わだかま)” の例文
蒼白い、悲哀が女の黒髪の直後にわだかまる無限の暗のなかに迷い入るとき、皮一重はアルコールでほてっても、腹の底は冷たい、冷たい。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
或は木曾駒の金懸の小屋又は甲斐駒の屏風岩の小屋から上に露出しているような、恐ろしく大きな一枚岩のわだかまりも少ないようである。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
外に何もわだかまりのないことに安心して来たのであるから、妙に渋り勝な松村の詞を聞いてはあせり気味にならざるを得なかつたのである。
瘢痕 (新字旧仮名) / 平出修(著)
予は予が最期さいごに際し、既往三年来、常に予が胸底にわだかまれる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿等けいらの前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。
開化の殺人 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
此等の声は、段々と暗くなり、涼しくなつて行く夕暮の空気の中に、涼しげに賑やかにわだかまりなく響いた。蜩の声は止んでも聞えた。
秋の第一日 (新字旧仮名) / 窪田空穂(著)
女は何んの躊躇もなくに寄ると、至って器用に漕ぎ始めながら、わだかまりのない調子で、——こう忠弘に用事をいいつけるのでした。
「おとつゝあ、べてえものでもねえけえ、明日あした川向かはむかうつてべとおもふんだ」勘次かんじはまだいくらかこゝろわだかまりがあるといふよりも
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ベルナルデーヌの街から河岸に出て、橋を渡ると、左には黒いノートル・ダムが高くそびえ、右には低い死体収容所ラ・モルグわだかまっている。
雨の日 (新字新仮名) / 辰野隆(著)
快活で、わだかまりがなくて、話が好きで、碁が好きで、ひまさえ有れば近所を打ち歩き、大きなくしゃみを自慢にする程の罪のない人だった。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
初めのうちは夜だけしか見えなかったのが今は真昼でも見えることに成り、あたかも大空に恐ろしい龍のわだかまっている様にも思われた。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
ただ斯様かように現実界を遠くに見て、はるかな心にすこしのわだかまりのないときだけ、句も自然とき、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
今迄私の心の隅のわだかまりとなっていた色々の事実が、この私の発見を裏書きでもする様に、続々思い出されて来るのでありました。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
あたかも毘廬沙那大仏びるしゃなだいぶつの虚空にわだかまって居るがごとき雪峰にてその四方に聳えて居る群峰は、菩薩のごとき姿を現わして居ります。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
紅葉と私とは妙なイキサツから気拙きまずくなっていたが、こうして胸襟きょうきんを開いて語ればお互に何のわだかまりもなく打解ける事が出来た。
しかし、客観的には内容が無いが、主観的にはです、米友の頭の中には、かなり米友として複雑なる感情がわだかまっているのです。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
初めに眼につくのは、広重や北斎の描いたような樹齢数百年と思われる松の古木が、点々と巨竜のわだかまる恰好で、蒼空に聳えている風景だった。
箱根の山 (新字新仮名) / 田中英光(著)
いつに似合はぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽くしか、不憫やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸にわだかまれば。
したゆく水 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
その中央で王座のようにわだかまって君臨しているのが、黄銅製の台座の柱身にはオスマン風の檣楼しょうろう羽目パネルには海人獣が象嵌ぞうがんされていて、その上に
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
擬勢は示すが、川柳に曰く、鏝塗こてぬりの形に動く雲の峰で、蝋燭の影にわだかまる魔物の目から、身体からだを遮りたそうに、下塗の本体、しきりに手を振る。
菎蒻本 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
百日紅の大木のわだかまった其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程好く一目に見渡されるようになっている。
百花園 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上にわだかまる連嶺が青く見えて來た。南の方には、日高境の青い高山が見える。
熊の足跡 (旧字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
ただ私の胸にも昨夜以来モヤモヤとわだかまっているこの妙な気持を幾分でもらさなければ、どうしても気がすまなかった。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上きょうじょうわだかま連嶺れんれいが青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山こうざんが見える。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心にわだかまるのであった。
(新字新仮名) / 原民喜(著)
僕等は赤彦君のまへにいつはりを言ひ、心に暗愁のわだかまりを持つて柹蔭しいん山房を辞した。旅舎やどに著いて、夕餐ゆふさんを食し、そして一先づ銘々帰家きかすることにめた。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
書きぶりも自分のによく似た上、運ぶこころも自分へ向けてゐるものばかりであつた。あの虫のやうな女に、こんな纏綿てんめんたる気持がわだかまつてゐたのか。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
行く水の流、咲く花の凋落ちょうらく、この自然の底にわだかまれる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほどはかななさけないものはない。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
無批評に自分の尊貴を許すということは、自分の内にわだかまっている多くの性質の間の関係をことごとく変化せしめた。
自己の肯定と否定と (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
解らんものでございますから名御奉行は皆向うの云う事を聞きますに、心にわだかまりがあると言葉に濁りがあるから、目を眠って裁判を致されたと申しますが
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
此歳月の間に如何いかなる進歩ありしか、如何なる退歩ありしか、如何なる原素と如何なる精神が此文学の中にわだかまりて、而して如何なる現象を外面に呈出したるか
彼を中心とした一団はまことにわだかまりがない。彼を卑しめることなく、煙管の折れとマッチの軸によって生じる音色に聴き惚れる。そして、金を置く者があると
乞はない乞食 (新字旧仮名) / 添田唖蝉坊(著)
あれ以後、小右京のいきさつは、どっちからもまだ、そのわだかまりを口にして解く機会もなくつい過ぎている。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この弊は近年に至るまで予の胸底にわだかまりて長く害毒を流したり。俗宗匠輩またこの法を慣用する者多し。
俳句の初歩 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
自分は茲で、古い記憶を呼び覺して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事のわだかまるありて、今往時を切實に忍ぶことをさへぎつて居る。
葬列 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
自分が本気になれない焦立たしさもわだかまっていて、ともすると小競合こぜりあいが、佃との間に再燃しそうになった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
その木は地上に出ている部分だけを人は眺めているが、同じ深さにその根は地中にわだかまっているのである。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
忽然たちまち樣々さま/″\妄想まうぞう胸裡こゝろわだかまつてた、今日こんにちまでは左程さほどまでにはこゝろめなかつた、こく怪談くわいだん
赤羽主任は、それをチラと見るや、たちまちにして脳裡にわだかまっていた疑問を一掃いっそうし得ることが出来たのだ。
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
俺にとっては実に望外なことで、久しい間、心の中にわだかまッていた鬱懐が一時に晴れあがるような気がした。生涯を通じて、この時ほど天空海濶な思いをしたことがない。
湖畔 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
しばらくすると、二歳ふたつになる子が、片言交かたことまじりに何やら言う声がする。み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りもわだかまりもなかった。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
針の痕は次第々々に巨大な女郎蜘蛛じょろうぐも形象かたちそなえ始めて、再び夜がしら/\と白みめた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本のあしを伸ばしつゝ、背一面にわだかまった。
刺青 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「要するに程度問題さ。晴れたって完全に湿気のないことはない。殊に低気圧のわだかまっている時は上から落ちて来なくても前後左右一種の雨に取り巻かれているんだからね」
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
このことは、金五郎と、勝則の、そして、組合の幹部の胸のなかに、共通にわだかまっていた不安であった。不安というより、戦慄をともなうような恐怖といった方が近かった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
著作者と出版業者との間にわだかまる情實などに拘泥せず、もとつ廣々とした自由な天地へ踏み出して行かれるかと考へ、一方には江戸時代から引き續いて來た作者氣質を脱して
桃の雫 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
私達は当時は彼がそんなに恐ろしい悪人とも思いませんでしたから、最早私達の事には、わだかまりを持っていないものと考えていましたが、それは私達がお人好すぎるのでした。
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
蛇で占う事、『淵鑑類函』四三九に、『詩経類考』を引いて、江西の人、菜花蛇てふ緑色の蛇を捕え、そのわだかまる形を種々のと名づけ、禍福を判断し俚俗これを信ずとづ。
たとえば口にするも驚くべきことではあるが、一八二一年には、大運河と言わるる囲繞溝渠いじょうこうきょの一部が、ちょうどヴェニスの運河のように、グールド街に裸のままわだかまっていた。
この問題は永く僕の心にわだかまっているもので、今日こんにちもまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考ぐこうを述べて世人の教えをいたい。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
前面に黒部別山わだかまる、半時間くらいにて雪崩れたるあり、右側に道あれど詳かならず、川原を進み尾根に取付き等してなかなか渉らず、力つき暗くなりたれば河原に野宿せり
単独行 (新字新仮名) / 加藤文太郎(著)
単に雷雨の後の天の川ならば、取立てていうほどのこともないが、雨は已に晴れて、しかも一方には雷のおさまった雲がわだかまっているというところに、多少複雑な趣が窺われる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)