千仭せんじん)” の例文
 千仭せんじんがけかさねた、漆のような波の間を、かすかあおともしびに照らされて、白馬の背に手綱たづなしたは、この度迎え取るおもいものなんです。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
吹雪、青の光をふきだす千仭せんじん氷罅クレヴァス。——いたるところに口を開く氷の墓の遥かへと、そのエスキモーは生きながらまれてゆく。
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
千仭せんじんの底へつきおとされた気持ち——清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
フーベルマンの演奏は、快刀を揮って、立ちどころに千仭せんじんの渓谷を切り開く、鬼神の業にも似ている。紫電一閃、満天の雲の峰を寸断する趣だ。
こゝは千仭せんじんの谷間か、虚空かとばかり、足もすくみ、心神くらめき候ふとき、誰ともわかず、何のなにがしと名のりざま、一番にをどり出てむらがる敵の中へ
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし、ここは落ちたところでカヤトのスロープで、千仭せんじんの谷へ転がるという危険はないから、笑って見ている。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
光雄はその一番先きに突き出している岩の上に這い出て下を見ていたが、立ち上ろうとする途端によろよろとして底知れぬ千仭せんじんの谷に真倒様まっさかさまに落ちて終った。
月世界跋渉記 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
見下せば千仭せんじんの絶壁鳥の音も聞こえず、足下に連なる山また山南濃州に向て走る、とでもいいそうなこの壮快な景色の中を、馬一匹ヒョクリヒョクリと歩んでいる
くだもの (新字新仮名) / 正岡子規(著)
おそらく地上数尺と離れないであろうが、俯せば千仭せんじんの谷を見下ろすかと思われ、仰げば天の遠きこと計られず、イエスの肉体は裸のまま天地の間にかかったのです。
そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙しおけむり捲立まきたてながら、文字通り千仭せんじんの谷底へ真逆落しだ。
難船小僧 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭せんじんの幽谷を見るやうに地獄谷ぢごくだに(麹町にあり)千日谷せんにちだに(四谷鮫ヶ橋に在り)我善坊がぜんばうだに(麻布に在り)なぞいふ名がつけられ
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
周末戦国の時宋王が屈原くつげんを招魂する辞に、魂よ帰り来れ、東方には高さ千仭せんじんの長人ありて、人の魂をのみ食わんともとむ、また十日代る代る出て金を流し石をとかす、魂往かば必ずけん
音にきゝたるちごたけとは今白雲に蝕まれ居る峨〻がゞと聳えしあの峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓みしるしはあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭せんじんの谷底より霧漠〻と湧き上り
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
蘭が一株、千仭せんじんの断崖に根をおろしてにおっているのじゃ。よいかな、たった一株じゃぞ。その一株の下は深い谷じゃ。断崖をつとうて、すっと見おろすと、白いあわをふいて水が流れている。
次郎物語:02 第二部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
だがそこもうす暗くてよく見えない、そっと戸を明けて中へ入ってみた、とたんに権頭は宙を踏み、もんどり打ってどこかへ墜落した、彼は千仭せんじん空谷くうこくへおちたと信じ「助けてくれ」と叫んだ。
が、嶮峻けんしゅん隘路あいろに立つものは拳石こいしにだもつまずいて直ぐ千仭せんじんの底にちる。人気が落ちて下り坂となった時だから、責むるに足りないいささかの過失でも取返しの付かない意外な致命傷となったのであろう。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
しかも、その下り坂は急転直下、千仭せんじんの奈落へと続いていたのだ。
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
袖もなびく。……山嵐さっとして、白い雲は、その黒髪くろかみ肩越かたごしに、裏座敷の崖の欄干てすりに掛って、水の落つる如く、千仭せんじんの谷へ流れた。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
猛速、強震動を発し、登行者を苦しめる。突然、数丈もある氷塔が頭上に落ちてくるだろう。また、なにもない足下に千仭せんじん氷罅クレヴァスが空くだろう。
人外魔境:10 地軸二万哩 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
一人の人間の真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の千仭せんじんへ半身墜ちかけた時、猛然と奮い起ってくるものだ。——新九郎の危機一髪の瞬間がそれであった。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭せんじんの幽谷を見るように地獄谷じごくだに(麹町にあり)千日谷せんにちだに(四谷鮫ヶ橋にあり)我善坊がぜんぼうだに(麻布にあり)なぞいう名がつけられ
「火事——」と道の中へと出た、人の飛ぶ足よりはやく、黒煙くろけむりは幅を拡げ、屏風びょうぶを立てて、千仭せんじん断崖がけを切立てたようにそばだった。
瓜の涙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
夜なのでよくわからないが、おそらく床下は、すぐ千仭せんじんの谷底へ通じているのではあるまいか。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
下をみれば、千仭せんじんの底から燃えあがる、青の光。
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
人殺しをして、山へげて、大木たいぼくこずえぢて、枝から枝へ、千仭せんじんたにを伝はるところを、捕吏とりての役人に鉄砲でられた人だよ。
印度更紗 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
武蔵の眠っている一棟の板小屋は、それと共に、崖の中途で、支えている床柱ゆかばしらはずされ、ぐわうーんと凄い音をたてながら、棟も板も、乱離となって、千仭せんじんの底へ呑まれてしまった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人殺ひとごろしをして、やまげて、大木たいぼくこずゑぢて、えだからえだへ、千仭せんじんたにつたはるところを、捕吏とりて役人やくにん鐵砲てつぱうられたひとだよ。
印度更紗 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
渡掛わたりかけた橋の下は、深さ千仭せんじん渓河たにがわで、たたまり畳まり、犇々ひしひし蔽累おおいかさなつた濃い霧を、深くつらぬいて、……峰裏みねうらの樹立をる月の光が、真蒼まっさおに、一条ひとすじ霧に映つて、底からさかさ銀鱗ぎんりんの竜の
貴婦人 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
斷崖だんがいうへ欄干らんかんもたれていこつたをりから、夕颪ゆふおろしさつとして、千仭せんじん谷底たにそこから、たき空状そらざまに、もみぢ吹上ふきあげたのが周圍しうゐはやしさそつて、滿山まんざんくれなゐの、大紅玉だいこうぎよく夕陽ゆふひえいじて
番茶話 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
紺青こんじやううみ千仭せんじんそこよりしてにじたてつてげると、たまはしおとてて、くるまに、みちに、さら/\とくれなゐけての、ひとつ/\のまゝにうみかげうつして、尾花をばな枯萩かれはぎあをい。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
このあたり家のかまえは、くだんの長い土間に添うて、一側ひとかわに座敷を並べ、かぎの手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭せんじん倶利伽羅谷くりからだに九十九谷つくもだにの一ツに臨んで、雪の備え厳重に
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)