一縷いちる)” の例文
しかし、伸子にして見ると、このどうにもならない窮境を、どうにかして切抜けたいと、そこに一縷いちるの望みを抱くのにも無理はなかった。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
何故に僕等は知らず識らずのうちに一縷いちるの血脈を相伝したか、——つまり何故に当時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。
僻見 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
何かしら心の隅に一縷いちるの望みが残っているような気がした。彼はそれをたしかめるまでは、この勝負をあきらめる気にはなれなかった。
黒蜥蜴 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷いちるの希望を感じ
深川の散歩 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
一陣の北風にと音していっせいに南になびくこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷いちるの煙の立ちのぼること等
夜行巡査 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
みち一縷いちる、危い崖の上をめぐって深い谿を瞰下みおろしながら行くのである。ちょっとの注意もゆるめられない径だ、谿の中には一木も一草もない。
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
この夜お登和嬢は一縷いちるのぞみを抱いてねぬ。小山ぬしの尽力その甲斐かいあらば大原ぬしは押付婚礼おしつけこんれいのがれてたちまち海外へおもむき給わん。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
渓川たにがわに危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、かろうじて一縷いちるの細き力にいただきへ抜ける小径こみちのなかに隠れた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
姉の問題もあるが、しかし、今よるべき一縷いちるの糸もない新子のよりどころない心の寂しさが、そう決心させたのかもしれない。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それならば脈がある……あれほど無惨に殺された琵琶に、まだ一縷いちるの生命が残っていたか……地上に残された琵琶の形が助けを呼んでいる。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかしその一縷いちるの望みも絶え、今はその死を安からしめるために人々は集まり、慰めの言葉で臨終を見送ろうとするのだった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷いちるとなったと思えば、自ら慰むるところがあります。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
我邦わがくにの昔の「歌垣うたがき」の習俗の真相は伝わっていないが、もしかすると、これと一縷いちるの縁をいているのではないかという空想も起し得られる。
映画雑感(Ⅵ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっとあらわれて来た一縷いちるの光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷いちるの希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。
パンドラの匣 (新字新仮名) / 太宰治(著)
だがやつぱり不治なぞといふことはないだらうと、私は猶一縷いちるの望みは消さないで持つてゐたことに、誇りをさへ感じた。
亡弟 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
しかし、その晦迷錯綜としたものを、過去の言動に照し合わせてみると、そこに一縷いちる脈絡するものが発見されるのである。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
新九郎はその人達を見ると、また一縷いちるの未練をつないで、およその風姿なり恰好かっこうを話し、この街道でそれらしい人を見かけなかったかと訊ねてみた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かんがへてると隨分ずゐぶん覺束おぼつかないことだが、それでも一縷いちるのぞみつながやうにもかんじて、吾等われら如何いかにもして生命いのちのあらんかぎり、櫻木大佐さくらぎたいさ援助たすけつもりだ。
そして彼は、自分の心に一縷いちるの望みがわきあがってくるのを覚えて、ほんとに兄のために救いの道が開けたのかもしれないというような気がした。
見渡すかぎり、両側の森林これを覆ふのみにて、一個の人影じんえいすらなく、一縷いちるの軽煙すら起らず、一の人語すら聞えず、寂々せき/\寥々れう/\として横はつて居る。
空知川の岸辺 (新字旧仮名) / 国木田独歩(著)
当時三十二三歳ぐらいであった光明后は、観音像のモデルとしてもふさわしい。——かく考えれば、興福寺の伝説は一縷いちるの生命を得て来るであろう。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
一縷いちるの望みに妻の声はあかるかった。野菜スープも口にしない病人ではあるが、これならのどを通るかもしれない。
日めくり (新字新仮名) / 壺井栄(著)
泉下せんかの父よ、幸に我をゆるせと、地に伏して瞑目合掌すること多時、かしらをあぐれば一縷いちるの線香は消えて灰となりぬ。
父の墓 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
鴎外が抽斎や蘭軒らんけん等の事跡を考証したのはこれらの古書校勘家と一縷いちるの相通ずる共通の趣味があったからだろう。
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
重衡は、もともと不可能なこととは思っていたものの、さすがに一縷いちるの望みも絶たれたという想いは強かった。
そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵まぶちら一派古学をひらき『万葉』を解きようやく一縷いちるの生命をつなぎ得たり。
曙覧の歌 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
私は絶大の悲哀に沈みましたが、何だか其処に一縷いちるの希望があるようにも思いました。いう迄もなく人工心臓によって妻を救いるだろうという希望です。
人工心臓 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷いちるの死命をささえている。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
一縷いちるの望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷しぶや、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
南の方へ転地して、体が不思議に好くなったものは幾らもある。たとえ一縷いちるの望みでもある以上は、何も手をつかねているには及ばない。僕にだってまだ望みはある。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
船の姿はわしの一縷いちるの希望だ。だってそれででもなくて何をたのしみに生きるのだろう。もしも何かの不思議であの遠くをかよう船がこっちにやってくるかもしれない。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
一縷いちるの望みは、藩校主宰たる彼の人格が宗藩官吏に知己をもっていることであった。待つこと二カ月。弁舌や人格で左右出来るものでなかった。一切は無駄であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
一縷いちるの望みを抱いて百瀬さんの家へ行ってみる。留守なり。知った家へ来て、寒い風に当る事は、腹がへって苦しいことだ。留守居の爺さんに断って家へ入れて貰う。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
戦争前、美術学校の助教授が巴里をつという際にも、その他の時にも、まだ岡は一縷いちるの望みをそれらの人達の帰国につないでいた。最早岡の意中の人も行ってしまった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「弁士! 滅びたる我世界は、何年の後に復活すべきや、かつ如何なる動機に依って燦然さんぜんたる光輝を放つに至るか、希くは不安なる吾らが胸に一縷いちるの光を望ませて下さい」
太陽系統の滅亡 (新字新仮名) / 木村小舟(著)
しかし奴が吐き出すかも知れないと思って、途中で動物園に行くことをめにして料理店へ這入ってしまった。幸におれは一工夫して、これならばと一縷いちるの希望を繋いだ。
(新字新仮名) / オシップ・ディモフ(著)
いわんや一縷いちるの望みを掛けているものならば、なおさらその覚悟の中に用意が無ければならぬ。
水害雑録 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
思いがけなく、ふるかたではあるが宇宙艇が手に入ったので、地球へ帰る一縷いちるの望みができてきた。調べてみると、何というさいわいだろう。燃料はかなり十分にたくわえられていた。
月世界探険記 (新字新仮名) / 海野十三(著)
しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷いちるの期待が潜んでいた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
はいってゆく時には一縷いちるの希望を持っていたが、出て来る時には深い絶望をいだいていた。
命は実に一縷いちるにつながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
妙子もそれがねらいであり、それに一縷いちるの望みをつないで東京行きを思い立ったのに違いないので、義兄は彼女につかまえられないように逃げ廻るであろうが、彼女もさるもので
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
此処ここでも二百米近くも削立した峭壁で、鹿島槍側に在りては其縁に沿うて登降することは絶対に不可能であるが、五竜側は横をからめば窓の底に達し得る一縷いちるの望がないでもない。
八ヶ峰の断裂 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
さう、たしかに一縷いちるの望みは残されてゐる。それにとり縋つて見ようではないか。……
母たち (新字旧仮名) / 神西清(著)
併し、すごく恐ろしい感じを彼に与へたものは、自然の持つて居るこの暴力的な意志ではなかつた。反つて、この混乱のなかに絶え絶えになつて残つて居る人工の一縷いちるの典雅であつた。
もし果してさるものありとせば、しこの身自由となりし時、所有あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷いちるの光明を授けんこと、あながちにかたからざるべしとは、当時の妾が感想なりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
ヨブは大苦難の真只中まっただなかにありて前後左右を暗黒に囲まれつつ、一縷いちるこの光明を抱いたのである。以てこの語の偉大さを知るのである。これ人生の根柢こんていにおける彼の確信の発表である。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
純一はそれをはっきりとは考えなかった。あるいは彼が自ら愛する心に一縷いちるencensアンサンいて遣った女の記念ではなかっただろうか。純一はそれをはっきりとは考えなかった。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
恋人に捨てられ、かなしみにもだえながら、でも一縷いちるの望みをつなぎじっと待ちつづけている——彼は、彼女には、若い美しい彼女にだけは、そんな「不幸」は想像したくなかったのだ。
待っている女 (新字新仮名) / 山川方夫(著)