往時むかし)” の例文
往時むかしは匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋のほとりと永代橋の畔より船を出すを例とし、かつこゝよりするものは帰期あるものと予定し
水の東京 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
何卒どうかしてお新を往時むかし心地こころもちに返らせたいと思って、山本さんは熱海まで連れて行ったが、駄目だった。そこで今度は伊東の方へ誘った。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その旅館はたごやは高田を始め、新旧俳優の多くが巣のやうにしてゐるが、松井須磨子なども、文芸協会の往時むかしから、いつも其家そこに泊つてゐる。
それらが座敷に敷いてある往時むかし父が眠くなるとその端を取って葉巻虫のように身体に巻きつけて寝たという紺の毛艶もうせんの端の上に載っています。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
今日こんにち方々かたがた随分ずいぶん無理解むりかい仕打しうち御思おおもいになるかぞんじませぬが、往時むかしはよくこんなことがあったものでございまして……。
だからおなじ蒙塵もうじん(天子の御避難)でも、今日の恐怖は、往時むかしの比ではない。——賢所かしこどころ渡御とぎょ(三種ノ神器の移動)を忘れなかったのがやっとであった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此處こゝ往時むかし北越ほくゑつ名代なだい健兒けんじ佐々さつさ成政なりまさ別業べつげふ舊跡あとにして、いまのこれる築山つきやま小富士こふじびぬ。
蛇くひ (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
また往時むかし慣習しきたりからして、双生児の畜生児は殺さねばならなかったということも、さらに里虹が両親からの云い伝えで、クイロスの船を赦免船と信じてしまったことも……。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
棺のなかには木乃伊が在る。胸へ手を組んだその木乃伊の、手の指に握られた耳飾は、巨大な金剛石にちりばめられ、数千年の往時むかしから、二十世紀の今日まで、同じ光に輝いている。
木乃伊の耳飾 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
真正の彼岸ザクラすなわち Prunus subhirtella Miq. は往時むかしから彼岸ザクラと称え、それ以外の名はザクラがその一名であるように思われるけれど
植物記 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
自分は往時むかしのよしみもあり、それにひとの自伝とか日記とかに殊に興味を持つ方だから、喜んで引受けるには引受けたが、なにしろ長い間のことが書いてあつて、それに達者な女文字と来てゐるから
一葉の日記 (新字旧仮名) / 久保田万太郎(著)
播磨はりまの伊藤といへば往時むかしからの百万長者、随分むつかしい家憲もあれば家風もある。気の毒にもそんななかに生れ落ちたのが今の伊藤長次郎氏。
福山すなわち松前まつまえ往時むかしいし城下に暫時ざんじ碇泊ていはくしけるに、北海道にはめずらしくもさすがは旧城下だけありて白壁しらかべづくりの家などに入る。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
眼鏡越しに是方こちらを眺める青木の眼付の若々しさ、往時むかし可懐なつかしがる布施の容貌おもてあらわれた真実——いずれも原の身にとっては追懐おもいでの種であった。
並木 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
よくまァ御無事ごぶじで……ッともひいさまは往時むかしとおかわりがございませぬ。おなつかしうぞんじます……。
離して逃げられでもしたらと用心してっかり握りしめてついて来た加奈江は、必死に手に力をこめるほど往時むかしの恨みがき上げて来て、今はすさまじい気持ちになっていた。
越年 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
直ぐ邸宅やしきの立派なのを欲しがるのと打つて変つて、今も往時むかし宿屋ホテル室借まがりで、その全財産を鞄一つにをさめてけろりとしてゐる。
此のあたりの地をば吾が家にて有ちし往時むかしもありければ、一言にても糺されしことの胸わろきにつけて、よし無き感を起しゝも烏滸がまし。
鼠頭魚釣り (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
丁度往時むかし故郷の広い楽しい炉辺ろばたで、ややもすると嫌味いやみなことを言う老祖母おばあさんを前に置いて、碌々ろくろく口もかずに食った若夫婦の時代と同じように
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「原稿?」と小説家は古い往時むかしの話でもする折のやうな顔をした。「原稿とお言ひなのは、手で書いた文字の事なんですか。」
橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒てらかどせいけんが記しゝ往時むかしも今も異りなし。橋の下流少許しばしにして東に入るの一水あり。これを
水の東京 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
こういう人の側に、山本さんは遠慮勝に腰掛けて、往時むかしお新や異母妹いもうとと一緒に菖蒲田の海岸を歩いた時の心地こころもちに返った。海は山本さんを九年若くした。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「一寸伺ひますが、往時むかしのうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」
途中白石の町は往時むかし民家の二階立てを禁じありしとかにて、うち見たるところ今なお巍然ぎぜんたる家無し。片倉小十郎は面白き制をきしものかな。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
緩慢なだらかな地勢に沿うて岡の上の方から学校の表門の方へ弧線を描いている一筋のみちだけは往時むかしに変らなかったが、門のわきに住む小使の家の窓は無かった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
松助老人はにや/\笑ひながら、夕飯ゆふめしまぐろの事か、往時むかし昵懇妓なじみをんなの事でも考へてるらしい、そつけない眼つきをしてゐた。
往時むかし普門院といふ寺の鐘この淵に沈みたればこの名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、けだし恐らくは信ずるに足らざるの談ならん。
水の東京 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
一つは往時むかし英語を学んだ先生から自分の学校へ来てくれないかとの手紙で、是方は寂しい田舎ではあり、月給も少かった。しかし三吉は後の方を択んだ。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「さう。阿母おつかさんも有つたの。」娘は護謨ごむ人形のやうに急に母親に飛びついた。「やつぱり往時むかしも今も同じだわねえ。」
引っ掛けたねんねこばかりは往時むかし何なりしやらあらしまの糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来たやつなるべし。
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
温厚な長者らしい主人は、自分も往時むかしを思出したという風で、三吉と一緒に縁側に立って、あそこに井戸があった、ここに倉があった、と指して見せた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
身に着けた物のうちで、一番大切だいじな物といふと、往時むかしはいふ迄も無く男には刀、女には鏡で無ければならなかつた。
今もなお往時むかしながらの阿蒙あもうなるに慚愧ざんきの情身をむれば、他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
往時むかしは大きな漁業を営んで、氷の中にまで寝たというこの老人の豪健な気魄きはくと、絶念あきらめの早さとは年を取っても失われなかった。女達の親しい笑声が起った。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
引つ掛けたねんねこばかりは往時むかし何なりしやらあらい縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
葬式の日は、親類一同、小さな棺の周囲まわりに集った。三吉が往時むかし書生をしていた家の直樹も来た。この子息むすことっくに中学を卒業して、最早少壮としわかな会社員であった。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
英語で一番綴りの長いことばは何だらうといふ事は、往時むかしからよく無駄話の材料たねにされたもので、ある人は。
弟の阿利吒は尊げなる僧のゑたる面色おももちして空鉢をささげ還る風情ふぜいを見るより、図らず惻隠そくいんの善心を起し、往時むかし兄をばつれなくせしことをも思ひ浮めて悔いつつ
印度の古話 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
「家なぞはどうでも可い」とよく往時むかし思い思いした正太ではあるが、いざふるい家がこわれかけて来たと成ると、自分から進んでその波の中へ捲込まきこまれて行った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「酒の為に潰す米なんて知れたもんだよ。往時むかしから馬鹿の大食ひといつて、馬鹿が一等沢山米を食ふのだ。その馬鹿の大食ひを治すには何よりかも酒を飲ますに限るんだからね。」
無かった縁にまよいはかぬつもりで、今日に満足して平穏へいおんに日を送っている。ただ往時むかし感情おもいのこした余影かげが太郎坊のたたえる酒の上に時々浮ぶというばかりだ。
太郎坊 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
苦笑ひには往時むかしから値段はついてゐない、誰でもが持合はせてゐるものだから。
学士は又、そんな関わない風采ふうさいの中にも、何処どこ往時むかし瀟洒しょうしゃなところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留えりどめなぞが光ることがある。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ねだって買ってもろうたる博多に繻子しゅすに未練もなし、三枚重ねに忍ばるる往時むかしは罪のない夢なり、今は苦労の山繭縞やままゆじま、ひらりと飛ばす飛八丈とびはちじょうこのごろ好みし毛万筋
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
一寸往時むかしの事を言つたまでだ。小杉家から出た宝物とは何の関係もない。
青磁の皿 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山ぎっぱやま往時むかしの噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状かたちに一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そも/\我と汝とは往時むかし如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土悉皆成仏しつかいじやうぶつと聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
「兄さんの禿は往時むかしからですよ」
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
らぬ『往時むかし』にたてまつり。
白羊宮 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫薄田淳介(著)
是や見し往時むかし住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空しきそくくう道理ことわりを示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友ともどちはいづち行きけむ無常迅速の為体ていたらく
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)