なご)” の例文
素破すわとおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、なごやかな表情で、上原にドライブをしないかとさそっています。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
杯は、なごやかな主従のあいだを、幾たびも往復する。こういう打ち溶けた待遇たいぐうは、一族の者でも、めったに恵まれないものであった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その時の僕のなごんできた気持はこの絵にかれたのです。値段も安かったので買って帰りました。箪笥の上に飾ってあるのがそれです。
わが師への書 (新字新仮名) / 小山清(著)
一家の誰の眼も、にこやかに耀かがやき、床の間に投げ入れた、八重桜やえざくらが重たげなつぼみを、静かに解いていた。まことになごやかな春のよいだった。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
また晴れた心の清朗さ、慰められた心のなごやかさは、憂きに閉じた心よりもはるかに高められきよめられていると見てよいのであろうか。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
平凡なもの、なごやかなもの、眠たげなものが、ぼんやり覘き出す……。記憶の底に、思いがけなく、一種のはがいさで、吉乃の姿が……。
操守 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
かうがうしその薄光、寂び寂びしプラチナのすぢ、濃き淡き峰の畳みに、引きちがふ山の小襞に、また雨となごみ注げり、柔かき金色の霧。
あふるゝ浄福、なごやかな夢見心地、誇りが秘められなくて温厚な先生の時間などには、私は柄にもなく挑戦し、いろ/\奇矯きけうの振舞をした。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞なつがすみ棚引きかけ、眼を細めてでもいるようななごみ方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
なごやかな食事がすんでから、銀子は三人を三階の洋室へ案内したが、そこからは湖水が一目に見え、部屋も加世子の気に入った。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のようなもやなごんでいて、生暖かな物悩ましい日であった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
お勝手で働いてゐる、まだ若くも美しくもある女房に、かう聲を掛ける時は、平次の心持が一番なごやかで暇な時だつたのです。
そうして初めてなごやかに微笑って私の手にその手を結びつけ幾度か逡巡ためらいいくらか羞かしそうに口のうちで「お父さん」とそう呼びかけた。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
女中や書生等の家人たちが、さも大手柄おおてがらの大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へかけつけるので、いつも家中がなごやかににぎわっていた。
婦人ふじんたちの、一度いちどをさましたとき、あの不思議ふしぎめんは、上﨟じやうらふのやうに、おきなのやうに、稚兒ちごのやうに、なごやかに、やさしくつて莞爾につこりした。
露宿 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
子供らも追々に物事が分るようになりましてからは、母も何かと孫に話されるので、そうしたことから気分も大きになごむようになりました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
と、臆する色もなく、受け答えをしてから、目出度い歌を口ずさむ機転の良さに、清盛の気持も次第になごやかになってきた。
少年しょうねんには、おかみさんから、やさしい言葉ことばけたので、土地とちまでが、なごやかなしたわしいものにかんじられたのでした。
薬売りの少年 (新字新仮名) / 小川未明(著)
一、夫婦の部屋は貧困なりにやはり家庭だとうなずかせるなごやかな雰囲気があった。その中にたいへん小柄な女が立っていた。これが妻君だった。
黒い手帳 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分はだ一人で寂しく泣くことをすると心がなごみ、慰めが得られる。
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
これ等については後に私の所感を少しのべようが、とも角かかる中にあって松坂屋の建築は如何にもなごやかに見える。
新古細句銀座通 (新字新仮名) / 岸田劉生(著)
よく晴れた麗しい日和ひよりで、空気のなかには何か細かいものが無数になごみあっているようだった。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
なごやかな晩餐であつた。食後の枇杷びわを、鬼頭は、「これがよささうですよ」と云つて、母親に取つてやり、千種には
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
泡鳴は、そうしたなごやかな団欒だんらんには、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんなことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
「ああ、いいな、心がなごむ!」——紋也は半意識の中で、こう思って涙ぐみたくなった。「だがこれはなんだろう?」
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼女のみだれていた心が、だん/\なごんで来るのに従って、先刻の妹の方から受けた挨拶のことを、考えていた。先方は、自分を知っているに違ない。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
啖呵たんかを切ったものですから、浪人とはいえ、武士の手前、この雑言ぞうごんにムッとするかと思うと、釣を楽しんでいる浪人はかえってなごやかに笑いました。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
これを終へてから、私はまだ暫くぐづ/\してゐた。露がりたので花の群はとりわけ甘い香を放つて、非常にあたゝかくなごやかな、こゝろよい夕暮であつた。
そして私は、私たちのまえにただ一つの皺も、ただ一つの襞も、ただ一つのささやきもなしに開いているこの青い空間に不思議ななごやかさを見いだした。
映画と季感 (新字新仮名) / 中井正一(著)
だが、そのとき、殺気をなごめるようにぽっかりと光芒こうぼうさやけく昇天したものは、このわたりの水の深川本所屋敷町には情景ふさわしい、十六夜いざよいの春月でした。
久遠というえらそうな呪いも、二十年しかたたぬ今夜、ありがたい法力で己の爪がきほどいてしまったのだ。(なごやかなる微笑)みんなもよろこばないか。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
催眠中の硬直がそのまま持ち越され、屍体は石のように固くなっていたが、顔には、静かな夢のような影が漂い、それは変死体とは思われぬなごやかさだった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
その生涯における戦いと労苦とにより傷つき疲れたるからだに香油をそそぎて、戦塵せんじんを洗い、筋骨を和らげ、美しく、香り高く、なごやかに憩わせることです。
低音のキーにとりとめもなく指を触れながら、音響のなごやかな光明で、生活の迷夢を包み込むのであった……。
これは悪くすると、滞在中ずっと降り通すかも知れない、然しその時には又その時のこととはらをきめると、雨の音は落ち着かぬ旅の心をなごやかに静めてくれる。
雨の宿 (新字新仮名) / 岩本素白(著)
此の事更に御門みかど(後醍醐天皇の御事)の知ろし召されぬよしなど、けざやかに言ひなすに、荒き夷どもの心にも、いと忝き事となごみて、無為なるべく奏しけり。
武士を夷ということの考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々なごやかな円るい波紋を落していた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
俺の心は悪鬼のやうに憂欝に渇いてゐる。俺の心に憂欝が完成するときにばかり、俺の心はなごんで来る。
桜の樹の下には (新字旧仮名) / 梶井基次郎(著)
日曜毎に東京から押し寄せて来る多くの人々の足ににじられて、雑草は殆んど根絶えになり、小砂利まで踏み出されている地面から、なごやかに伸びた杉の樹は
首を失った蜻蛉 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
降り飽きた雨はとっくに晴れて、銀色になごむ品川の海がまるで絵に画いたよう——。櫓音ものどかにすぐ眼の下を忍ぶ小舟の深川通い、沖の霞むは出船のかしぎか。
うららかに晴れ静まった青空には、洋紅色ローズマダーの幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀ひばりの声や、頬白ほおじろの声さえもなごやかであった。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ほほえましい空気が一座の人々の心をなごめずにはおかない。誰の顔を見ても微笑の影が漂っている。
部屋の空気は期せずしてなごやかになり、私たち三人、なんだか互に親しさを感じ合った。私は、このまま三人一緒に外出して、渋谷のまちを少し歩いてみたいと思った。
乞食学生 (新字新仮名) / 太宰治(著)
こんななごやかな時間も、正篤がいないとまがもてず、なにか喰べても、酒を飲んでも面白くない。
桑の木物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
場面がすごはずなのに、すこしも凄惨せいさんさがなく、どことなく伸び伸びしているのは、島抜け法印の、持って生れた諧謔味かいぎゃくみが、空気をなごやかなものにしているせいであろう。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
経験しないと判らないが、日本の四季のようになごやかなもんじゃない。夏冬は烈しいんですよ
狂い凧 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
何ものかに對する清純ななごやかな信念が、滿ち潮のように彼の魂をひたひたと滿した。——『この氣持はリーザがおくってよこしたのだ、今あの子は俺と話をしているのだ』
大きなひづめが音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつもなごんで来た。
玉菜ぐるま (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
私は、そのなごやかな表情に心持ち微笑を湛えている洋服を着た紳士が、私の学生時代、豪放な態度で街をのし歩いていた柔道家の中野正剛と同一人物だとは想像もしなかった。
そしてまた一つ拙者不孝ながら孝に当る事がある。兄弟内に一人でも否様の悪い人があるとあとの兄弟自然と心がなごみて孝行でもするようになる。兄弟もむつまじくなるものじゃ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)