はかな)” の例文
「あなた方は、ここを落ちても、不忠ではない。せめてお命を保ったら、子を育ててはかない故主の御一門の御供養なとなされるがよい」
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その姿を見ると彼は、いつも自分の境遇に引き較べて、はかない優越感を感じながら、心持ちだけ救われたようなタメ息をするのであった。
老巡査 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
尖端せんたんうへけてゐるくぎと、へい、さてはまた別室べつしつ、こは露西亞ロシアおいて、たゞ病院びやうゐんと、監獄かんごくとにのみる、はかなき、あはれな、さびしい建物たてもの
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
が、私は、今日までもそうした哀れな死刑囚どものはかなもがいた文書の上に、いかに大いなる軽蔑と嘲笑とを投げ与えていたものであろうか。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
人の世のはかなさを、せめてもの思い出として、彼は吉良歴代の系譜の中から従四位に叙せられたものだけをえらびだし、三体の木像を刻ませた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
疲れ切った椅子テーブル、破れた衛生雑誌が卓上に散ばっており、精神修養の古本が一冊、白昼のはかない夢のように、しらじらしく載っている。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
はては、悄然しょうぜんかしられて、かいなに落した前髪がひやりとしたので、手折たおった女郎花おみなえしはかない露を、憂き世の風が心なく、吹散ふきちらすかと、胸にこたえる。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お徳の奴の文句がい、——「みんな消えてしまったんです。消えてはかなくなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。」
片恋 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
自分は哲学者でも宗教家でもないから深い理窟りくつは知らないが、自分の今、今という今感ずるところははかなさだけである。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
生は尊い さてすべては「因縁」だ、因縁によってできている仮の存在だと自覚した時、私どもはそこに「生ははかない」ことをしみじみ感じます。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
昼は、空と港が一つに煙って、へんに甘酸あまずっぱい大気のなかを黄塗りの電車がことこと揺れて通った。その警鈴は三分の一ほど東洋的にはかなかった。
ツルゲネーフのいわゆる Superfluous man ! だと思って、その主人公のはかない一生を胸に繰返した。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
金煙管きんぎせるたばこひと杳眇ほのぼのくゆるを手にせるまま、満枝ははかなさの遣方無やるかたなげにしをれゐたり。さるをも見向かず、いらへず、がんとして石の如くよこたはれる貫一。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
資本主しほんぬし機械きかい勞働らうどうとに壓迫あつぱくされながらも、社會しやくわい泥土でいど暗黒あんこくとのそこの底に、わづかに其のはかな生存せいぞんたもツてゐるといふ表象シンボルでゞもあるやうなうたには
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
難民の小倅こせがれどもがまだあきらめきれずに金帛きんぱくの類を求めてゐるのでございませう。……かうしてさしもの桃華文庫もあはれはかなく滅尽いたしたのでございます。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
秋になると、あたしの思い出に、旧東京の寄席風景のいくつかが、きっと、はかない幻灯の玻瑠絵はりえほどに滲み出す。
寄席行灯 (新字新仮名) / 正岡容(著)
その頃女の心には悩みとはかない希望とが満ちていた。彼はその心をやさしい慰安の眼でじっと見守った。そして二人の間にはしみじみとした温情が流れていた。
囚われ (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
一瞬間、はかなかった恋愛の泡が消えて、エモーションの波のなかに僕は、繊細な事件のために魑魅子にあたえた心理的な新らしい恋愛の鋳型いがたを見るのであった。
聞いたものはみな無念に思い、三河以来、御懇意ごこんいをねがった譜代の家来も、一朝にしてかような取扱いを受けるのかと、行末をはかなんでおいとまを願うものが出てきた。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
そう言えば「少年」などというのも、彼等にとっては、禁じられた恋愛感情の、はかない発散なのであろう。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)
はかない恋の逢瀬おうせに世を忘れて、唯もう慕い慕われて、酔いこがるるより外には何も御存じなく、何も御気の付かないような御様子。私は眼前めのまえ白日ひるの夢を見ました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
心からかつて消えなかった無言のやさしみをもってるあのはかない面影を、彼に思い起こさしたのである。
実在のものがはかな思出おもいでの影のように見えるまで、まことの生活の物事にこの心を動かさねばならぬのか。
極度の緊張から驚駭きょうがいへ、驚駭から失望へ、失望から弛緩しかんへ、私は恐ろしい夢と、金を取戻したはかない喜びの夢を、夢現ゆめうつつの境に夢みながら、琵琶湖のほとりをひた走りしていた。
急行十三時間 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
あの何か鏡のようにひっそりとした空で美しく燃え狂っている光の帯は、もしかするとあの頂点の方にすべてはあって、それを見上げている彼自身ははかない影ではなかろうか。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
などという甘いロマンチズムは、かくして虚空の外にケシ飛び、はかなくも粉砕してしまったのだ。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼の潤んだ涼しい眼や、口尻のしまつた円顔やに雪子の面影を見出して、香川を可愛ゆく思ひ、また夢見るやうなはかない心地で、私は遠い過去の果しない追憶にふけるのであつた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
結婚して最初の、一週間なり二週間なり、女房が逃げて居ると、非常にはかない事になる。
古代生活に見えた恋愛 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてばはかないものだつたのだらうか……。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
女御にょごきさきがねとよばれるきわの女性が、つくしびとにさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいたよみものを好むとあれば、わたしのはかなんだロマンスは上々のもので
柳原燁子(白蓮) (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
それでは、せめて、君の愛する其顏だけでも、其儘かはりなくまたと眺められるだらうか。悲しいことには、さういかない。或は思做おもひなしでさうとだまされることはあつても、はかない心の試に過ぎぬ。
落葉 (旧字旧仮名) / レミ・ドゥ・グルモン(著)
彼等は、宿命論者となって、大自然の無情をはかなむと同時に、一方では、被圧迫者の立場から、現在の都会中心制度、都会商工業制度から来る搾取階級の無法を恨み呪うようになってしまった。
はかない自分、はかない制限リミテッドされた頭脳ヘッドで、よくも己惚うぬぼれて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿あさましいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時小川町おがわまちを散歩したと思い給え。
予が半生の懺悔 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
かと思うと跡かられて行った、秋の薄日が追うようにして間もなくはかないその光を投げてぱーっと現われ出たりした。雨が、まるで歩いているかと思われるようにして過ぎてゆくようであった。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
けれども、これらの卓抜な文学的収穫を残した婦人達が、当時の社会でどういう風に生きていたかといえば、それはまことにはかない一生であった。どんな文学史を探しても、紫式部の名前は分らない。
私たちの建設 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
なんかと、若いやつらは、はかない期待に胸をときめかしております。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
それははかなく感ずる成長しかけた夢ではなかった。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
浜砂にはかなき夢の小草おぐさかな
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
この中国にを唱えた祖先赤松一族の行方はどこにありましょう。ぼうとして、去年こぞの秋風を追うようなはかない滅亡を遂げたままです。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この尖端せんたんうえけているくぎと、へい、さてはまたこの別室べっしつ、こは露西亜ロシアにおいて、ただ病院びょういんと、監獄かんごくとにのみる、はかなき、あわれな、さびしい建物たてもの
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
またあまりにはかない。土に映る影もない。が、その影でさえ、触ったら、毒気でたちまち落ちたろう。——畷道なわてみち真中まんなかに、別に、すさまじい虫が居た。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
行く水の流、咲く花の凋落ちょうらく、この自然の底にわだかまれる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほどはかななさけないものはない。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
はかないのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中でせめてはたのしみを求めやうとして、究竟つまり我々が働いてゐるのだ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
難民の小倅こせがれどもがまだあきらめきれずに金帛きんぱくの類を求めているのでございましょう。……こうしてさしもの桃華文庫もあわれはかなく滅尽いたしたのでございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
が——しばらく待っていただきたい、あれほど焦れに焦れて止まなかった落語家という世界に飽きだして小圓太、日夜をはかなみだしたのではつゆ更ないのだから。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
病室の淡い薬の香の籠った温気うんきが、壮助の心をはかないもののうちにさそい込んでいった。彼は苦しくなった。
生あらば (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
父のその様子を、小初は気の毒なはかない気持ちで見送ったが、結局何か忌々いまいましい気持になった。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お糸の方と手を括りあわされ、満座のなかで馬鹿舞を舞わされた沙汰さたのかぎりのたわけ加減を聞かされたら、腹を立てずにはいられまい。うらめしくも、はかなくも、情けなくもあろう。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
「だって、あんまりじゃごわせんか。誰から聞きなすったか知りゃせんが、今更そんなことを持出して私を責めたって……」とお隅はさもさもはかないという目付で、深い歎息ためいきいて
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
僕はそんなことを考へると、いつも何か可笑をかしい中にはかない心もちも感じるのである。
二人の友 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)