貝塚かひづか)” の例文
くはかついで遺跡ゐせきさぐりにあるき、貝塚かひづかどろだらけにつてり、その掘出ほりだしたる土器どき破片はへん背負せおひ、うしていへかへつて井戸端ゐどばたあらふ。
またその反對はんたいにデンマルクなどのように、うみ陸地りくちををかしてたので、今日こんにちでは海中かいちゆう貝塚かひづかひたつてゐるところもあります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
一、貝塚かひづか。多量の貝殼積み重なりて廣大なる物捨て塲の体を成せるもの。好例東京王子西ヶ原に在り。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
下部かぶ貝塚かひづかが、普通ふつうので、其上そのうへ彌生式やよひしき貝塚かひづかかさなつてるとか、たしかそんなことであつた。いま雜誌ざつし手元てもといのでくはしくはしるされぬ。
はたしてそれは貝塚かひづかでありまして、石器せつき土器どき多數たすうたのです。これが日本につぽんにおいて貝塚かひづか研究けんきゆうするために發掘はつくつした最初さいしよであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
大森おほもり貝塚かひづかは、人類學研究者じんるゐがくけんきうしやから、もつと神聖しんせいなるとして尊敬そんけいせられてる。此所こゝ本邦ほんぽう最初さいしよ發見はつけんせられた石器時代せききじだい遺跡ゐせきであるからだ。
これらの貝塚かひづかひろさは、おほきなのになると一町歩以上いつちようぶいじようのものもあつて、貝殼かひがらのつもつたあつさは數尺以上すうしやくいじようたつしてをります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
鶴見臺つるみだい各所かくしよに、地名表ちめいへうには遺跡ゐせきとして記入きにふあるが、實際じつさいおいて、破片はへん一箇ひとつ見出みいださぬ貝塚かひづかすくなくない。(大發掘だいはつくつはせぬが)
貝塚かひづか彌生式やよひしきこんじたとはうよりも、彌生式土器やよひしきどき貝塚かひづかに、土器どきこんじたとひたいくらゐ分量ぶんりやうである。
玉川向たまかはむかふ、すなは神奈川縣下かながはけんかぞくする方面はうめんには、あま有望いうぼう貝塚かひづかい。いや貝塚かひづかとしては面積めんせきひろく、貝層かひそうふかいのがいでもいが、土器どき出方でかたはなはわるい。
らせんといふなららん。らうとおもへば、どんなことつてもきつつてせるが、ナニ、んなくそツたれ貝塚かひづかなんかりたくはい』とさけぶのである。
それから十ちやうへだたつてらぬ加瀬かせ貝塚かひづかまはつて、小發掘せうはつくつこゝろみ、相變あひかはらず失敗しつぱいして歸宅きたくした。
貝塚かひづかりながら、珈琲コーヒーむなんて、ドロボツクルはじまつて以來いらい贅澤ぜいたくだと大笑おほわらひ。
幻花子げんくわし種々いろ/\珍品ちんぴんれたことから、地主ぢぬしとの衝突奇談しようとつきだん小作人こさくにんとの大喧嘩おほけんぐわ小南保之助氏こみなみやすのすけし貝塚かひづか奇遇談きぐうだんやら、足立博士あだちはかせ學士時代がくしじだい此所こゝはちされたはなしやら、却々なか/\面白おもしろい。
水谷氏みづたにしかほ見合みあはせて『なにないでもいです。大森おほもり貝塚かひづか一鍬ひとくわでもつたといふことが、すでほこるにるのですから』など負惜まけをしみをつてたが、如何どうもそれではじつところ滿足まんぞく出來できぬ。
ふものは、碌々ろく/\貝塚かひづか發掘はつくつしてもせずに、たゞちに地中ちちう秘密ひみつつたふりをして、僅少きんせうなる遺物ゐぶつ材料ざいれうに、堂々だう/\たる大議論だいぎろんならべ、うして自個じこ學説がくせつてるのにきふひといでもい。
なるほど貝塚かひづかとはんなものだなとはじめて地中ちちう秘密ひみつあるをつた。
馬籠まごめ貝塚かひづか根方ねがた貝塚かひづかとは、池上街道いけがみかいだうはさんで兩方りやうはうる。しかし、 概たいがい我々われ/\はそれを馬籠まごめもとに一くわつしてる。べつ理由りゆういが、最初さいしよ根方ねがた貝塚かひづかをも、馬籠まごめだとしんじてたからで。