じゃく)” の例文
心なしか、暮れかけている泥湖どろうみの水の光も、孤城の影も、何となくじゃくとして、雨のを身に迫る湿しめっぽい風が蕭々しょうしょうと吹き渡っていた。
茶漬三略 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山路を隔てて、ささやかな天女堂、それと縁つづきになって、この頽廃した宿坊が一宇、じゃくねんと。これぞ、奥之院と呼ばるる世外の一廓。
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
「古池やかわずとびこむ水の音」の句境の如く、彼は静の中にある動、じゃくの中にある生を見つめて、自然と人生における本質的実在を探ろうとした。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
したたるばかりの森影に、この妖姫ようきの住める美しの池はさざなみを立てて、じゃくとして声なき自然の万象をこの鏡中きょうちゅうに映じている。
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
この夏の歓楽境かんらくきょうK——に、こんなじゃくとした死んだようなところがあるのか、と思われるほど……、いや、Y海岸がけたはずれににぎやかな反動として
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
想うに独立は寛文中九州から師隠元いんげんを黄檗山にせいしにのぼる途中でじゃくしたらしいから、江戸には墓はなかっただろう。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その道は無始無終、常恒不変にして、よく万象の主となり、真にしてじゃく、霊々照々、幽邃ゆうすい玄通、応用自在なり。
通俗講義 霊魂不滅論 (新字新仮名) / 井上円了(著)
いくばくもなくして上野山王御供所の別当となり、天保のはじめ北品川宿二丁目なる日夜山にちやさん正徳寺の住職釈大霊の養子となり、明治十四年七月某日享年八十六を以てじゃくした。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そして一片の雲もない青空は黒く澄み上り、その中に白く輝いた太陽がじゃくとしてかかっていた。
『西遊記』の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
真常流注しんじょうるちゅう、外じゃくニ内うごクハ、つなゲル駒、伏セル鼠、先聖せんしょうコレヲ悲シンデ、法ノ檀度だんどトナル……
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らずじゃくとしたもの。
そよとも動かぬ灯影ほかげにすかして、そのじゃくたること死せるがごとき、病者の面をそとながめて、お貞は顔を背けつつ、おとがい深く襟にうずめば、時彦の死を欲する念、ここぞとさかんに燃立ちて
化銀杏 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
翌建仁二年(一二〇二)七月二十日に寂蓮がじゃくしたので、六人の撰者が五人になった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
ある国ではじゃくとして人影がない。他の国ではにぎやかに落ち葉の陰からほほえみ掛ける者がある。そのたびごとに子供は強い寂しさや喜びを感じつつ、松林の外の世界を全然忘れている。
茸狩り (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
スウ——ッ! と左膳が、単腕に乾雲丸を引き抜いて、正規の青眼につけると、栄三郎の手にも愛刀武蔵太郎安国がじゃくと光って、同じくこれも神変夢想、四通八達に機発する平青眼……。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
じゃくとした一座、ともすれば、滅入るような緘黙かんもくが続きそうでなりません。
杖により、壁にもたれて、じゃくとしているその人は、寝ているのか、起きているのか分らない。白い行衣ぎょうえすそを、かやの煙がうすくって——。
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ハタとめば、その空のれた処へ、むらむらとまた一重ひとえ冷い雲がかさなりかかって、薄墨色に縫合ぬいあわせる、と風さえ、そよとのもの音も、蜜蝋をもって固く封じた如く、乾坤けんこんじゃくとなる。……
霰ふる (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
じゃくとして答えもせぬ頼朝の姿を改めて見直すと、何かしら今度は自分がたしなめられているように、恥ずかしい心地がした。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一室じゃくたることしばしなりし、謙三郎はその清秀なるおもてに鸚鵡を見向きて、いたく物案ずるさまなりしが、憂うるごとく、あやぶむごとく、はた人にはばかることあるもののごとく、「琵琶びわ。」と一声
琵琶伝 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
へさきはそのまま進んだ、けれど佐助の櫓の手は、どうしても大きく動かなかった。——じゃくとして、人影も見えない島には、ひよどりが高く啼いていた。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして山伏が破って出たさくの間から寺内へ入ってみると、ここは、じゃくとして樹海の底に沈んでいる真夜中の伽藍がらんが眼にうつるだけなのである。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして、あれを……という意味を見せると、じゃくとしていた七人の中から、ひとりが立ってうやうやしく埋木をはずし……
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じゃくとして弾音たまおと一つしない。これが戦場かと疑われるほどである。蟷螂かまきりひとつ枯草へすべり落ちた音すらカサリと耳につく。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ところが、いつのまにか婆さんは、ピカピカ光る甘酒の釜を留守番にさせておいて、店は無人のままじゃくとしていたので、答える者がなかったわけ。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
数寄屋門に、四方庵の板額はんがくが仰がれ、門を入ると、奥まった植込から路地のこけじゃくとして、落葉の音しかしなかった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三界のほこりやあくたの大河も遠く霞の下に眺められ、叡山えいざんの法燈鳥語もまだ寒い芽時めどきを——ここ無動寺むどうじ林泉りんせんじゃくとして、雲の去来のうえにあった。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長方では、それまでの戦闘を、柵外の佐久間、大久保の二隊にまかせて、茶磨山ちゃうすやま全山の陣々、じゃくとしていたが
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かんの身境、じゃくの心境。やはり人間には、尊いものに相違ございません。けれど、まったくの閑人となっては、そのかいもありません。空寂くうじゃくというべきです。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
城の奥は、若葉のみどりにつつまれて、時折、初蝉はつせみの声がするほか、じゃくとしている。しかもなお今朝から登城した諸将で退さがって来るものは一名もなかった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じゃくとして——庵室のうちは静かなのである——ただ短檠たんけい一穂いっすいの灯が、そこの蔀簾しとみすだれのうちで夜風に揺れていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の言が終っても、まだ一座はじゃくとしていた。不平不満のみなぎっている気ぶりではない。平常、無考えに暮していた人々も、何かふかく魂を打たれたのである。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
耳は、松風やとりに洗われていても、頭は、洲股すのまたへ駈け、小牧山へ通い、血は風雲に沸々ふつふつと騒いでいる。まったくここの「じゃく」と彼とは、べつ物であった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
重喜しげよしが居城へ帰ってから無人になっている安治川屋敷は、大寺のようにじゃくとしていた。白髪しらがのお留守居とお長屋の小者が、蜘蛛くもの巣ばかり取って歩いている。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「幽。……つまりほんとのしずけさというものは、人もない山野の中のそれよりは、かえって、騒然たる市中のふとしたうちに、真のじゃくがあると申すらしい」
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
修羅しゅらの中にも、真空に似たじゃくがある。それは、勇者の姿にのみある。仏陀の背光はいこうにも似たものといえよう。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その夜のうちにも総評議があるかと予期していたが、本丸はじゃくとしているので、彼は二の丸へ入って寝た。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
外に立てば、銀河は天に横たわり、露はちて、旌旗せいきうごかず、更けるほどに、じゃくさらに寂を加えてゆく。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甚助は、云われた通り、身躾みだしなみを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人がじゃくとして坐っていた。
剣の四君子:03 林崎甚助 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
石もいわず、樹も語らず、闇はじゃくとしたままの闇であった。そしてややしばらくの沈黙がつづいていた。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こんな自然の暴威の中にも、じゃくとして、生きているかと思うと、彼は、何ともいえない爽快そうかいを覚えた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じゃくとしたいわあな、その前の荒れ果てた、一宇いちうの堂、昔ながらである、何もかも、ここだけは変っていない。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あるじはいない邸である。夜はなおさらじゃくとして、燈火ともしびの影は遠侍とおざむらいのいる部屋にしかしていない。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この比叡山にも大鉄槌だいてっついを下したため、それ以後の五山は、政治や特権から放逐され、今ではじゃくとして、元の法燈一すいの山にかえろうとしているが、今なお、法師のうちには
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ほりをわたり、城壁にとりつき、先手の突撃はさかんなるものだった。けれど城中はじゃくとして抗戦に出ない。すでに一手の蜀軍は城壁高き所の一塁を占領したかにすら見えた。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
治郎右衛門は、上座の——一段高い席に、じゃくと坐って、それらの顔をしばらく眺めていた。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
連日の戦とはいっても、それはこの広い城郭にあっては、大手の正面だけのことで、ここの搦手といったら、ほとんど、閑古鳥かんこどり昼時鳥ひるほととぎすの声さえするほどじゃくとした天嶮だった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
余りに動流の激しい、そして血なまぐさい世の中なので、その半面の「静」を求め、血ぐさい一瞬いっときを離れて、じゃくの中に、息をつこうという人々の声なき求めといえるであろう。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「一様に皆、じゃくたる一つの石でしかない。さしもの上杉、武田の名も夢のような」
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もう沢庵は口もきかない、深夜のじゃくとした天地があるだけで、そこに沢庵という改まった人間はないもののようである、彼の黒いすがたは、この山の一個の岩のようにしか見えていなかった。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)