不忍しのばず)” の例文
山城屋の夫婦はいつまでも子のないのを悲しんで、近所の不忍しのばずの弁天堂に三七日さんしちにちのあいだ日参にっさんして、初めて儲けたのがお此であった。
半七捕物帳:13 弁天娘 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
女ノ女郎めが、不忍しのばず弁天サマ裏ニテ、お参リノ途中、腰ニ結ンデおったる、シゴキを盗み取られたとなり。くやしいが、ベッピンなり。
そこから池之端へ出、不忍しのばずの池のほとりをまわって、弁天の茶屋のほうへゆくあいだ、新八はうしろから、おみやの姿をつくづくと眺めた。
吹奏なさりまし、吹奏まし。何の貴女、、誰が咎めるもので。こんな時。……不忍しのばずの池あたりでお聞き遊ばすばかりでございます。」
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
折柄おりから四時頃の事とて日影も大分かたぶいた塩梅、立駢たちならんだ樹立の影は古廟こびょう築墻ついじまだらに染めて、不忍しのばずの池水は大魚のうろこかなぞのようにきらめく。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
一、父は不忍しのばずの某酒亭にて黒田藩の武士と時勢の事につき口論の上、多勢に一人にて重手おもで負い、無念ながら切腹し相果あいはつる者也。
斬られたさに (新字新仮名) / 夢野久作(著)
かくして塔はむねに入り、棟はとこつらなって、不忍しのばずいけの、此方こなたから見渡すむこうを、右から左へ隙間すきまなく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
東叡山を削平さくへいして、不忍しのばずの池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方かみがたに実行して居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
福地源一郎君が不忍しのばずの池のほとりに別荘を建てて日蓮上人の脚本を書いている。それを他から見るとたいそう風流に見える。
後世への最大遺物 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
黒い糸はその辺から右折して、電車通りを避けながら、上野公園不忍しのばず池のそばを通って、ついに浅草公園裏通りに出た。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
不忍しのばずいけうかぶ弁天堂とその前の石橋いしばしとは、上野の山をおおう杉と松とに対して、または池一面に咲く蓮花はすのはなに対して最もよく調和したものではないか。
不忍しのばず池畔いけのはたへ出る。それから先は町家町で露路や小路が入り組んでいる、自由にまぎれて隠れることができる。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
酔ったまぎれで掛合う積りでいると、其の内八ツの鐘がボーンと不忍しのばずいけに響いて聞えるに、女房は熱いのに戸棚へ入り、襤褸ぼろかぶって小さく成っている。
父の通夜明けの春の宵に不忍しのばずの蓮中庵ではじめて会った雛妓かの子とは、ほとんど見違えるほど身体にしなやかな肉の力が盛り上り、年頃近い本然のいろめきが
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
不忍しのばずの池の落口おちぐちになった橋の側まで往ったところで、ばかばかしくなって来たので、引返して帰って来た。
妖影 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
不忍しのばずの池、と或る夜ふと口をついて出て、それから、おや? 可笑しな名詞だな、と気附いた。これには、きっとこんな由来があったのだ。それにちがいない。
懶惰の歌留多 (新字新仮名) / 太宰治(著)
不忍しのばずの池へいつたのは知らないと言ひ、駒吉は、お吉が風呂場へ行つたのさへ知らないと言つてをります。
どう、ここから池の端へ降りて、不忍しのばずの池の橋を渡って、医科大学の裏の静かな道を一高の前へ出て、あすこで梅月の蜜豆を喰べて、追分のところで、別れるの。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
鳴き渡る音も趣味おもむきある不忍しのばずの池の景色を下物さかなのほかの下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋ほうらいやの裏二階に、気持のよさそうな顔して欣然と人を待つ男一人。
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そこは、三つばかりある高い玻璃窓ガラスまどの一つを通して、不忍しのばずいけの方を望むような位置にある。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
大正四年の夏より秋に掛けて上野不忍しのばず池畔に江戸博覧会なるものが催された。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
花時以外の物見遊山ものみゆさん、春は亀戸の梅、天神の藤、四つ目の牡丹ぼたん、夏は入谷いりやの朝顔、堀切の菖蒲、不忍しのばずの蓮、大久保の躑躅つつじ、秋は団子坂だんござかの菊、滝野川の紅葉、百花園の秋草、冬は枯野に雪見
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
二人の姿は、まもなく、不忍しのばずいけを見晴らした蓮見はすみ茶屋に上がっていた。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三十年の新年に初めて新年宴会が不忍しのばず弁天境内の岡田亭で催おされた。その時居士は車に乗って来会した。其村君が余興として軍談を語った。平生のドンモリに似合わず黒人くろうとじみて上手に出来た。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
そして、上野の不忍しのばずの池のほとりに来たときに自然と二人の足はまった。
不忍しのばずの池の溢れた水中をジャブジャブ漕いで、納涼博覧会などを見物し、折から号外号外の声消魂けたたましく、今にも東都全市街水中に葬られるかのように人をおどかす号外を見ながら、午前十一時五十五分
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
そしてこそこそとそこを立ちのいて不忍しのばずいけに出た。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
不忍しのばずノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ
ここの娘は弁天様の申し子であったそうですが、ちょうど十八の時に不忍しのばずの池に入って池の主の大蛇になったと言い伝えられています。
江戸の化物 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
連れて不忍しのばず蓮見はすみから、入谷いりやの朝顔などというみぎりは、一杯のんだ片頬かたほおの日影に、揃って扇子おうぎをかざしたのである。せずともいい真似をして。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
障子をもう一枚開けひろげて、月の出に色もうるみだしたらしい不忍しのばずの夜の春色でわたくしの傷心を引立たせようとした逸作もついさじを投げたかのように言った。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
不忍しのばずいけに星が映り、絃歌が聞え、根津の裏町に蚊柱の立迷ふ頃、私は全く疲れてうちへ歸つて來た。
歓楽 (旧字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
雪もよいに曇った、午後の空を映して、不忍しのばずの池は冷たく、びたような光りを湛えている。
雪と泥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
夕日はへやなかに満ちた。庭に出て遊ぶ人も何時の間にか散って了った。不忍しのばずいけの方ではちらちらあかりく。私達は、半分死んでいる子供の傍で、この静かな夕方を送った。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「股を縛つた扱帶しごきを搜せ。それから遺書かきおきくらゐはあつたかも知れない、——不忍しのばずの池が眼の前にあるんだ、石でも縛つて投り込まれた日にはちよいとすぐ見付けるわけにも行くまい」
不忍しのばずの池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池のはすも、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸をとどめ、ぞろぞろ通る夕涼みの人も間抜け顔して、疲労困憊こんぱいの色が深くて
座興に非ず (新字新仮名) / 太宰治(著)
上野の山を黙々として歩いていた省三は、不忍しのばずの弁天と向き合った石段をおり、ちょうど動坂どうざかの方へ往こうとする電車の往き過ぎるのを待って、電車みちをのそりと横切り弁天の方へ往きかけた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
五月三十一日 紅緑こうろく上京。肋骨、鼠骨そこつと四人、不忍しのばず、笑福亭に会す。
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
不忍しのばずいけ懸賞けんしやうづきの不思議ふしぎ競爭きやうさうがあつて、滿都まんとさわがせたことがある。いけ内端うちわ𢌞まはつて、一周圍ひとまはり一里強いちりきやうだとふ。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
そうして江戸の客から聴いたことのある浅草の観音さまや、上野の桜や、不忍しのばずの弁天さまや、そんな江戸名所のうわさなどを面白そうに男に話して聞かせた。
心中浪華の春雨 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
わたくしがこの言葉を逸作の口から不忍しのばずの蓮中庵で解説されたときは、左程のこととも思わなかった。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
その頃の不忍しのばずの池は、月雪花の名所で、江戸の一角の別天地として知られました。
不忍しのばずの弁天社へ橋が架ってから、参詣さんけい人がふえたので、掛け茶屋の店を出したのが、しだいに大きくなり、家数も増して、いまではどの店にも若い女を置き、飲み食いもできるようになっていた。
すると、その憎らしいみきの間から、向うに見下みおろ不忍しのばずいけ一面に浮いているはす眺望ながめが、その場の対照として何とも云えず物哀れに、すなわち、何とも云えずなつかしく、自分の眼に映じたのである。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そんなことが不忍しのばずの池のほとりを歩いて行く彼の心を楽しくした。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その日より、人呼んで、不忍しのばずの池。味気ない世の中である。
懶惰の歌留多 (新字新仮名) / 太宰治(著)
其處そこる、……百日紅さるすべりひだりえだだ。」上野うへの東照宮とうせうぐう石段いしだんから、不忍しのばずいけはるかに、大學だいがく大時計おほどけいはり分明ぶんめいえたひとみである。かゝるときにもするどかつた。
湯どうふ (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
その頃、下谷の不忍しのばずの池浚いが始まっていて、大きな鯉や鮒が捕れるので、見物人が毎日出かけていた。
(新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
早瀬 ああ、行くがい、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍しのばずまで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
湯島の境内 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)