懐手ふところで)” の例文
旧字:懷手
火鉢の火の灰になったのもそのままに重吉は懐手ふところでしてぼんやり壁の上の影法師を眺めている。やがて小女が番茶を入れて持って来た。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
私は、暑気の中に懐手ふところでして、めあてなく街を歩いた。額に、窓の開く音が、かすかに、そして爽やかに、絶え間なくきこえてゐた。
薄寒い月のない晩で、頭巾に顔を隠すには好都合ですが、着膨れて、懐手ふところでまでしているので、何となく掛引の自在を欠きそうです。
私はそれまでにも何かしたくってたまらなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手ふところでをしていたに違いありません。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
見よ兵庫は地に仆れ、舌打ちをした痣の浪人は、いつか刀を鞘に納め、懐手ふところでをしたまま悠々と、町の方へ歩いて行くではないか。
猫の蚤とり武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ちなみに太郎の仙術の奥義おうぎは、懐手ふところでして柱か塀によりかかりぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない
ロマネスク (新字新仮名) / 太宰治(著)
向うに働かしてこっちは懐手ふところでをしていて、うまい汁はみんな吸い上げてしまう、こんな面白い商売はまたとあるもんじゃない。
往来おうらいでは、勇坊ゆうぼう時子ときこさんが、さむそうに懐手ふところでをしてあそんでいましたが、羽根はねちてくるとすぐに二人ふたりは、はしりました。
東京の羽根 (新字新仮名) / 小川未明(著)
祭の日などには舞台据えらるべき広辻ひろつじあり、貧しき家の児ら血色ちいろなき顔をさらしてたわむれす、懐手ふところでして立てるもあり。ここに来かかりし乞食こじきあり。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
早いもので、もう番傘の懐手ふところで、高足駄で悠々と歩行あるくのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。
妖術 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
というのは、重武はその後東京に引移り、二川家から相当額の支給を受けて、大きな顔をしてブラリ/\と懐手ふところでで暮していたらしいのである。
懐手ふところでして、ずンぐりな男はくびがねじれているようで、右仰向きに空へむかっては、怖ろしい勢いで、百舌鳥もずのような奇声を発するのである。——
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
何にもしないで懐手ふところでをしてブラブラ遊んでいるとほか思われない二葉亭の態度や心持をあきたらなく思うは普通の人の親としての当然の人情であった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
落さないように懐手ふところでをしながら、帽子も何もかぶらないままブラリと表口から出て行ったのを、女房と番頭が見ておった。
近眼芸妓と迷宮事件 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
私が知ってからの彼の生活は、ほんの御役目だけ第×銀行へ出るほかは、いつも懐手ふところでをして遊んでいられると云う、至極結構な身分だったのです。
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
下では梵妻と娘が茣蓙ござの四隅を持ち、上からちぎって落す柿を受けていた。老僧も監督するような形で、懐手ふところでをしながら日向ひなたに立って眺めていた。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
五間幅の往還、くわツくわと照る夏の日に、短く刈込んだ頭に帽子も冠らず、腹を前に突出して、懐手ふところで暢然ゆつたりと歩く。
刑余の叔父 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
懐手ふところでを出すのも面倒くさく、そのまま行き過ぎようとして、ひょいと顔を見ると、平べったい貧相な輪郭へもって来て、頬骨だけがいやに高く張り
勧善懲悪 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
金五郎は、懐手ふところでをしたまま、訊ねた。懐手をしていることは危険にきまっているが、敵の芝居気が伝染したのである。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
十二月三十日の、吉は坂上の得意場へあつらへの日限のおくれしをびに行きて、帰りは懐手ふところでの急ぎ足、草履下駄の先にかかる物は面白づくにかへして
わかれ道 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
人間様が機械にギュッ/\させられてたまるもんかい、彼はだらしなく、懐手ふところでをしている方がましだと思っていた。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
「いつそ揉上もみあげを短くして、ハイカラに分けてやらうか知ら。」と楯彦氏は理髪床かみゆひどこく途中、懐手ふところでのまゝで考へた。
翌日礼助は起きるなりすぐ髪床へ行き湯に入つて、手拭てぬぐひを番台に預けると、懐手ふところでをしてぶらりと近所を散歩した。
曠日 (新字旧仮名) / 佐佐木茂索(著)
出る時は、店廊下を、突きぬけて、大戸のしとみ障子を開け、田所町の通りへ、ぶらんと、懐手ふところでで、歩き出した。
雲霧閻魔帳 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天秤てんびんの先へ風呂敷ふろしきようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手ふところでしてくるもの、声高こわだかに元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動かと思われ
隣の嫁 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
何が辛いと言つたつて、用が無くて生きて居るほど世の中に辛いことは無いね。家内やなんかが踖々せつせと働いて居る側で、自分ばかり懐手ふところでして見ても居られずサ。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
そして、時々、蒼白いカサカサな皮膚をした若い男が、懐手ふところでをしながら、巧みに、ついついと角を曲って行く姿が、ふと蝙蝠こうもりのように錯覚されるような四辺あたりであった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼は鼻をクスリと云わせて、旅館のどてらに懐手ふところでといういでたちで、静かに追跡を始めたのだった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
うちの石田氏は、九万吉という名が証明するように、懐手ふところでで数表やグラフをながめ、大量観察による推理統計で、大局から物事を判断するといった能力をもっていない。
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
加藤の二階に上って来てからもお宮は初めから不貞腐ふてくされたように懐手ふところでをしながら黙り込んでいた。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
つぶやいた源三郎は、玄心斎の手を静かに振り払って、懐手ふところでのまま、ずいと部屋を出て行った。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
寒風に吹きさらされて、両手にひびを切らせて、紙鳶に日を暮した二十年ぜんの小児は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻えりまきをして、帽子を被って、マントにくるまって懐手ふところでをして
思い出草 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼はこの場合、懐手ふところでをして二人の折衝を傍観する居心地の悪い立場にあった。その代わり、彼は生まれてはじめて、父が商売上のかけひきをする場面にぶつかることができたのだ。
親子 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
懐手ふところでをしたり、他人に背負われたりしては絶対通過ができない、神の国に入るための難所である。イエスは人を欺いたり強要したりして、この道を歩かせることはなし給いません。
懐手ふところでをして肩を揺すッて、昨日きのうあたりの島田まげをがくりがくりとうなずかせ、今月このにち更衣うつりかえをしたばかりの裲襠しかけすそに廊下をぬぐわせ、大跨おおまたにしかも急いで上草履を引きッている。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
若きころ夜遊びに出で、まだよいのうちに帰り来たり、かどくちより入りしに、洞前ほらまえに立てる人影あり。懐手ふところでをして筒袖つつそでの袖口を垂れ、顔はぼうとしてよく見えず。妻は名をおつねといえり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
親方コブセはちらっと面を火照ほてらしたようだが、急に懐手ふところでをして胸を反らした。
親方コブセ (新字新仮名) / 金史良(著)
懐手ふところでをしていた私の手に、突然袖口から金氷のように冷たい物が触ってきた。
生不動 (新字新仮名) / 橘外男(著)
東京の町を歩くのに、小母さまは、いつも我知らず右手をくちから入れて懐手ふところでをしてお歩きになる。ころんだらおきられなくてあぶないから手をお出しなさいませ、やかましく私が云う。
以上は私が懐手ふところで式に思いついた学説で、根拠もすこぶる薄弱であることは、私自身も充分に承知しているから、その誤りであることが解りさえすれば、いつでもこれを引込めるつもりである
人間生活の矛盾 (新字新仮名) / 丘浅次郎(著)
お杉は自然に涙の流れて来るのを感じると、自分がこんなになったのも、誰のためだと問いつめぬばかりに、さもふてぶてしそうに懐手ふところでをしたまま、じっと小舟の中の老婆の姿を眺め続けた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手ふところでをして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
君らのように懐手ふところでしていい銭儲ぜにもうけの出来る人たア少し違うんだからね。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
懐手ふところでをして立ったまんまの圓太郎を見て、今輔が声をかけた。
円太郎馬車 (新字新仮名) / 正岡容(著)
頬冠ほおかむりの頭をうな垂れて草履ぞうりぼと/\懐手ふところでして本家に帰った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
おまえはまた懐手ふところでしているのかといってみおろしている
貧しき信徒 (新字新仮名) / 八木重吉(著)
懐手ふところでで、その後に続く、吉原冠りの闇太郎だ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
虎「棟梁さんはいつ懐手ふところでい身の上だねえ」
懐手ふところでして人込みにもまれをり
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
無事是貴人ぶじこれきにんとかとなえて、懐手ふところでをして座布団ざぶとんから腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下やにさがって暮したのは覚えているはずだ。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)