いら)” の例文
戸をたたいておどした位では、なかなか腹がえなかった。彼はその晩自分の家へ逃げて帰っても、まだいらいらしてよく眠られなかった。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
三太夫は胸へ込上げ、老人としよりのあせるほど、気ばかりいらちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、あくたに酔うたるふなのごとし。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
暢気のんきな母はかくべつなにも感じないらしかった、けれども節子は神経がいらいらし、自分の顔が硬ばってくるのが自分でわかった。
おばな沢 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
我止まりて見しにふたりの者あり、我に追及ばんとてしきりにいらつ心を顏にあらはせども荷と狹き路のためにおくれぬ 八二—八四
神曲:01 地獄 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
すでに槍で刺されて赤い血のリボンで飾られた牛は、更に六本の鈷を花野の薄の如くに脊負って、いらだち狂ってアレナの砂の上を暴れ廻る。
闘牛 (新字新仮名) / 野上豊一郎(著)
いくら行つても妻の姿は見えなかつた、そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちをいらだたしめた。彼はすぐに引き返した。
静物 (新字旧仮名) / 十一谷義三郎(著)
それから又三日、一日毎に秋が深くなるのに、宮永町の娘殺しが、解決の曙光もなく平次をいらつかせて居た頃のことです。
ゆき子は、富岡の躯にあたゝめられながらも、もつと、何か激しいものが欲しく、心はいらだつてゐた。こんな行為は男の一時しのぎのやうな気もした。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
「私たちは書く時は二階と下なのよ。私は下で書くのよ。清川は書けなくて困ってるの。私がぐんぐんペンが走るもんだから、なおいらつくらしいの。」
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
あまり敬之進が躊躇ぐづ/\して居るので、しまひには郡視学も気をいらつて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
評議の席で一番熱心に復讐ふくしゅうがしたいと言い続けて、成功を急いで気をいらったのは宇平であった。色のあおい、せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
此では到底喧嘩に成らない品物しろもの。と知つてか、芳はいらつて圖に乘り、無理にも賣らずんば止まざる底の心掛。
二十三夜 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
彼の心はいつの間にかいらだたしい憤りでいっぱいになっていた。彼は、もう刳貫の竣成を待つといったような、敵に対するゆるやかな心をまったく失ってしまった。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
足の底から分解しつつある自己にとってはなにやら無気味でいらだたしいリズムがきこえるだけで、親のかたきの金持ちの道への、はらだちだけがとめどなくく。
蓮月焼 (新字新仮名) / 服部之総(著)
ひるんで一同たじたじと引き下がったのにいらってか、十郎次が剃り立て頭に血脈を逆立てながら代って襲いかかろうとしたのを、一瞬早く退屈男の鋭い命が下りました。
見るもの障るもの、彼の心をいらつかせる種にならぬものはなかつた。淡海公の百年前に実行してしまつて居る事に、今はじめて自分の心づいたおぞましさを憤つて居る。
死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
第四に——兎に角南画と云ふ南画は大抵僕の神経をいらいらさせるものばかりだつた。僕は顔をしかめながら、大きい硝子戸棚の並んだ中を殉教者のやうに歩いて行つた。
僻見 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
捉へがたい感覺の記憶は今日もなほ私の心をいらだたしめ、恐れしめ、歎かしめ、苦しませる。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
それがただ一つ私を引き留めて、いら立ちながらもどうにも決断を鈍らせていたのであった。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
かはし汝此地に來りしときゝ渺々はる/″\尋ねし甲斐かひあつ祝着しうちやくなり無念をはらす時いたれり覺悟かくごせよといひさま替の筒脇差つゝわきざしにて切かゝり互ひにおとらず切結きりむすびしが六郎右衞門がいらつて打込うちこむ脇差にて竿竹さをだけ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
しかし、しばしばその姿勢を変えたり、彼の癖の舞踏病的な方法でその手足を動かしたりして、神経質そうにいらいらしているように見えた。彼は十五分間に七たびも甲板へのぼって行った。
こうしていらいらしながら七日の間、いろいろのことを考えながら輾転反側てんてんはんそくしているうちに、かえって私の肉体は日増しに丈夫になっていって、寝室の鏡にうつしてみても平常と変わりがなく
らじとべしかひなおよばず、いらつて起ちし貫一は唯一掴ひとつかみと躍りかかれば、生憎あやにく満枝が死骸しがいつまづき、一間ばかり投げられたる其処そこの敷居に膝頭ひざがしらを砕けんばかり強く打れて、のめりしままに起きも得ず
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
そのあどけない調子といい、いかにも突拍子もない場ちがいな懺悔沙汰ざんげざたといい、彼をいらだたせるたねだった。もし彼女の眼に涙が浮かんでいなかったら、冗談かお芝居でもしていると思えただろう。
この喜びに陶酔しなければならぬ、とその時ぼくも思った。併し、陶酔しなければならぬと思うことが、陶酔をさまたげることになるし、卒直に言えば、ぼくはそのひそかな喜びにいら立っていたのだ。
ひとりすまう (新字新仮名) / 織田作之助(著)
うしばかのほとりの桜が咲いた。隠密の苦心を認める者より、慎九郎の腕前の方が、知合いの間柄ではまさるとされた、その噂で気をいらだたせていた宮内は、桜見物に出てきても、一向面白くもなかった。
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
ただヤキモキ気をいらつばかりだ。
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
そういう事情がいろいろからんでいるので、彼ははらの中ではいらいらしながらも、正面の論戦ではどうも思うように闘うことが出来ない。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
道が山下にかゝると、女は時々振り返つて、後からいて行く平次の姿を確かめますが、それが狐のやうな臆病さで、ひどく平次をいら立たせます。
女はいらだたしげに太息をついたり頭を掻いたりしていたが、やがてだるそうな足取で風呂場のあるほうへ立去った。
蛮人 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「そこ退け、踏んでくれう。」といらてる音調、草が飛々とびとび大跨おおまたきつしたと見ると、しまの下着は横ざまに寝た。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
彼はいらついて来た。理由がわからなかった。彼は少し中っ腹で入口へ出てみた。そして廊下をぶらついているうちに、入って来る葉子の姿が目に入った。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
二、三年経つうちにも、機会が来ないので、彼はいらだった。彼は、自分で惣八郎を危難に陥れる機会を作ろうかとさえ考えた。しかしそれには、彼の心に強い反対があった。
恩を返す話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
見るもの障るもの、彼の心をいらつかせる種にならぬものはなかった。淡海公の、小百年前に実行して居る事に、今はじめて自分の心づいたおぞましさが、憤らずに居られなかった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
なみが引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向ひなたの砂丘に寝ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不満のいらだたしさを感じてくる。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
さあ、源はあせらずにおられません。こうなると気をいらってやたらに鞭を加えたくなる。馬は怒の為に狂うばかりになって、出足がかえって固くなりました。にわかに「樺、樺」と呼ぶ声が起る。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それを見てゐると道助は急に自分の影が薄れて行くやうないらだたしさを覚えた。
静物 (新字旧仮名) / 十一谷義三郎(著)
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒はがゆくて心いらつなるべし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
頼長は一人でいらいらしていたが、驚きと恐れとにおびやかされている家来どもをいかに叱り励ましても、しょせんはその効はあるまいと思われた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
おすえもさぶの名は決して口にせず、栄二のいらだっているのがわかるのだろう、いばらとげの先にでも触れるように、いつもぴりぴりと神経をとがらせていた。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
庸三はちびちびめた葡萄酒ぶどうしゅに、いくらか陶然としていたが、その情景を想像して少しいらつき気味であった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ようよう車を踏留ふみとどめ、きもつぶせしむかばらたち、燐寸マッチにあたりて二三本折っぺしょり、ますますいら
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
と呼ぶ声を聞いた時は、丑松もすこし気をいらつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
「そうです、ひどくいらいらしたおちつかないようすで、はかられた、はかられたと申し、どうしたらいいか、などと、苦しそうに独り言を云っていました」
いまにもはるか石壇いしだんへ、面長おもながな、しろかほつまほそいのが駈上かけあがらうかとあやぶみ、いらち、れて、まどから半身はんしんしてわたしたちに、慇懃いんぎんつてくれた。
雨ふり (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
何か無風帯へでも入つて来たやうなのんびりした故郷の気分が私のしやうに合はないのか、私は故郷へ来ると、いつでも神経がいらつくやうな感じだが、今もいくらかその気味だつた。
町の踊り場 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
師泰はぎょっとして兄の顔を見かえると、師直はその大きい眼をいよいよいらげた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
今でも、母のいないところでは、ときによると、かなしいほど母に愛情を感じるが、いっしょにいると、堪らなく気ぶっせいで、鬱陶うっとうしくて、いらいらしてくる。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
梓はあおくなるまでに、はては気をいらって、額がつッぱると思うほどな癇癪筋かんしゃくすじ、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お絹はとかくいらいらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょうも舞台で倒れたという。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)