ぢつ)” の例文
「息をしだしたな、これで暫く来んわい。」と平七は独語ひとりごつて、平三に背を向けて立つたまゝ、矢張りぢつと網の中を見つめて居た。
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
軈てお八重も新太郎に伴れられて歸つて來たが、坐るや否や先づけはしい眼尻を一層險しくして、ぢつと忠太の顏を睨むのであつた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
そしてまた發作前の常習慣の、何も彼も腹立たしい、苛ら/\した、神經的の衝動を鎭制しようと云ふ風に、ぢつと燃える火に見入つてゐた。
奇病患者 (旧字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
梅の花びらが散りこぼれてくると、子供はいかにも不思議さうにぢつと立ち止まつて眼を視張つてゐた。周子はそのさまをしげしげと打ち眺めて
父を売る子 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
「ハツハツハツ、物を理詰めに考へただけの事さ。五日四晩お前が駈けり廻る間、俺はぢつとして自分のへそと相談をした」
しかし昔馴染むかしなじみと言ふやうな、又は昔の恋人と言ふやうな単純な気分ではなかつた。ぢつとして見詰めて立つた彼の前に、かの女の頭はおのづから下つた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
むすめあゆみながら私の顏をぢつと見入ツた。あゝ其の意味深い眼色めいろ!私は何んと云ツて其を形容けいやうすることが出來やう。
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
ひとみすわらず、せたをとこかほを、水晶すゐしやうけたるごとひとみつやめてぢつると、わすれたさましたまぶち、なくてた、手巾ハンケチつゆかゝかつた。
艶書 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
頭脳あたまで分らない事を、胃の腑に相談でもするらしく、ぢつと首をかしげて考へ込んだが、多くの場合頭脳あたまで判らない事は、胃の腑でも掻いくれ見当が立たないものだ。
顫へてゐる私の眼の前には白い蛾のこなのついた大きなてのひらと十本の指の間からぢつと睨んでゐる黒い眼、………蠶の卵のはぢく音、繭を食ひ切る音、はづんだ生殖のふる
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
しかひんの好い一寸見ちよいとみには三十二三と想はれるが、ぢつむかへば小じわの寄つた、若作りの婦人である。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
其処には二十歳位の女の半身がある。代助は眼をせてぢつと女の顔を見詰めてゐた。——
さうしてその都度、葉裏が白く光る——それをぢつと見つめて居ても……。彼を見つけた犬どもが、いそいそ野面から飛んで帰つて、両方から飛びすがる。それを避けようと身をかはしても……。
戸口とぐちからだい一のものは、せてたかい、栗色くりいろひかひげの、始終しゞゆう泣腫なきはらしてゐる發狂はつきやう中風患者ちゆうぶくわんじやあたまさゝへてぢつすわつて、一つところみつめながら、晝夜ちうやかずかなしんで、あたま太息といきもら
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
お八重は身體を捻つて背中合せに腰掛けた商人體の若い男と、頭を押けた儘、眠つたのか眠らぬのか、ぢつとしてゐる。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
罪人の様に、羞恥と悔恨とにぶる/\身を震はしながらぢつと畳の目を見つめて居た。思はず涙がさしぐんで来た。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
かう言つた女はまた顔をあからめた。かれは深く心を動かされずには居られなかつた。かれはぢつと女を見詰めた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
日が射してまぶしいもので、頭からすつぽりとかひまきを被つたまゝぢつと小便を怺へてゐた。硝子戸も障子も惜し気なく明け放されて、蝉が盛んに鳴いてゐた。
スプリングコート (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
白粉の凄まじい大崩落だいほうらく春雨はるさめに逢つた大雪崩なだれのやうなのを、平次は世にも眞顏でぢつと見詰めて居ります。
……へだてたカアテンのうちなる白晝まひるに、花園はなぞのゆめごとき、をとこかほぢつ
艶書 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
それから暫時しばらくつて、殆素つ裸の俄作りの戯奴ヂヤウカアは外の出窓に両脚を恍惚うつとりと投げ出して居た。而して今霊岸島の屋根瓦の波の上にくるくると落ちかかる真赤な太陽の光をぢつと眺めて居る。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
泣きたくなるのを漸く辛抱して、ぢつと疊の目を見てゐる辛さ。九時半頃になつて、漸々やう/\『疲れてゐるだらうから』と、裏二階の六疊へ連れて行かれた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
それから舟を網の台の方へ𢌞し、二人共舳に立つて、綱の入口や中央をぢつと眺め入つた。暫く注視して居たが入つて来る様子がないので、平三は眼を前方に転じた。
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
さうは思つたものの、ぢつと悩まし気に、深刻気に、眼をこらし口を引きしめてゐる藤田の表情を眺めてゐると、妙に圧迫されたり、また彼が偉いもののやうに思はれたりした。
或る日の運動 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
眼でしかつて、奧の方をぢつと見て居ると、六疊の床に掛けた、じゆ老人を畫いた安物の大幅が動いて、その後ろから、匕首あひくちを持つた、巾着切の辰三が、ヌツと顏を出したではありませんか。
あがぐち電信でんしんはしらたてに、かたくねつて、洋傘かうもりはしらすがつて、うなじをしなやかに、やはらかなたぼおとして、……おび模樣もやうさつく……羽織はおりこしたわめながら、せはしさうに、ぢつのぞいたが
艶書 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
昼の蝋燭が鼻の真向まつかうにしんみりと光り輝く、眼と眼とがぢつとその底から吸ひ付くやうに差覗く……つくづくと陰影かげと霊魂と睨み会つたまま底の底から自愛と憐憫の心とが切々と滲み出る。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
定老爺は、暫くぢつと此女乞食を見てゐたが、『村まで行つたらがべえ。醫者樣もあるし巡査も居るだア。』
二筋の血 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
大きな鋏を開いてぢつと差寄せた瞬間の彼の神経の鋭さ、その沈着と大胆と、それから一息に根元からチヨキンと切り落した瞬間の神的決断と、人間性の無意識的快感これを思ふと恐ろしくなる。
神童の死 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
微風もなく、暑さがぢつと停滞してゐるばかしなので、蜻蛉の影が砂地にはつきり写つた。——宮田は沖を悠々と泳いでゐた。彼は、そんなに泳げないので、浮標の近所で、腕を結んで逆さまに浮んだ。
スプリングコート (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
孫三郎は深々と腕をこまぬいて、疊の縁をぢつと見詰めて居ります。
それまで一度も言葉を交した事のない人から、う言はれたので、私は思はず顏を上げると、藤野さんは、晴乎ぱつちりとした眼に柔かな光を湛へて、ぢつと私をみつめてゐた。
二筋の血 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
女は、居たゝまれなささうな格好でぢつと膝を視詰めた。
父を売る子 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
××さんは三十幾つかになつて始めて書いたのだ。吾々は決して無理に書く必要はない。書ける時期が来れば自然に書ける、その時こそほんとのものが出来るのだ。それよりもぢつと考へよう、勉強しよう、さうして時期を
若い作家と蠅 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)