人
向
(
さき
)
に不法のこと多かりしを
悪
(
にく
)
みて、「接夷私議」を作る。
吉田松陰
(新字新仮名)
/
徳富蘇峰
(著)
尋
(
つい
)
で十ばかりになる綺麗な女の子が(家の一番下の娘が)また泣聲に驚いて出て來た。
少年の死
(旧字旧仮名)
/
木下杢太郎
(著)
終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。
尋
(
つい
)
で九月始めて肺患に
罹
(
かか
)
り後赤十字社病院に入り療養を
尽
(
つくし
)
し
効
(
かい
)
もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。
墨汁一滴
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
禪師
(
ぜんじ
)
、
斬
(
き
)
られたる
其
(
そ
)
の
首
(
くび
)
を
我手
(
わがて
)
に
張子
(
はりこ
)
の
面
(
めん
)
の
如
(
ごと
)
く
捧
(
さゝ
)
げて、チヨンと、わけもなしに
項
(
うなじ
)
のよき
處
(
ところ
)
に
乘
(
の
)
せて、
大手
(
おほで
)
を
擴
(
ひろ
)
げ、
逃
(
に
)
ぐる
數十
(
すうじふ
)
の
賊
(
ぞく
)
を
追
(
お
)
うて
健
(
すこやか
)
なること
鷲
(
わし
)
の
如
(
ごと
)
し。
尋
(
つい
)
で
瘡
(
きず
)
癒
(
い
)
えて
死
(
し
)
せずと
云
(
い
)
ふ。
唐模様
(旧字旧仮名)
/
泉鏡花
、
泉鏡太郎
(著)
……
尋
(
つい
)
で東大寺に行幸、
盧舎那仏
(
るしゃなぶつ
)
に礼賽あり、百官の位階を進めて天下に大赦し、……天平二十一年を改めて天平感寶元年となし、……陸奥国の調庸を免ぜらるること三年、小田郡は永免となり
文学に現れたる東北地方の地方色:(仙台放送局放送原稿)
(新字新仮名)
/
佐左木俊郎
(著)
尋
(
つい
)
で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に棭斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。
伊沢蘭軒
(新字旧仮名)
/
森鴎外
(著)
尋
(
つい
)
でだから言つておくが、リンカンが田舎弁護士をしてゐたのが事実だからといつて、田舎弁護士が大統領になると限つたものではない。
茶話:03 大正六(一九一七)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
わが導者船にくだり、
尋
(
つい
)
で我に入らしめぬ、船はわが身をうけて始めてその荷を積めるに似たりき 二五—二七
神曲:01 地獄
(旧字旧仮名)
/
アリギエリ・ダンテ
(著)
早く
蔵人
(
くろうど
)
に
擢
(
ぬきん
)
でられ、
尋
(
つい
)
で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、
然様
(
そう
)
いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。
連環記
(新字新仮名)
/
幸田露伴
(著)
尋
(
つい
)
でその
舞台開
(
ぶたいびらき
)
の
夕
(
ゆうべ
)
にも招待を受くるの
栄
(
えい
)
に接したのであったが、
褊陋
(
へんろう
)
甚しきわが一家の趣味は、わたしをしてその後十年の間この劇場の
観棚
(
かんぽう
)
に坐することを
躊躇
(
ちゅうちょ
)
せしめたのである。
十日の菊
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
阿部家は
尋
(
つい
)
で文政九年八月に
代替
(
だいがわり
)
となって、伊予守
正寧
(
まさやす
)
が
封
(
ほう
)
を
襲
(
つ
)
いだから、蘭軒は正寧の世になった
後
(
のち
)
、
足掛
(
あしかけ
)
四年阿部家の
館
(
やかた
)
に
出入
(
いでいり
)
した。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
「折角の企てぢや、
劇場
(
こや
)
は
乃公
(
わし
)
が何とか心配する事にしようが、出し物が大石なら、
尋
(
つい
)
でに喜剣を河内屋に附き合つて貰つたら
何
(
ど
)
うぢや。」
茶話:04 大正七(一九一八)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
建文帝の
皇考
(
おんちち
)
興宗孝康
(
こうそうこうこう
)
皇帝の
廟号
(
びょうごう
)
を去り、
旧
(
もと
)
の
諡
(
おくりな
)
に
仍
(
よ
)
りて、
懿文
(
いぶん
)
皇太子と号し、建文帝の弟
呉王
(
ごおう
)
允熥
(
いんとう
)
を
降
(
くだ
)
して
広沢王
(
こうたくおう
)
とし、
衛王
(
えいおう
)
允熞
(
いんけん
)
を
懐恩王
(
かいおんおう
)
となし、
除王
(
じょおう
)
允凞
(
いんき
)
を
敷恵王
(
ふけいおう
)
となし、
尋
(
つい
)
で
復
(
また
)
庶人
(
しょじん
)
と
為
(
な
)
ししが
運命
(新字新仮名)
/
幸田露伴
(著)
跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は
尋
(
つい
)
で経を泉豊洲に受けた。
伊沢蘭軒
(新字旧仮名)
/
森鴎外
(著)
その男は大阪生れだつたが、ある時東京へ出た
尋
(
つい
)
でに、紅葉氏を訪ねて見た。いろ/\と頼んでみたが、小説家はなか/\うんと言はなかつた。
茶話:04 大正七(一九一八)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
竜池は
尋
(
つい
)
で三十間堀住の十人衆三村清左衛門の分家、竹川町の鳥羽屋三村清吉の姉すみを
納
(
い
)
れて後妻とし、同時に山王町に別宅を構えて
妾
(
しょう
)
を置いた。
細木香以
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
珈琲店
(
カフエー
)
や歯医者を忘れる分には
差支
(
さしつかへ
)
ないが、細君と丸善とだけは何時迄も覚えてゐて貰ひたい。彼等は学校教師にとつての二大人格だから。そして
尋
(
つい
)
でに蚤もまた。
茶話:02 大正五(一九一六)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
後に眞志屋文書を見るに及んで、新に壽阿彌の姪一人の名を發見した。此姪は分明に五郎兵衞と稱して眞志屋を繼承し、
尋
(
つい
)
で壽阿彌に先だつて歿したのである。
寿阿弥の手紙
(旧字旧仮名)
/
森鴎外
(著)
「それぢや、どうか
従前通
(
これまでどほ
)
り御註文を下すつて、
尋
(
つい
)
でに
甥御
(
をひご
)
様のお名前をもれ聞かせ下さいまし。すると近いうちに屹度御放免になるやうにお取計らひ致しますから。」
茶話:04 大正七(一九一八)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
勝三郎は
尋
(
つい
)
で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。
法諡
(
ほうし
)
を
花菱院照誉東成信士
(
かりょういんしょうよとうせいしんし
)
という。東成はその
諱
(
いみな
)
である。墓は浅草
蔵前
(
くらまえ
)
西福寺
(
さいふくじ
)
内
真行院
(
しんぎょういん
)
にある。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
口は調法なもの、出来る事なら、その口に帽子を
被
(
き
)
せて、
尋
(
つい
)
でに上等な履まで穿かせてやりたい。
茶話:02 大正五(一九一六)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
唯医者の返礼にあの木を使はないのは、
尋
(
つい
)
でに地所をつけてくれと言はれるのが怖いからだ。
茶話:03 大正六(一九一七)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
「叔父上、
尋
(
つい
)
でに伺ひますが、養生の極意はどこにございますでせう。」
茶話:05 大正八(一九一九)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
「山岡さんはいつ見てもお若いですな。——どうぞお
尋
(
つい
)
でに一寸……」
茶話:02 大正五(一九一六)年
(新字旧仮名)
/
薄田泣菫
(著)
“尋”の解説
尋(ひろ)は、古代の中国や日本で使われた長さの単位。両手を左右に広げたときの幅を基準とする身体尺である。
建築や造船、漁業など(水深の測定、網の製造や綱の製作)の分野で用いられた。「尋」は単位事典や国語辞典で五尺ないし六尺と説明されるなど曖昧さがあるが、この点については使用する分野によって長さが異なるとの指摘がある(後述)。
(出典:Wikipedia)
尋
常用漢字
中学
部首:⼨
12画
“尋”を含む語句
尋常
尋問
御尋
尋人
千尋
尋常事
追尋
三十尋
二十尋
八尋殿
尋常人
尋者
八尋
何百尋
刀尋段々壊
百尋
尋廻
御尋問
訊尋
相尋
...