可懐なつか)” の例文
旧字:可懷
可懐なつかしい、恋しい、いとおしい、嬉しい情を支配された、従姉妹いとこや姉に対するすべてのおもいを、境遇のひとしい一個蝶吉の上に綜合して
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
先生は重い体躯からだを三吉の方へ向けて、手をらないばかりの可懐なつかしそうな姿勢を示したが、昔のようには語ろうとして語られなかった。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
童子は、母親の、白い襟足えりあしと瘠せた肩とを目に入れ、そして可懐なつかしそうに心をあせったためか、竹縁にぎしりと音を噛ませた。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
それがそのあたりの田圃だった時分のさまを可懐なつかしくおもい出させた。——それにはその道の上に嵩高かさだかにつまれた漬菜つけなのいろ。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
もう十月のなかばで、七輪のうえに据えた鍋のおつゆ味噌みその匂や、飯櫃めしびつから立つ白い湯気にも、秋らしい朝の気分が可懐なつかしまれた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐なつかしげに差寄りたるかたちを改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
男とも女とも見わかぬ風俗をした人たちがせっせと静に火を焚いている姿が何とも可懐なつかしいものに私には眺められた。この辺にはこの稗の外は何も出来ないのだそうである。
みなかみ紀行 (新字新仮名) / 若山牧水(著)
自分は友人の保阪定三郎氏の記名がある樹木をてすこぶる可懐なつかしく感じた、この辺は総て燧岳の裾野である、只見川の本流が懸水をなしている三丈瀑布を瞰下することが出来る
平ヶ岳登攀記 (新字新仮名) / 高頭仁兵衛(著)
まして、さま/″\な境涯を通過とほりこして、た逢ふ迄の長い別離わかれを告げる為に、互に可懐なつかしい顔と顔とを合せることが出来ようとは。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
とその塩瀬より白い指に、汗にはあらず、紅宝玉ルビイ指環ゆびわ点滴したたるごときなさけの光を、薄紫の裏に包んだ、内気な人の可懐なつかしさ。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「酉の市」というもの、いままでわたしにとって冬の来たという可懐なつかしいたのしい告知以外の何ものでもなかった。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
幾年いくとせ聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐なつかしと見る目を覚えず其方そなたうつせば、鋭くみむかふる貫一のまなこ湿うるほへるは、既に如何いかなる涙の催せしならん。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
足はいつもきちんと揃って、すこし口をあけ可懐なつかしげな顔つきをしていた。
童話 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
お島はこうして邪慳じゃけんな実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を可愛かわいがって育ててくれた養母の方に、多くの可懐なつかしみのあることが分明はっきり感ぜられて来た。養家や長い馴染なじみのその周囲も恋しかった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
達雄が残して行った部屋——着物——寝床——お種の想像に上るものは、そういう可恐おそろしいような、可懐なつかしいようなものばかりで有った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
さあ、立直して舞うて下さい。大儀じゃろうが一さし頼む。わしひさしぶりで可懐なつかしい、御身おんみの姿で、若師匠の御意を得よう。
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
というのが昨夜、五六年ぶりでわたしは……いいえ、もっとである、七八年ぶりでわたしはその「酉の市」のむかし可懐なつかしい光景をみに行ったのである。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
さいなまれしと見ゆるかたの髪は浮藻うきもの如く乱れて、着たるコートはしづくするばかり雨にれたり。その人は起上りさまに男の顔を見て、うれしや、可懐なつかしやと心もそらなる気色けしき
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
『瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります——失敬。』う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可懐なつかしさうに見送つた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
清らかなそのおもてを見ても、可懐なつかしいこうかおりの身に染みたのに聞いても、品位ある青年であることが分るであろうに、警官は余り職務に熱心であった。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
が、毎日一回ずつ書いて行くうちに、わたしは仮りにその舞台にとったわたしの生れたうちの来しかたがだんだん可懐なつかしく思い返されて来た。わたしは思い出に浸りながら筆を遣った。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
眼鏡越しに是方こちらを眺める青木の眼付の若々しさ、往時むかし可懐なつかしがる布施の容貌おもてあらわれた真実——いずれも原の身にとっては追懐おもいでの種であった。
並木 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
かえって、日をるに従って、物語を聞きさした如く、ゆかしく、可懐なつかしく、身に染みるようになったのである。……
霰ふる (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
可懐なつかしそうに田代はあたりをみまわした。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
こんな言葉を親しげに交換とりかわしながら、お雪は家の内を可懐なつかしそうに眺め廻した。彼女は、左の手の薬指に、細い、新しい指輪などもめていた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ものゝ可懐なつかしかつたのは、底暗そこくら納戸なんどに、大鍋おほなべおもふのに、ちら/\とからんで焚火たきびであつた、このは、くるまうへから、彼処かしこ茶屋ちややときから
十和田湖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
何ものにも替難い可懐なつかしい古巣だった。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
早くの川の上流へ——小県ちひさがたの谷へ——根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可懐なつかしい故郷の空をさして急いだ。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
わっしどもは、どうかすると一日いちんちうちにゃ人間の数より多くお目にかかる、至極可懐なつかしいお方だが……後で分りました。
唄立山心中一曲 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
可懐なつかしい感じのする告別式だつた。
(新字旧仮名) / 久保田万太郎(著)
可懐なつかしいが、どうです——その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦蟇口がまぐちと手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「そんなことは有ません」と布施は言葉をやわらげて、さも可懐なつかしそうに、「実際、私は原先生のものを愛読しましたよ。永田先生にもくその話をしましたッけ」
並木 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
清葉は、また可懐なつかしさが身に染みた。……軒の柳のみどりも浅い、霞のようなすだれ一枚、じきそこに、と思うのが、気の狂った美人である。……寝ながら扇を……
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
光る帆、動揺する波、かもめの鳴声……可懐なつかしいものは故郷の海ばかりでは無かった。かつて、彼女が心を許したつとむ——その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
これが為に、護送の警官の足が留って、お孝は旅僧と二人、可懐なつかしそうに、葉が差覗さしのぞく柳のもとの我家に帰る。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
教会の空気に興味を失った捨吉にも、こうした信徒の話は可懐なつかしかった。真勢さんは築地の浸礼教会に籍を置いていて、浅見先生の教会なぞとは宗派を異にしたが。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
果してしからば、我が可懐なつかしき明神の山の木菟みみずくのごとく、その耳を光らし、その眼を丸くして、本朝ののために、形をおおう影の霧を払って鳴かざるべからず。
遠野の奇聞 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
すぐる年月の間、山本さんが思を寄せた婦人も多かった。不思議にも、そういう可懐なつかしい、いとしいと思った人達の面影は、時が経つにつれて煙のように消えて行った。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「あの、そう伺いますばかりでも、私は故郷の人に逢いましたようで、お可懐なつかしいのでござりますよ。」
湯女の魂 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何年も捨吉が思出さなかった可懐なつかしい国の言葉のなまりや、忘れていた人達の名前が、お母さんの口から引継ぎ引継ぎ出て来た。お母さんは捨吉から送った写真のことを言出して
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
くれないあけぼの、緑の暮、花のたかどの、柳の小家こいえ出入ではいりして、遊里にれていたのであるが、可懐なつかしく尋ね寄り、用あって音信おとずれた、くさきざきは、残らずかかえであり、わけであり
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「わたし」と言うかわりに女でも「おれ」と言い、「捨さん」と呼ぶかわりに「捨さま」と呼ぶような、子供の時分から聞き慣れた可懐なつかしい言葉の話される世界の方へ帰って行った。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そして、その時の絵のような美しさが、可懐なつかしさの余り、今度この山越やまごえを思い立って参ったんです。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
と曾根は可懐なつかしげに言って、お雪の手から子供を借りて抱いてみた。ひざの上に載せて、ほお推当おしあてるようにもしてみた。お房は見慣れないよそ叔母おばさんを恐れたか、声を揚げて泣叫ぶ。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
こんな辺鄙へんぴ温泉をんせんまゐつたのも、じつわすれられない可懐なつかしいたゝめです。何処どこらんが、木像もくざうは、ちゝ土地とちからつてかへつたとふぢやありませんか。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
東京の下町に人となった君は——日本橋天馬町てんまちょうの針問屋とか、浅草猿屋町さるやちょうの隠宅とかは、君にも私に可懐なつかしい名だ——恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
しかじかとしたためられぬ。見るからに可懐なつかしさ言わんかたなし。此方こなたもおなじおもいの身なり。
一景話題 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
とその友達は、お島がまだ娘でいた頃の姓を可懐なつかしそうに呼んだ。
岩石の間 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
銀杏いちょうの葉の真黄色まっきいろなのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐なつかしい、として、文金だの、平打だの、見惚みとれたように呆然ぽかんとして
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「永田君に?」と原は可懐なつかしそうに。
並木 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)