棚引たなび)” の例文
振り返ると、野路の末、雑木林の向うの空に、大小の屋根が夢の町のように浮んで、霞に棚引たなびいているのが見える。平馬の藩である。
平馬と鶯 (新字新仮名) / 林不忘(著)
空を横切るにじの糸、野辺のべ棚引たなびかすみの糸、つゆにかがやく蜘蛛くもの糸。切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちはすぐれてうつくしい。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
祭壇の前に集った百人に余る少女は、棕櫚しゅろの葉の代りに、月桂樹の枝と花束とを高くかざしていた——夕栄ゆうばえの雲が棚引たなびいたように。
クララの出家 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
からははひにあともとゞめずけぶりはそら棚引たなびゆるを、うれしやわが執着しふちやくのこらざりけるよと打眺うちながむれば、つきやもりくるのきばにかぜのおときよし。
軒もる月 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
奧の一と間には、線香の匂ひを棚引たなびかせて、番頭の彌八が妹娘のお信や下女のお六に指圖をしながら、女主人のお兼の新佛姿を調へて居りました。
また出雲娘子いずものおとめを吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲いづもの児等は霧なれや吉野の山のみね棚引たなびく」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
これは琵琶湖の光景で、東海道の道中でもする時分に近江路を歩いておると広々とした琵琶湖は霞を棚引たなびかせて際涯もないように春の水をたたえておる。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
病室のなかには、かけ詰めにかけておく吸入器から噴き出される霧が、白い天井や曇った硝子窓ガラスまど棚引たなびいて、毛布や蒲団が、いつもじめじめしていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私達はかさなりかさなった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引たなびいた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
御来宅おいでを願つてはなはだ勝手過ぎたが、こし御注意せねばならぬことがあるので」と、葉巻莨はまきたばこけむりふと棚引たなびかせて「ほかでも無い、例の篠田長二しのだちやうじのことであるが、 ...
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
暫く御ぶさたしていました間にいつか今年も好季節になり六甲の山に日々霞が棚引たなびくようになりました。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
伯爵は煙草に火をつけて、紫色の煙を棚引たなびかせながら、我身の危急も知らぬげに、呑気らしく云った。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
あわあわしいら雲がら一面に棚引たなびくかと思うと、フトまたあちこちまたたく間雲切れがして
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
窓ガラスのように、堤ぎわの空あかりが、茜色あかねいろ棚引たなびき光っていた。小さい板橋をわたって、くらい水の上をかしてみると、与平が水の中に胸にまでつかって向うをむいていた。
河沙魚 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
あるいはかすみ棚引たなびかせて、その中間の幾十里の直接不必要な風景を抹殺まっさつしてしまう。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
山腹をありまで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落まっさかおとしに七千噸の巨体が黒煙くろけむり棚引たなびかせてすべり落ちる。
難船小僧 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
□夕方西にくれないほそき雲棚引たなびき、のぼるほど、うす紫より終に淡墨うすずみに、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬の雲は寒く寂しき、たとへんに恋にやぶれ
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
景彦の姿はにわかにおぼろげになって、遠くかすんで行った。幽微な雰囲気が、そのあたりに棚引たなびいている。ほのかな陽炎かげろうが少しずつ凝集する。物がまたかたどられてゆらめくように感ぜられる。
「おのおの方、あれを見られよ、煙が棚引たなびいている」
大菩薩峠:05 龍神の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、瀲灔れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引たなびいていた。疲れたお島の心は、取留とりとめのない物足りなさに掻乱かきみだされていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
人々は彼と朝日照り炊煙すいえん棚引たなびき親子あり夫婦あり兄弟きょうだいあり朋友ほうゆうあり涙ある世界に同居せりと思える、彼はいつしか無人むにんの島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
ここにありて筑紫つくしやいづく白雲しらくも棚引たなびやまかたにしあるらし 〔巻四・五七四〕 大伴旅人
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
「一里四方、妖氣が棚引たなびいてゐるくらゐのもので。ま、ちよいと覗いて見て下さい」
残りなく寸断にし終りて、さかんにもえ立つ炭火のうち打込うちこみつ打込みつ、からは灰にあともとゞめず、煙りは空に棚引たなびき消ゆるを、「うれしや、わが執着も残らざりけるよ」と打眺うちながむれば
軒もる月 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
夕雲の棚引たなびくように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ぼれつ解けつ
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
細く棚引たなびくしのゝめの
若菜集 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
此処ここにしていへやもいづく白雲しらくも棚引たなびやまえてにけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
かれ未來ふうじられたつぼみのやうに、ひらかないさきひとれないばかりでなく、自分じぶんにもしかとはわからなかつた。宗助そうすけはたゞ洋々やう/\の二かれ前途ぜんと棚引たなびいてゐるがしただけであつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
彼の未来は封じられたつぼみのように、開かない先はひとに知れないばかりでなく、自分にもしかとは分らなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引たなびいている気がしただけであった。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
杉かひのきか分からないが根元ねもとからいただきまでことごとく蒼黒あおぐろい中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引たなびいて、しかと見えぬくらいもやが濃い。少し手前に禿山はげやまが一つ、ぐんをぬきんでてまゆせまる。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一里をへだてても、そことゆびの先に、引っ着いて見えるほどの藁葺わらぶきは、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引たなびかすみとこしえに八瀬やせの山里を封じて長閑のどかである。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「下らない」と自分は一口に退しりぞけた。すると今度は兄が黙った。自分はもとより無言であった。海にりつける落日らくじつの光がしだいに薄くなりつつなお名残なごりの熱を薄赤く遠い彼方あなた棚引たなびかしていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)