やつ)” の例文
それでも割合にせもやつれもしないのが矢張り気違いの生理状態なのかとあきれる。呆れながら加奈子は却ってそれが余計不憫になる。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何かあだめいた匂いがしてやつれた河合武雄と云ってもみたい女だった。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
硯友社けんゆうしゃの作家が、文章などに浮身をやつして、本当に人間が描けなかった中で、一葉丈は嶄然ざんぜんとして独自の位置を占めていますからね。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「マーメイド・タバン」の一隅で詩作にふけったり、手製の望遠鏡で星を眺めたり、浮気な恋に憂身うきみやつしたりしているのであった。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
美しい顔も幽霊のようにやつれてしまって、手にも足にも血が通っているとは見えません。ただ血走っているのはくぼんだ眼ばかりです。
子供役者の死 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
総監は過去一ヶ月間の心労によって、その頬にやつれが見えたが、電燈がついた時、いかにも寂しそうに笑って首相と顔を見合せた。
外務大臣の死 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
五十嵐博士の死後、この清純なる乙女の容貌に一種聖なるやつれともいうべき変化が現われて、その身辺にただならぬ気配が感じられた。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
清「おれはそれが望みだ、あの焼穴やけあなだらけの前掛けに、結玉むすびったまだらけの細帯で、かんぼやつして居るが、それでいのだから本当にいゝのだ」
撫子なでしこ、とりどりに取り散らし、色襲いろがさねの品評しなさだめに、今から憂き身をやつし合うなど、およそ持明院派の公卿で笑いの洩れぬ門はなかった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
貧しく乏しい裏長屋に蹴落され、狂い死に、この世を呪って死んだ、父親の、あのやつけたすがたが、今更のように思い合わされる。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
三足目に久光の眼に入った斉彬は、眠っているらしく、いつもの、穏かな顔——少しのやつれもなく、苦しみもなく眼を閉じていた。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
女子参政権問題の生じた事などに種種しゆ/″\の複雑した原因はあるにしても、その主たる原因は外面の化粧に浮身をやつ巴里パリイ婦人とちがつて
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
こはいかに、紛ふ無き親友ジァン・ガスパル・ドビュロオ、綱渡の一座中世に隱れ無き道化ものゝ蒼ざめやつれたる姿にあらずや。
胡弓 (旧字旧仮名) / ルイ・ベルトラン(著)
ひとくちに言うと、先生は、道徳は進歩するものか退歩するものかという、一見、迂遠な学問に憂身うきみやつしていられるのである。
犂氏の友情 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
色の青褪めた、ひんやつれた母親が娘の枕元に来た。じっとうれわしげに、眼を閉じている苦しげな娘の額際ひたいぎわに手を当てて熱をはかって見た。
夜の喜び (新字新仮名) / 小川未明(著)
青白くやつれた頬も異常からというよりは、生活上の苦しさを告げているようだった。そして、黒い頭髪にはよくくしが通っていた。
猟奇の街 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
もとは縹緻きりょうよしだったろう、眼鼻や顔だちはととのっているが、哀れなほどやつれて、頸や手などは乾いた焚木たきぎのように細かった。
おさん (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
見違えるほどやつれ果てた顔に、著しく白髪しらがの殖えた無精髯ぶしょうひげ蓬々ぼうぼうと生やした彼の相好そうごうを振り返りつつ、互いに眼と眼を見交みかわした。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
アルノー夫人はそれを親切な言葉で元気づけていた。彼女は相変わらず心安らかであるらしかった。しかし以前よりやつれていた。
病気でこんなにやつれている時に、初対面の人に会うのはどうであろうかと思わないでもなかったのだけれども、まさかその人と云うのが
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
幸田露伴氏が今のやうに文字の考証や、お説教やに浮身うきみやつさない頃、春になると、饗庭篁村あへばくわうそん氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐた。
えりのところに涼しげな白いレイスのついた愛らしい服装が、彼女の体をいくらかいさく見せていたが、やつれも顔に見えていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
みらるゝにひさしく浪々なし殊に此程は牢舍らうしやせし事ゆゑはなはやつれ居ると雖も自然と人品じんぴんよく天晴の武士さぶらひなりしかば大岡殿しづかに言葉を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
突然レムブルグが悲鳴をあげて廊下に飛出す、米良はバルコニに駈け上るとれた空気に蒼白あおざめた闘争にやつれた同志の死体が沈むのを見た。
地図に出てくる男女 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
其処そこ婿君むこぎみが、紋着もんつきはかまながら、憔悴せうすゐした寝不足ねぶそく血走ちばしり、ばう/\がみやつれたのが、弔扎てうれいをうけにえたのである。
続銀鼎 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
とっつあん」は嬉しそうにこう云うと、夜具の襟から顔を出した。「爺つあん」は酷くやつれていた。ほとんど死にかかっているのであった。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
不憫ふびんなほどやつれきった父の死にぎわの面影が眼に刻まれていたが、汽車に乗りこんで私たちはややホッとした気持になった。
父の葬式 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
三日寝ていたというやつれはありますが、二十五六の小意気な男で、伊丹屋の糝粉細工しんこざいくのような若旦那よりは、江戸の町娘には好かれそうです。
青白い細君の病気にやつれた姿がスーとあらわれたと云うんだがね——いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。
琴のそら音 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
切符賣の女のやつれた顏。小舍の前にしやがんでトーキイの音だけ聞いてゐる男二人。幟が二本、夜の海風にはためいてゐる。
……で、その五日ほどの間に、かれは、うそのようにげッそりやつれた。どんな長煩いでもしたあとのように自分にもそうトボンと感じられた。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
トムちやんが、やつれたお母さまの、いまスヤスヤと眠つた枕辺まくらもとに、静かにお坐りしてゐる時に、遠くから少年少女のコウラスが聞えてきました。
女王 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
が、どこかその顔立ちにも、痛々しいやつれが見えて、撫子なでしこを散らしためりんすの帯さえ、派手はでな紺絣の単衣の胸をせめそうな気がしたそうです。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
花瀬は次第にやつるるのみにて、今は肉落ち骨ひいで、鼻頭はなかしら全くかわきて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
烏が二羽、船ばたにとまって、そうして一羽はやつれて翼の色艶いろつやも悪いと来ているんだから、その引立たぬ事おびただしい。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
指して定まらぬ行衛ゆくえに結ぼるる胸はいよいよ苦しく、今ごろはどこにどうしてかと、打ち向う鏡はやつれを見せて、それもいつしか太息といきに曇りぬ。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
彼女はこう書き出して、それから暫く鉛筆の端で自分のやつれた頬を撫でながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
やが梅雨つゆおびたゞしく毒々どく/\しいくりはなくさるまではとしたのでをんなきたなげなやつれた姿すがたふたゝられなかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
浮雲を出して以来、殆んど二十年、てんで創作を構へつけず飜訳ばかりに浮身をやつしてゐたので、寸前暗黒おさきまつくら、困つて居る。
未亡人と人道問題 (新字旧仮名) / 二葉亭四迷(著)
年は二十五を越してはいまいが、いま焚火の明りで見ると、病気やつれの顔はいたましく蒼ざめて、少年のように見えた。
追放されて (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
菊は国華とさへ言はれたが、早くから人に愛されたので、色々な姿に身をやつし、色を競つたので駄目になつてしまつた。
雑草雑語 (新字旧仮名) / 河井寛次郎(著)
そうさね。不景気だからね。まあ大変にやつれているじゃあないか。そんなになったからには息張っていては行けないよ。
(新字新仮名) / ウィルヘルム・シュミットボン(著)
山県公はまのあたりその顔色を見ると痛くやつれておって、どんな不人情のものでももはや同情を惜しむ事の出来ぬほどである。
「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましいやつかたで会えば、愛想あいそうをつかされるだけのことですからねえ」
脳の中の麗人 (新字新仮名) / 海野十三(著)
何処か少しやつれたような彼の顔を見た刹那、伸子は、今まで自分を支えていた軸が、響を立ててくずおれるのを感じた。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
事の始めはくだくだしければ言はず、何れ若氣わかげの春の駒、止めても止まらぬ戀路をば行衞も知らず踏み迷うて、やつ憂身うきみも誰れ故とこそ思ひけめ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
あの頬のやつれも、あの顔の暗い影も、あの人の胸の異常から来るには違ひないが、それを益々色濃くして行くのは、私であるかも知れないと思ふと
脱殻 (新字旧仮名) / 水野仙子(著)
心持り出た粗い二本の前歯があらはになつて居たのが物凄く見えた。鏡に映つた自分のやつれた顔を眺めて、お桐はこれが自分の顔かと怪む程であつた。
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
彼は蒼ざめた幽霊のようにやつれ果てて、自分の失策しくじりのために彼女がどんなに苦しみ悩んでいるかと心をいため尽くして、所所方方をさまよい歩いていた。
そのうえ今泣いたせいか美しい眼のあたりがひどくやつれている。ここのあるじがさっきも、戻って来てからの話に
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)